毛利元貞 (左衛門)

 
毛利 元貞
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 慶長2年(1597年
死没 慶長18年2月6日1613年3月27日
別名 通称:左衛門、左門
戒名 景巌宗叔
主君 毛利秀就
長州藩
氏族 小早川氏毛利氏吉敷毛利家
父母 父:小早川秀包
母:桂姫大友宗麟の娘)
兄弟 元鎮、女(井原元以室)、女(毛利元景室)、
元貞、女(桂繁政室、井原元栄室)、
於佐手吉田重成室)、小早川能久
女(臼杵統尚娘、益田景祥室)
実子:なし
養子:就貞毛利元景の次男)
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毛利 元貞(もうり もとさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士長州藩士。小早川秀包の次男。通称は左衛門。

生涯[編集]

慶長2年(1597年)、小早川秀包の次男として生まれる。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には父・秀包の居城である久留米城にいたが、同年10月14日黒田如水鍋島直茂らの攻撃を受ける。城中には家老の桂広繁白井景俊以下わずか500の兵しか残っておらず、数日持ちこたえたものの開城勧告に応じて城を明け渡し、妹の於佐手が黒田家の人質に、桂広繁の四男・黒寿丸(後の桂包政)が鍋島家の人質とされた。元貞は母の桂姫や兄の元鎮らと共に長門国豊浦郡川棚へと移った。

この時の黒田家との縁から、後に黒田長政から仕官の誘いを受けたが断り、毛利秀就の側近として仕えるも、慶長18年(1613年2月6日江戸疱瘡を患い死去。享年17。元貞には子がいなかったため、姉と毛利元景の次男(元貞の甥)・就貞が養子として跡を継ぎ、新たに500石を与えられた。

参考文献[編集]

  • 萩藩閥閲録』巻4「毛利伊豆」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション