殿中御掟

'殿中御掟(でんちゅうおんおきて)は、織田信長室町幕府の将軍・足利義昭に承認させた掟である。永禄12年(1569年)1月に16か条、永禄13年(1570年)1月に5か条が追加され、21か条の掟となった。

経歴[編集]

殿中御掟9か条[編集]

永禄11年(1568年)9月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府の第15代将軍に擁立した。しかし、幕府は伊勢貞孝の暗殺(伊勢氏政所支配の終了)や永禄の変によって有名無実と化していた。そのため永禄12年(1569年)1月14日、信長は義昭と将軍権力や幕府のあり方について再確認するため、殿中御掟9か条を義昭に示した。内容は以下の通り。

  • 不断可被召仕輩、御部屋集、定詰衆同朋以下、可為如前々事
  • 公家衆、御供衆、申次御用次第可参勤事
  • 惣番衆、面々可有祗候事
  • 各召仕者、御縁へ罷上儀、為当番衆可罷下旨、堅可申付、若於用捨之輩者、可為越度事
  • 公事篇内奏御停事之事
  • 奉行衆被訪意見上者、不可有是非之御沙汰事
  • 公事可被聞召式目、可為如前々事
  • 閣申次之当番衆、毎事別人不可有披露事
  • 諸門跡、坊官、山門集、従医陰輩以下、猥不可有祗候、付、御足軽、猿楽随召可参事 — 仁和寺文書
  • 御用係や警備係、雑用係などの同朋衆など下級の使用人は前例通りとする
  • 公家衆・御供衆・申次の者は、将軍の御用があれば直ちに伺候すること。
  • 惣番衆は、呼ばれなくとも出動しなければならない。
  • 幕臣の家来が御所に用向きがある際は、当番役のときだけにすること、それ以外に御所に近づくことは禁止する。
  • 訴訟は奉行人(幕臣)の手を経ずに幕府・朝廷に内々に挙げてはならない(従来のやり方の通りとする)。
  • 奉公衆が出した結論を将軍が一存で決めてはならない(従来のやり方の通りとする)。
  • 訴訟規定は従来通りとする。
  • 当番衆は、申次を経ずに何かを将軍に伝えてはならない。
  • 門跡や僧侶、比叡山延暦寺僧兵、医師、陰陽師をみだりに殿中に入れないこと。足軽猿楽師は呼ばれれば入ってもよい。

2日後の1月16日、信長はさらに以下の7か条を追加する。

  • 寺社本所領、当知行之地、無謂押領之儀堅停止事
  • 請取沙汰停止事
  • 喧嘩口論之儀被停止訖、若有違乱之輩者、任法度旨、可有御成敗事、付、合力人同罪
  • 理不尽入催促儀堅停止事
  • 直訴訟停止事
  • 訴訟之輩在之者、以奉行人可致言上事
  • 於当知行之地者、以請文上可被成御下知事 — 仁和寺文書
  • (幕臣が)寺社本所領を押領することを停止すること
  • 請取沙汰を停止する事
  • 喧嘩口論の禁止、違反する者は法をもって成敗する。これに合力するものは同罪
  • 理不尽に催促する事の禁止
  • 将軍が訴訟を直接取り扱う事を禁止
  • もし訴訟をしたいのであれば奉行人を通すこと
  • 占有地については関係を把握して差配すること

殿中御掟追加5か条[編集]

永禄13年(1570年)1月23日、信長が殿中御掟9か条を制定した後も、従来の幕府以上に将軍の権力を拡大させたかった義昭はこれを守ることをしなかった。そこで信長は新たに殿中御掟追加5か条を示した。

  • 諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事
  • 御下知の儀、皆以て御棄破あり、其上御思案なされ、相定められるべき事
  • 公儀に対し奉り、忠節の輩に、御恩賞・御褒美を加えられたく候と雖も、領中等之なきに於ては、信長分領の内を以ても、上意次第に申し付くべきの事
  • 天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事
  • 天下御静謐の条、禁中の儀、毎時御油断あるべからざるの事

現代語訳

  • 諸国の大名に御内書を出す必要があるときは、必ず信長に報告して、信長の書状(副状)も添えて出すこと。
  • これまでに義昭が諸大名に出した命令は全て無効とし、改めて考えた上でその内容を定めること。
  • 将軍家に対して忠節を尽くした者に恩賞・褒美をやりたくても、将軍には領地がないのだから、信長の領地の中から都合をつけるようにすること。
  • 天下の政治は何事につけてもこの信長に任せられたのだから、(天下静謐のための軍事的行動について信長は)誰かに従うことなく、将軍の上意を得る必要もなく、信長自身の判断で成敗を加えるべきである。
  • 天下が泰平になったからには、宮中に関わる儀式などを将軍に行って欲しいこと。

