洲本城

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洲本城
兵庫県
別名 三熊城
城郭構造 山城、平城
天守構造 連結式(1587年頃築・非現存)
(層塔型4重4階、鉄筋コンクリート模擬 )昭和3年
築城主 安宅治興
築城年 室町時代後期
主な改修者 脇坂氏(山城)
蜂須賀氏(平城)
主な城主 安宅氏仙石氏脇坂氏
藤堂氏池田氏蜂須賀氏
廃城年 明治4年(1871年
遺構 石垣、天守台、堀
指定文化財 国史跡
再建造物 模擬天守
位置 北緯34度20分15.73秒 東経134度54分10.35秒 / 北緯34.3377028度 東経134.9028750度 / 34.3377028; 134.9028750座標: 北緯34度20分15.73秒 東経134度54分10.35秒 / 北緯34.3377028度 東経134.9028750度 / 34.3377028; 134.9028750
地図
洲本城の位置(兵庫県内)
洲本城
洲本城
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洲本城の位置(日本内)
洲本城
洲本城

洲本城(すもとじょう)は、淡路国津名郡洲本[1]兵庫県洲本市小路谷)にあった日本の城。別名三熊城。国の史跡に指定されている。

沿革[編集]

1526年大永6年)、三好氏の重臣・安宅治興が築城した。治興の後は養子安宅冬康三好長慶弟)、冬康死後は長男信康、二男清康へ受け継がれ[2]1581年天正9年)の淡路討伐の際、総大将羽柴秀吉に降り、城は仙石秀久に与えられた。しかし、秀久は九州征伐の際に軍律違反を犯して高野山へ追放され、かわって脇坂安治が城主となり、城の大改修を行った。現在遺構として残る大部分が築かれた[3]。この時、天守が造営されるとともに、石垣の大改修の際、倭城での経験から「登り石垣」が築かれた。

江戸時代になり、姫路城池田輝政の三男忠雄が領主になった際に廃城となり、まず岩屋城、次に由良成山城に居城する。これは関ヶ原の戦い以降も、豊臣方大名の動きを牽制するために、徳川家と縁戚関係にある池田氏(忠雄の正室は徳川家康の孫)に播磨灘大坂湾一帯を防衛させるためとされる。

大坂夏の陣の後、徳島藩蜂須賀氏の所領となり、筆頭家老の稲田氏一族が由良城代となるが、交通の便が悪いなどの理由から1631年から1635年にかけて由良城を廃して洲本城に再び本拠を移した。この移転は城下町ごとの大移転であったため俗に「由良引け(ゆらびけ)」と呼ばれている。 現在は曲輪、石段、石垣跡などが残る。天守台からの眺望「大浜を大観」と三熊山東側展望台からの「マリーナを展望」は洲本八景の1、2に選ばれている。

現在ある模擬天守は、1928年昭和3年)に御大典(昭和天皇の即位式)を記念して、鉄筋コンクリート製で築造されたもので、江戸時代の天守を復元したものではないが模擬天守としては日本最古のもので、展望台に特化した建物である。

「由良引け」以降に築かれ、明治まで続いた「下の城」とは史跡としては全く別の時代のものと考えられ、「上の城」と分類されている。

上の城は1999年平成11年)1月14日、国の史跡に指定され、下の城も洲本市の史跡に指定されている。 下の城の跡地にはかつての洲本城(上の城)に関する資料を展示する洲本市立淡路文化史料館などがある。

上下の城を繋ぐことで防御力を高めた「登り石垣」という全国でも数例しかない珍しい遺構が良好な状態で保存されていることが評価され、2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城に選定された[4]。(164番)

石垣のライトアップや周辺の樹木の伐採を行うなど整備が行われている。2011年(平成23年)3月はじめに模擬天守の壁面にひび割れが見つかり、補修工事を行うことになったため模擬天守への立ち入りは禁止されていたが[5][6]、2013年3月から本格的に改修工事が行われ[7]、9月までに屋根瓦の吹き替えと耐震補強工事が完了した[8][9]。改修後の模擬天守は展望台の機能は失われている。

洲本城からの眺望

所在地[編集]

  • 城郭遺構地域面積 - 278,459.9
  • 所在地
    • 山上 - 〒656-0023 兵庫県洲本市小路谷(三熊山)
    • 山下 - 〒656-0024 兵庫県洲本市山手一丁目

本丸内[編集]

洲本城跡には昭和初期から売店が複数あったが、最後の茶屋だった「天守茶屋」も2018年夏に閉店した[10]。「天守茶屋」の経営者の親族が洲本市に建物を無償譲渡し、市によって休憩所として整備され、2022年3月に開店した[10][11]。洲本市では民間事業者に運営を委託するため公募し[11]、2023年3月18日からFC.AWJによる運営で「HANARE」として原則として土日のみ営業している[12]

現存建物[編集]

下の城の迎賓館として建てられた金天閣が、明治初めには、淡路高等女学校(現在の兵庫県立洲本高等学校)に移築されて作法室として使用され、その後洲本八幡神社境内に移築されている。(兵庫県指定文化財建造物

交通アクセス[編集]

  • 高速バス洲本バスセンター行き終点下車、徒歩約60分(上の城)、徒歩約20分(下の城)
  • 洲本バスセンターから淡路交通・由良線 「由良福祉センター」行き路線バスで「公園前」下車(下の城)、徒歩約40分(上の城)

周辺[編集]

創作・フィクション[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 「角川日本地名大辞典 28 兵庫県」
  2. ^ ただし、近年の安宅氏の研究では、冬康の子の実名を信康・清康とする裏付けは存在せず、また冬康の嫡男・神太郎の没後は三好実休の子・神五郎が継承したとされている(天野忠幸「三好一族の人名比定について」(初出:天野『戦国期三好政権の研究(初版))』(清文堂、2010年)/改訂所収:天野『増補版 戦国期三好政権の研究』(清文堂、2015年) ISBN 978-4-7924-1039-1))。
  3. ^ "洲本城". 日本の城がわかる事典. コトバンクより2022年2月6日閲覧
  4. ^ 吉田博行 (2017年4月11日). “洲本城、続日本100名城に 「登り石垣」高評価”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 朝刊 淡路版 
  5. ^ 洲本城天守閣への立入禁止について”. 洲本市 (2011年3月8日). 2013年4月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月10日閲覧。
  6. ^ 洲本城天守閣の修繕に伴う一部通行止めについて”. 洲本市 (2013年2月15日). 2013年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月10日閲覧。
  7. ^ “模擬天守閣すっぽり 洲本城改修工事”. 朝日新聞デジタル. (2013年3月16日). http://www.asahi.com/area/hyogo/articles/MTW1303162900007.html 2014年5月17日閲覧。 
  8. ^ 洲本城 | 神社やお寺の社寺建築、木造住宅は淡路島の淡路工舎へお任せ”. 淡路工舎. 2014年5月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年7月10日閲覧。
  9. ^ 洲本城 模擬天守閣復活”. 淡路工舎淡路瓦 昭和窯業株式会社 スタッフブログ (2013年9月12日). 2014年5月17日閲覧。[出典無効]
  10. ^ a b 洲本城跡の茶屋、休憩所に再生 洲本市が改修、軽食など提供事業者公募へ 神戸新聞(2022年3月17日閲覧)。
  11. ^ a b 洲本城跡集客へ「夏の陣」かき氷、スイカで「涼」提供、ガイド常駐し無料で解説 8月21日までの土日祝 神戸新聞(2022年7月31日閲覧)。
  12. ^ 洲本城跡本丸売店「HANARE」オープン”. 淡路ジャーナル. 2023年5月6日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]