武烈天皇

武烈天皇

在位期間
仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日
時代 伝承の時代古墳時代
先代 仁賢天皇
次代 継体天皇

崩御 列城宮
陵所 傍丘磐坏丘北陵
漢風諡号 武烈天皇
小泊瀬稚鷦鷯尊(紀)
小長谷若雀命(記)
父親 仁賢天皇
母親 春日大娘皇女雄略天皇皇女)
皇后 春日娘子
皇居 泊瀬列城宮
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武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、日本の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。

名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(-のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。漢風諡号である「武烈天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代淡海三船によって撰進された。

皇居[編集]

都は泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)。奈良県桜井市出雲の十二柱神社に「武烈天皇泊瀬列城宮跡」の石碑がある。『古事記』では「長谷之列木宮」と記す。

世系[編集]

天皇系図 15~26代

父は仁賢天皇、母は春日大娘皇女雄略天皇の皇女)で、父母は共に三従兄弟姉妹である。同母姉に手白香皇女継体天皇后)・橘仲皇女宣化天皇后)がいる。

  • 皇后春日娘子(かすがのいらつめ) - 『古事記』に見えず。
    • 皇子女なし

『日本書紀』に「男女無くして継嗣絶ゆべし」、『古事記』にも「日続知らすべき王無かりき」とある[1]

略歴[編集]

日本書紀による記述[編集]

長じて罪人を罰し、理非を判定する事をお好みになった。法令にお通じになり、日の暮れるまで政治をお執りになって、世に知られずにいる無実の罪は必ずお見抜きになり、それをおはらしになった。訴訟の審理はまことに当を得ておられた。また、しきりに多くの悪行をなさって、一つも善業を行われなかった。さまざな酷刑をご覧にならないことはなく、国内の人民は、みな震え怖れていた[2]

「長好刑理、法令分明。日晏坐朝、幽枉必達、斷獄得情。又、頻造諸惡、不修一善。凡諸酷刑、無不親覽。國內居人、咸皆震怖。」 (長刑の理を好みて、法令分明めたまふ。日の晏れて朝に坐して、幽枉必ず達して、獄を断めて情を得たまひき。又、頻りに諸悪を造し、一も善を修めず、諸酷刑、自ら見ざるは無く、国内の居人、みな震怖す。)

仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。

皇太子は、物部麁鹿火の娘の影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大臣の子の平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち同年12月に即位して、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。

  • 即位元年春三月、春日娘子を立てて皇后とした。

『日本書紀』では、武烈天皇の異常な行為を多く記している。その部分を以下に列挙する。

  • 二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す(妊婦を裂いてその胎児を見た)。
  • 三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう(人のを抜いて、を掘らせた)。
  • 四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すことを快としたまふ(人のを抜いて木登りをさせ、木の根元を切り倒し、登らせた者を落として殺して面白がった)。
  • 五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ(人を池のに入らせ、そこから流れ出る人を三つ刃ので刺し殺して喜んだ)。
  • 六年の冬十月に、百済国、麻那君を遣わして調を進る。天皇、百済の年を歴りて貢職を不脩為を以ちて、留めて放たず(百済国は麻那君(まなきし)を遣わして貢物をした。天皇は百済が長い間貢物をしてなかったと責め、抑留した)。
  • 七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ(人を木に登らせて、弓で射落として笑った)。
  • 八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。(女を裸にして平板の上に座らせ、を引き出して、面前で交尾を見させた。女たちの性器を調べ、潤っている者(すなわち愛液が分泌されている者)は殺し、潤っていない者は、奴隷として召し上げた。これが楽しみであった)。
  • また、そのころ、池を掘り庭園を作って、鳥獣をたくさん飼った。そして、狩りを好んで、犬を走らせ馬と競争させた。出廷や退廷の時間もまちまちで、大風が吹こうと激しい雨が降ろうとお構いなしだった。贅沢にあけくれ、百姓が寒さに凍えることを意に介さず、美食をして天下の飢えを顧みなかった。さかんに小人や俳優に淫靡(いんび)な音楽を奏させ、奇怪な遊びごとを設けて、淫らな音楽を好き放題におこなった。昼夜をわかたずいつも宮人と酒に酔いしれ、錦繡(にしきぬいもの)を席としていた。綾と白絹を着ている者が多かった[3]。(及是時、穿池起苑、以盛禽獸而好田獵、走狗試馬、出入不時、不避大風甚雨。衣温而忘百姓之寒、食美而忘天下之飢。大進侏儒倡優、爲爛漫之樂、設奇偉之戲、縱靡々之聲。日夜常與宮人沈湎于酒、以錦繡爲席、衣以綾紈者衆。)
  • 冬十二月に、列城宮で崩御。

古事記による記述[編集]

『日本書紀』における武烈天皇によるこれら悪虐非道の記述は、『古事記』には一切見られない。日本書紀と比較すると、古事記の記事は極めて簡潔なものになっている。

  • 小長谷若雀命 坐長谷之列木宮 治天下捌歲也 此天皇 无太子 故 爲御子代 定小長谷部也 御陵在片岡之石坏岡也。

(小長谷若雀命(武烈天皇)は、長谷之列木宮で、8年間天下を治めた。天皇には子供が居なかったので、御子代として小長谷部を定めた。御陵は片岡之石坏岡にある。)

  • 天皇既崩 無可知日續之王 故 品太天皇五世之孫 袁本杼命 自近淡海國 令上坐而 合於手白髮命 授奉天下也。

(天皇が崩御したが、次の日継の王が見つからなかった。それで、品太天皇(応神天皇)の5世の孫、袁本杼命(継体天皇)を近淡海国(近江)から呼び、手白髮命(手白香皇女)を娶らせ、天下を授けた。)

梁書による同年代の記述[編集]

中国の史書『梁書武帝紀では、武烈天皇4年にあたる壬午年(502年)4月、(天監元年4月戊辰条)に「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」を進号されたと記載されている(正しくは「征東大将軍」か[4][注釈 1]

三国史記による同年代の記述[編集]

朝鮮の史書『三国史記』の記述によれば、武烈天皇2年にあたる庚辰年(500年)3月、倭軍新羅の長嶺鎮を攻めて陥落させた[5]。その結果、新羅の第21代の王炤知麻立干が薨去している[注釈 2]

備考[編集]

天皇には子がなかった。御子代として小長谷部(小泊瀬舎人)を置いたという。

武烈天皇8年12月8日に嗣子なく崩御し、仁徳天皇からの直系男子の皇統は途絶えるものの、姉である手白香皇女と橘仲皇女が何も傍系男子たる天皇(継体・宣化)の皇后となり嗣子を産み男系を繋いだ。また何もその嗣子の皇統が今日の皇室へと続いている[注釈 3]

『日本書紀』に宝算の記載はなく、『扶桑略記』『水鏡』などに18歳とあるが不明な点が多い。

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
10 崇神天皇
 
彦坐王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
豊城入彦命
 
11 垂仁天皇
 
丹波道主命
 
山代之大筒木真若王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上毛野氏
下毛野氏
 
12 景行天皇
 
倭姫命
 
迦邇米雷王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
日本武尊
 
13 成務天皇
 
息長宿禰王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14 仲哀天皇
 
 
 
 
 
神功皇后
(仲哀天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15 応神天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16 仁徳天皇
 
菟道稚郎子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
稚野毛二派皇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17 履中天皇
 
18 反正天皇
 
19 允恭天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
意富富杼王
 
忍坂大中姫
(允恭天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
市辺押磐皇子
 
木梨軽皇子
 
20 安康天皇
 
21 雄略天皇
 
 
 
 
 
乎非王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
飯豊青皇女
 
24 仁賢天皇
 
23 顕宗天皇
 
22 清寧天皇
 
春日大娘皇女
(仁賢天皇后)
 
彦主人王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
手白香皇女
(継体天皇后)
 
25 武烈天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26 継体天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


陵・霊廟[編集]