この追加5か条は、前年の16か条よりはるかに厳しい内容であった。4条目については将軍を傀儡とした信長による独裁を行おうという姿勢が示されているともとれるが、追加5か条の提示後も幕府内での織田家の影響力は一部に留まっており、信長による独裁を意図した意味があったのかは疑問の声もある。義昭が5か条を遵守した形跡もない。また、後述のようにむしろ信長の方が室町幕府の秩序の中に統制されたとする解釈も出されている(詳細は後述)。

影響[編集]

この殿中御掟21ヶ条は信長と義昭の不和を顕在化させたとされていたが、近年の研究では信長と義昭双方で作られた確認事項であったともされており、両者の仲に決定的な悪化をもたらしたものではない。

臼井進は殿中御掟の条文を分析した結果、殿中御掟の条文が信長が一方的に定めたものではなく、そのほとんどが室町幕府の先例や規範に出典が求められることを指摘し、さらに殿中御掟追加に関しても将軍の御内書が余りにも濫発された結果として社会的混乱が起きかけていたこと(義昭の場合には大名の家臣に対しても大名の頭越しに御内書が出され、天正2年(1574年)には義昭の京都追放後も義昭を支持していた島津義久から義昭に対して御内書の発給の規制を求める申し入れがされている)や、将軍家家臣が寺社領を押領する事態が頻発しているなど問題が発生したことを指摘し、これらの規定が義昭を傀儡化するものではなく、信長が義昭による権力行使を規制しなければ、「天下の静謐」を維持する役目を担う幕府の存立にも関わる事態になっていたことを指摘している。臼井は信長による殿中御掟やその追加が幕府法から逸脱するものではなかったからこそ、その後の「十七箇条意見書」や義昭追放が一定の正当性を持ちえたとする。

水野嶺は五か条の条書(殿中御掟追加5か条)についても、足利義昭の将軍就任以来、副将軍や管領などへの就任を出自を理由に拒んできた信長が准官領(管領代)に就任するのに同意した文書の一環であるとしている。第1条を義昭が遵守していないというのは事実ではなく、大名への官途授与や大名間の和平調停の際には信長の副状が出されており、後年問題になったのは義昭が御内書の形式を用いて諸国から物品献上を強要したことであったとする。第4条は信長からすれば准官領として義昭を補佐することを明言した文言であり、義昭からすれば信長が室町幕府の身分秩序の中に位置づける代わりに天下静謐のための権限を委任したもので、義昭と信長の主従間の合意が前提にあるとする。そして、残りの3か条も副官領就任にあたっての要望事項であったとしている。また、原本には義昭の黒印が袖に捺され、義昭と信長に両属している立場と言える明智光秀と朝山日乗に充てられていることからも信長から義昭への一方的な文言ではなく、両者の交渉内容を記した文書であるとしている。水野は信長が准官領に就任したと直接言及した史料は無いものの、この条書が出された元亀元年1月以降、信長の書札礼が変更されて関東管領上杉謙信)と同格のものに改められていることから裏付けられるとしている。なお、准官領の立場は実際的には儀礼的な存在に過ぎなくなっていた実際の管領と異なって、より大幅な権限が認められた存在であったことはこの条書から推測されるとされる[1]

浅井長政朝倉義景顕如三好三人衆らによる第一次信長包囲網が結成された際には義昭と信長は一体となって行動しており、両者の対立が決定的なものとなるのは元亀年間に入ってからのことである。

脚注[編集]

  1. ^ 水野、2020年、P51-68・82-85.

参考文献[編集]

  • 桑田忠親『足利将軍列伝』秋田書店、1975年
  • 『織田信長「天下統一」の謎』
  • 臼井進「室町幕府と織田政権との関係について -足利義昭宛の条書を素材として-」(初出:『史叢』54・55号(1995年)/所収:久野雅司 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-162-2
  • 水野嶺「幕府儀礼にみる織田信長」(初出:『日本史研究』676号(2018年)/所収:水野嶺『戦国末期の足利将軍権力』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-02962-9
  • 水野嶺「義昭期幕府における織田信長」『戦国末期の足利将軍権力』(吉川弘文館、2020年) ISBN 978-4-642-02962-9(新稿)

関連項目[編集]