河埜敬幸

河埜 敬幸
カナフレックス GM
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県八幡浜市
生年月日 (1955-04-18) 1955年4月18日(69歳)
身長
体重
179 cm
78 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1973年 ドラフト3位
初出場 1975年9月4日
最終出場 1989年10月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

河埜 敬幸(こうの たかゆき、1955年4月18日[1] - )は、愛媛県八幡浜市出身の元プロ野球選手内野手外野手[1]コーチ解説者2020年からは社会人野球カナフレックスゼネラルマネージャー。

ニックネームは「カメ[1]、「シコ」。

元・巨人遊撃手河埜和正は実兄である[2]

経歴[編集]

河埜家はスポーツ一家であったが、名前の「敬幸」の由来は1500gという超未熟児として生まれて生死の境をさまよったため、両親の「幸せに生きているだけでいい」という願いからであった[3]。兄を追いかけるように八幡浜工高で野球部に入り、3年次の1973年夏の甲子園県予選準々決勝に進むが、八幡浜高にコールド負けを喫す。同年のドラフト3位で南海ホークスに入団[1]1975年シーズン途中には、島本講平近鉄バファローズへの移籍に伴い、32から島本がつけていた8へと異例の1桁番号への変更となる。1976年には一軍に定着し、遊撃手や二塁手として20試合に先発出場。1977年には5月から桜井輝秀に代わって二塁手のレギュラーを獲得し、シーズン後半には遊撃手と三塁手も兼ねて活躍。この年オフ野村克也が監督を解任され、遠征先の同室で懇意にしていた江夏豊に同調し、共に退団を希望していたが、江夏の懸命の説得により翻意する。

監督が広瀬叔功に交代した1978年は故障で出遅れるが、5月には二塁手に復帰して初の規定打席(30位、打率.246)に到達し、リーグ最多の23犠打もマーク。1979年には本職の二塁手としての出場が増えたことも好影響となったのか、自己最多の25盗塁をマーク。兄が以後も達成できなかった打率.300(13位)を記録し、同じく兄弟選手として活躍した定岡智秋と二遊間を守る[4]同年のオールスターゲームには河埜兄弟唯一の同時選出を果たしている。再び三塁手や遊撃手に回ることが多くなった1980年には急失速するが、1981年に二塁手がメインになると、打撃も復活の兆しを見せ始める[3]1982年には初の全試合出場で、全試合を二塁手として過ごした最初で最後のシーズンともなった[3]1983年は、前年オフに藤原満が引退したことで新たにリードオフマンとなり[3]、4月23日の日本ハムファイターズ戦(後楽園)から5月13日の阪急ブレーブス戦(大阪)まで15試合連続得点を記録[1]。当時のプロ野球記録である16試合連続には僅かに届かなかったものの、この年には19試合連続安打、当時のプロ野球記録に並ぶ9試合連続初回先頭打者安打もあり、チームも9試合連続初回得点でプロ野球記録に並んでいる[3]1984年は新外国人ジェフ・ドイルが加入し二塁手として起用する方針となったため、中堅手へのコンバートを通告される。本人はドイルとのポジション勝負を希望するも受け入れられなかったが、打率.296の好成績でベストテン10位に喰い込む。マルチ安打はリーグ2位の48、安打はリーグ3位の163を記録し、1位はいずれも三冠王を獲得したブーマー・ウェルズだった[5]。この年からは普段から自ずと足腰が鍛えられるからというアイデアにより、攻守交代の時にベンチや守備位置へ全力疾走をするようになった。その先駆けとなったが、若手選手も全力疾走をしない訳にいかなくなり、チーム内では「いらんことしてくれた」と不評を買うこともあったという[3]1986年から二塁手に復帰すると[1]1987年には打率.312をマークするが、1988年から湯上谷宏の台頭により一塁手に回る。1989年にはウィリー・アップショーの入団で一塁手での出場機会も減少し、同年限りで現役を引退。

堅実な守備と勝負強い打撃で低迷期のチームを支えた。1984年〜1986年の間口髭を蓄えトレードマークとなったが、理由は中堅手へのコンバートに対する反発だったと後に語っている。1981年頃にも口髭、顎髭を蓄えていた時期があった[6]

河埜兄弟は数多く活躍した兄弟選手の中でも特に実績を残しており、揃って1000試合以上出場、4000打数、1000本以上の安打を記録。日本人選手では河埜兄弟しかいない[6][7]。現役時代の知名度では巨人在籍の兄・和正に劣るものの、通算成績では兄を上回る項目が多い。兄弟揃っての100本塁打[8]には敬幸があと15本足りなかった。

引退後はダイエー→ソフトバンクで二軍守備・走塁コーチ(1990年, 1993年 - 1994年)、二軍育成コーチ(1991年 - 1992年, 1997年)、二軍外野守備・走塁コーチ(2004年 - 2006年)、西戸崎合宿所寮長を務めた。1990年から1992年は1A・サリナス・スパーズに野球留学し、1995年から1996年までスポーツアイ解説者も務めた。ソフトバンク退団後の2007年からはクラブチーム・長崎セインツ監督に就任[9]。長崎セインツは2008年から四国・九州アイランドリーグに加わるが、同リーグの高知ファイティングドッグス監督に定岡智秋が就任したため、現役時代に二遊間コンビを組んだ二人が指導者として相まみえることとなった。しかし、アイランドリーグ加入後最初のシーズンとなった2008年の前期は選手層の薄さもあって成績は低迷し、前期終了後の6月末付で解任[10]2009年から2010年までは関西独立リーグ紀州レンジャーズ[11]2012年から2014年までは韓国の独立プロ球団・高陽ワンダーズのコーチを歴任。2014年11月17日付で、社会人野球カナフレックスの第2代監督に就任[12]。旧知の間柄で、西鉄ライオンズなどで外野手として活躍した野球部顧問(当時)高橋二三男からの打診を受けたことによる。河埜が社会人野球の選手を指導するのは初めて[13]だが、野球部発足2年目の2015年には、コーチへ転身した高橋とともにチームを初めての全国大会(第41回社会人野球日本選手権大会)出場に導いた[14]2020年からは野球部GMに転身。