武烈天皇 傍丘磐坏丘北陵
奈良県香芝市

(みささぎ)は、宮内庁により奈良県香芝市今泉にある傍丘磐坏丘北陵(かたおかのいわつきのおかのきたのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。

陵号は顕宗天皇傍丘磐坏丘南陵に対応するものであるが、『古事記』には「片岡之石坏岡」、『日本書紀』には「傍丘磐坏丘陵」とあり、本来南北の区別はない。なお、この2陵と孝霊天皇の片丘馬坂陵は合わせて「片岡三陵」と呼ばれる。

上記とは別に、奈良県北葛城郡広陵町大塚にある宮内庁の大塚陵墓参考地(おおつかりょうぼさんこうち)では、武烈天皇が被葬候補者に想定されている[6]。遺跡名は「新山古墳」。

継体天皇2年10月に奉葬された。元禄探陵の際は香芝市平野にあった平野3・4号墳(消滅)が陵に擬定され、幕末まで保護された。蒲生君平の『山陵志』は大和高田市築山の築山古墳(磐園陵墓参考地)を比定したが、安政の陵改めではこれを否定。幕末には諸説分かれて修陵出来ず、明治22年(1889年)現陵が治定された。

しかし、宮内庁管理下にある現陵は「古墳として造営されたものではなく、単なる自然丘」という見解が学会における一般的な見方で、武烈の実在自体も疑わしいため、陵そのものの実在を疑う説がある。[7]

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

タレントの狩野英孝の実家として知られる櫻田山神社は武烈天皇を主祭神としている。

在位年と西暦との対照[編集]

当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

考証[編集]

『日本書紀』と『古事記』の違いと武烈天皇の実在性[編集]

悪虐非道の暴君として伝えられているが、その行跡が事実であるか議論がある[注釈 4][9]。また実在性そのものについても議論がある[10][注釈 5]

日本書紀』には上記の悪虐非道の行いの数々と共に「頻造諸惡、不修一善。」頻りに諸悪を造し、一善も修めたまはず。(悪いことをしきりに行い、一つも良いことを行わなかった)と評されており、暴君として描かれている。その一方で「法律に詳しく、日の暮れるまで執務を行い、無実の罪は必ず見抜き、それをはらした。裁定の審理は情を得ていた。(法令分明。日晏坐朝、幽枉必達、斷獄得情。)」とするなど、相矛盾する記事が併存する。この相違の背景には、血縁関係が薄い次代の継体天皇の即位を正当化する意図が『書紀』側にあり、武烈天皇を暴君に仕立てたとする説がある[9][8]

『古事記』には、暴君としての記述は一切なく、太子がいなかったことと、天皇の崩後に袁本杼命(おおどのみこと、後の継体天皇)が皇位継承者として招かれた程度しか記述されていない。

『武烈紀』は暴虐の記事で満ちており、あまりにも残虐すぎるというので、戦前は一般に出された日本書紀では一部(例えば八年の条)を割愛したものがあった[12][13]

武烈天皇の暴虐記事が捏造だと初めて指摘したのは、津田左右吉であった。津田は暴虐記事は儒教の政治や道徳の思想にもとづいて捏造されたと主張した。古代中国には徳の無い君主は子孫が途絶えるという考えがあり、などがその好例とされていた。『尚書』『韓非子』『呂氏春秋』『史記』などに登場する桀や紂は暴虐の限りをつくし、夏や殷を滅ぼしてしまったと記載されている。桀や紂の暴虐記事も、殷を打ち倒したの正当化するための造作記事という説もある。津田は日本書紀の編纂者が、断絶を起こした武烈を、桀や紂と同様の暴君として記事を書いたと主張した[12][13]

