民秋史也

たみあき ふみや

民秋 史也
生誕 (1938-06-10) 1938年6月10日
京都府京都市
死没 (2010-08-17) 2010年8月17日(72歳没)
広島県広島市
出身校 東京大学
南カリフォルニア大学
職業 モルテン2代目社長
子供 民秋清史
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民秋 史也(たみあき ふみや、1938年6月10日 - 2010年8月17日[1])は、京都府出身の実業家。元・株式会社モルテン代表取締役社長クリスチャン[2]

来歴[編集]

同志社高校東京大学文学部および教育学部を卒業後、東洋工業(現マツダ)に入社。1970年にアメリカ子会社マツダ・モータース・オブ・アメリカに出向。その間、南カリフォルニア大学大学院経営学を専攻した。[2]

帰国後の1976年、義父の弟でありモルテンゴム工業(現モルテン)創業者の増田秀雄が体調不良により退いたため、同年より同社代表取締役社長に就任した[1]。1979年、アディダスと技術提携したことにより、モルテンを世界的メーカーに育て上げた[3]

モルテン社長職ともに様々な役職を歴任、広島経済大学および広島修道大学の特別客員教授[4]や、1986年から1994年まで広島県教育委員会委員[4]、1990年3月から1997年11月まで広島商工会議所副会頭[1]、広島キリスト教青年会(YMCA)理事長[4]などを務めた。

また、スポーツ業界にも貢献し、2004年6月から社団法人日本スポーツ用品工業会副会長[4]を務めた。

バスケットボール界においては、2003年日本バスケットボール協会(JABBA、2007年にJBAに改称)副会長に就任。当時、日本バスケットのトップリーグのプロ化が10年以上に渡って進展しなかったことを受け、プロ化推進派が協会を脱退してbjリーグ設立に動いていた。これに対して協会も2004年にプロ化実行検討委員会を設置し、その委員長に民秋が就任した。翌2005年3月にプロ化検討答申の記者会見を行い、JBLスーパーリーグの2007年を目途としたプロ化を宣言したものの、この時は概要の発表に留まり、結局のちに頓挫した。この際「自慢してもいいですか。」という自画自賛ともとれる発言をしたことで物議をかもした。2007年に発足した日本バスケットボールリーグ(JBL)の初代理事長に就任。2009年を以て定年制によりJBA副会長およびJBL理事長を退任、その後は両方の顧問に就任していた。

またサッカー界でも貢献、2002 FIFAワールドカップ日本組織委員会実行委員、2018/2022年FIFAワールドカップ日本招致構想日本招致委員会委員、広島県サッカー協会顧問などを務めた。

旭日小綬章藍綬褒章FIBA Order of Merit (バスケット推進功労賞)受賞。2010年8月広島市内の病院で死去[1]。長男の清史が後任社長を務める[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 民秋史也モルテン社長が死去 72歳”. 中国新聞 (2010年8月17日). 2010年10月1日閲覧。
  2. ^ a b わが夢(1)、2010年10月1日閲覧。
  3. ^ わが夢(2)、2010年10月1日閲覧。
  4. ^ a b c d 略歴、2010年10月1日閲覧。
  5. ^ モルテン新社長に民秋清史氏”. 中国新聞 (2010年8月19日). 2010年10月1日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]