永利勇吉

永利 勇吉
1950年撮影
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県
生年月日 1920年12月9日
没年月日 (1962-06-27) 1962年6月27日(41歳没)
身長
体重
170 cm
71 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手捕手
プロ入り 1948年
初出場 1948年
最終出場 1955年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

永利 勇吉(ながとし ゆうきち、1920年12月9日 - 1962年6月27日)は、福岡県出身の元プロ野球選手外野手捕手)、野球解説者

来歴・人物[編集]

嘉穂中学から立教大学へ進み、野球部へ入部。当初は外野手だったが、捕手難だったため、1942年の春季リーグ前に捕手へコンバートされた。同年の春季リーグでは打率.500で首位打者を獲得した。

その後、社会人野球の強豪チームの星野組荒巻淳らと共に都市対抗野球大会でプレーし、第19回都市対抗野球大会では本塁打2本を放ちこの大会チームは準優勝。永利は久慈賞を受賞した。

1948年阪急ブレーブスに入団。1950年宇高勲に引き抜かれ西日本パイレーツへ移籍となる。同年は開幕から5番・左翼手を務めたが、シーズン途中に関口清治と守備位置を交換し、3番・右翼手に定着した。シーズン終了後、西日本の解散に伴い、西鉄ライオンズへ移籍したが、西鉄では深見安博、関口清治、塚本悦郎らとの競争で準レギュラーに留まり、1955年引退した。

その後、九州朝日放送(KBC)野球解説者・日刊スポーツ野球評論家(1958年から)として活動していたが、1962年6月27日午前0時50分、福岡市博多区東領町2丁目の国鉄鹿児島本線博多竹下間の6号踏切東60mの地点で、通行中の貨物列車(鳥栖門司操車場行き)に飛び込み自殺した。

当時、野球評論を担当していた日刊スポーツの原稿用紙に書かれた遺書には「能力もなく忘れられるばかりで浮かびあがるとしてもますますあせって浮かびあがれない」などと書かれていた。ちなみに現役中だった1954年8月9日にも薬物による自殺未遂を起こしている。満41歳没。

死の直前の6月21日には、西鉄VS南海平和台球場)のラジオ中継の解説、22日にはラジオ番組に出演したばかりだったという。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1948 阪急 19 48 42 4 10 1 0 1 14 8 0 0 0 -- 6 -- 0 13 -- .238 .333 .333 .667
1949 78 172 157 13 36 3 2 2 49 17 0 0 0 -- 14 -- 1 33 -- .229 .297 .312 .609
1950 西日本 132 582 497 90 151 20 12 21 258 80 15 10 0 -- 82 -- 3 54 14 .304 .405 .519 .925
1951 西鉄 90 320 262 40 77 11 7 14 144 45 7 7 1 -- 53 -- 4 41 4 .294 .420 .550 .970
1952 75 280 238 33 52 5 5 9 94 31 6 5 1 -- 36 -- 5 42 3 .218 .333 .395 .728
1953 94 307 265 32 58 7 8 4 93 20 3 8 1 -- 39 -- 2 41 4 .219 .324 .351 .674
1954 90 250 211 26 39 7 1 3 57 20 4 0 1 1 35 -- 2 36 3 .185 .306 .270 .577
1955 75 161 147 13 27 4 0 5 46 13 1 0 0 1 11 1 2 29 1 .184 .250 .313 .563
通算:8年 653 2120 1819 251 450 58 35 59 755 234 36 30 4 2 276 1 19 289 29 .247 .352 .415 .767
  • 各年度の太字はリーグ最高

背番号[編集]

  • 4 (1948年 - 1949年)
  • 27 (1950年)
  • 25 (1951年 - 1953年)
  • 10 (1954年 - 1955年)

関連情報[編集]

ラジオ出演[編集]

テレビ出演[編集]

※KBC解説者時代(1959 - 1962)のテレビキー局系列におけるプロ野球中継の現行タイトル(当時は、フジテレビ系・NETテレビ〔現:テレビ朝日〕系のクロスネット局だった。現在は、テレビ朝日系シングルネット)。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]