沈惟敬

沈 惟敬(しん いけい、拼音:Shěn wéijìng、シェン・ウェイジン、? - 1597年万暦25年))は、明代使節

人物[編集]

嘉興府平湖県の出身。若いときから弁舌に巧みで、明に仕官した。

文禄の役に明の遊撃軍の将軍付きの使節として派遣され、小西行長宗義智らとともに和議交渉を持続したが欺瞞外交によって、アジア各国の混乱を大きくした。

明使として日本に来朝して大坂城豊臣秀吉に面会もしている。しかし、欺瞞外交が露呈して慶長の役の再出兵を招いたため、明に帰国後、万暦帝の勅命によって北京で公開処刑された。

秀吉毒殺説[編集]

朝鮮で刊行されたさまざまな野史(私撰歴史書)を集大成して18世紀に編纂された『燃藜室記述』には、「秀吉は沈惟敬によって毒殺された」と記述されている。しかし、年代の辻褄が適合せず信憑性はかなり低い。実際に沈惟敬が来日・離日したのは慶長元年(1596年)であり、秀吉が死亡したのはその2年後(1598年)となる。

関連項目[編集]