息子は柳川高校(のちに城西大学に進学)の野球部員で、2000年に香月良太らと共に甲子園出場を果たしている。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1975 南海
ダイエー
9 13 10 0 1 0 0 0 1 0 0 1 2 0 0 0 1 5 0 .100 .182 .100 .282
1976 49 67 61 9 13 3 0 1 19 5 3 0 1 0 5 0 0 6 1 .213 .273 .311 .584
1977 110 364 330 39 88 14 2 0 106 19 10 4 20 2 11 0 1 30 9 .267 .291 .321 .612
1978 107 452 398 47 98 18 5 3 135 23 16 5 23 1 27 2 3 38 10 .246 .298 .339 .637
1979 125 540 496 72 149 25 5 13 223 55 25 6 15 4 23 0 2 46 11 .300 .331 .450 .781
1980 125 456 399 54 92 18 1 10 142 49 8 6 14 4 37 0 2 42 13 .231 .296 .356 .652
1981 125 501 453 47 123 10 2 4 149 36 7 9 10 1 34 3 3 35 13 .272 .326 .329 .655
1982 130 583 519 70 144 24 0 6 186 33 11 7 13 2 47 4 2 43 11 .277 .339 .358 .697
1983 126 533 477 68 123 19 1 11 177 44 16 5 10 5 40 0 1 34 6 .258 .314 .371 .685
1984 130 603 551 80 163 33 2 14 242 76 17 9 4 7 36 1 5 34 8 .296 .341 .439 .780
1985 108 383 350 42 83 11 0 8 118 43 8 5 2 1 29 1 1 24 9 .237 .297 .337 .634
1986 115 405 369 35 97 19 2 5 135 22 4 4 9 0 25 1 2 40 8 .263 .313 .366 .679
1987 108 340 276 36 86 6 1 5 109 27 4 4 15 2 45 0 2 34 8 .312 .409 .395 .804
1988 121 436 369 53 102 14 0 5 131 18 9 6 13 2 52 0 0 42 12 .276 .364 .355 .719
1989 64 122 102 5 22 2 0 0 24 13 3 1 8 0 12 0 0 16 3 .216 .298 .235 .533
通算:15年 1552 5798 5160 657 1384 216 21 85 1897 463 141 72 159 31 423 12 25 469 122 .268 .325 .368 .693
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 南海(南海ホークス)は、1989年にダイエー(福岡ダイエーホークス)に球団名を変更

記録[編集]

初記録
節目の記録
その他の記録
  • 15試合連続得点:1982年4月23日 - 5月13日
  • オールスターゲーム出場:4回(1979年、1981年、1982年、1984年)

背番号[編集]

  • 32(1974年 - 1975年途中)
  • 8(1975年途中 - 1989年、2008年)
  • 78(1990年 - 1994年、1997年、2009年 - 2010年、2015年 - )
  • 73(2004年 - 2006年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f 『'86プロ野球選手写真名鑑』、日刊スポーツ出版社、1986年4月、P126。
  2. ^ プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、215ページ
  3. ^ a b c d e f 週刊ベースボールONLINE|野球コラム 河埜敬幸 内外野を守ったタカのオールラウンドプレーヤー/プロ野球1980年代の名選手
  4. ^ 第49回 長崎・河埜敬幸「野球ノートで意識改革」”. Sports Communications (2008年3月4日). 2011年10月8日閲覧。
  5. ^ 『週刊プロ野球データファイル』2013年98号、ベースボール・マガジン社、2013年、P10
  6. ^ a b プロ野球2世代写真展 「野球一族」 いにしえ編”. 時事通信社. 2011年10月8日閲覧。
  7. ^ 外国人選手ではレロン・リーレオン・リー兄弟が達成。
  8. ^ リー兄弟は達成。
  9. ^ 第49回 長崎・河埜敬幸「野球ノートで意識改革」”. Sports Communications (2008年3月4日). 2011年10月8日閲覧。
  10. ^ 最下位・長崎、河埜監督、岡本コーチを解任”. Sports Communications (2008年6月26日). 2011年10月8日閲覧。
  11. ^ 第4回 紀州・河埜敬幸「走塁が後期を占う」”. Sports Communications (2009年7月28日). 2011年10月8日閲覧。
  12. ^ 元南海の河埜氏  社会人野球カナフレックス監督就任”. スポーツニッポン (2014年12月3日). 2014年12月3日閲覧。
  13. ^ 元南海名手、滋賀に新天地 カナフレックス監督に河埜氏就任”. 京都新聞 (2015年4月14日). 2015年11月29日閲覧。
  14. ^ 日本新薬、カナフレックス出場 社会人野球日本選手権”. 京都新聞 (2015年10月28日). 2015年11月29日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]