『日本書紀』には、物部麁鹿火の娘の影媛(かげひめ)をめぐって、平群臣鮪(へぐりのおみしび)と歌垣で争ったことが記され、それに敗れた太子は大伴金村に命じて鮪を討ち取らせたという。ところが、この歌垣の場面は『古事記』に、袁祁王(をけのみこ、後の顕宗天皇)が菟田首(うだのおびと)の娘の大魚(おうお)をめぐって、志毘臣(しびのおみ、『日本書紀』の平群臣鮪に相当)と争ったこととして記されている。つまり、歌垣に出てくる皇子も女も、全く別の設定になっているのである。何れが原伝承かの判断は分かれるが、少なくとも『古事記』と『日本書紀』とでは、武烈天皇の伝承にかなりの食い違いが見られる[9]

武烈天皇の御名小泊瀬稚鷦鷯尊は、仁徳天皇の御名(大鷦鷯尊)と雄略天皇の御名(大泊瀬幼武尊)の一部を接合したもので、書紀では聖帝仁徳の高徳に反する無徳、大悪天皇と評された雄略の暴虐性をミックスしたような反道徳的反社会的な暴君として描かれており、治世に関係する具体的な記事も無いに等しく、実在が疑わしい。 『日本書紀』によると、皇后は春日娘子であるが、生没年不詳。父母ともに未詳で、子女無し。出自が全く不明である。父が未詳の皇后は、実在が強く疑われている神武天皇欠史八代の天皇も含めても、史上春日娘子ただ一人であり、歴史学者の前田晴人は武烈と同様に実在したのか疑わしいとしている[11]

注釈[編集]

  1. ^ この南朝梁へ遣使した「倭王武」は、「477年478年479年」に南朝宋へ遣使した「倭王武」とは年代の相違から別人(前者は雄略天皇)であると考えられている。
  2. ^ 三国史記』は「冬十一月、王薨(500年11月、王が薨去した)」とのみ記すが、実際には同年3月から始まった倭軍との戦争に関連して死亡した可能性が高い。
  3. ^ 手白香皇女継体天皇の皇后となり欽明天皇を産む。一方、橘仲皇女は欽明天皇の異母兄である宣化天皇の皇后となり石姫皇女を産み、その石姫皇女は叔父にあたる欽明天皇の皇后となって敏達天皇を産む。
  4. ^ 「日本書紀」の表現は王朝の終わりに暴君が現れ、これに代わって有徳の王が新王朝のを創始する、という儒教の革命思想によって造作されたものと推定されている。「応神五世孫」という遠い傍系の継体が即位したことを正当化するために、その前の武烈をことさら暴君に描いているのである。[8]
  5. ^ 小泊瀬稚鷦鷯天皇(武烈天皇)は雄略天皇の名である大泊瀬に対する小泊瀬、仁徳天皇の名号大鷦鷯に対する稚鷦鷯の二つの合成から成っており、書紀では聖帝仁徳の高徳に反する無徳、大悪天皇と評された雄略の暴虐性をミックスしたような反道徳的反社会的な暴君として描かれており、治世に関係する具体的な記事も無いに等しく、その妃春日娘子が何者なのか不明で、子供も居なかったとする。実体の乏しいこのような人物が実在したとはとうてい考え難い。[11]

出典[編集]

  1. ^ 『古事記』武烈天皇段には
    天皇既に崩りまして、日続ひつぎ 知らすべきみこ 無かりき。故、品太ほむだ 天皇の五世の孫、袁本杼命おおどのみこと を近つ淡海国より上りまさしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け奉りき。
    とある。
  2. ^ 日本書紀(上)(中公文庫)井上光貞(著) P580
  3. ^ 日本書紀(上)(中公文庫)井上光貞(著) P583
  4. ^ 漢籍電子文献資料庫(台湾中央研究院)などで意補。
  5. ^ 「(炤知麻立干)二十二年(500年)春三月、倭人攻陷長峰鎮」(『三国史記』新羅本紀第三)
  6. ^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。
  7. ^ 天皇陵の謎 文春新書 2011 矢澤高太郎 P12およびP45
  8. ^ a b 「謎の大王 継体天皇」 水谷千秋 文藝春秋 p64
  9. ^ a b c 日本の歴史〈1〉神話から歴史へ (中公文庫) 文庫 p468
  10. ^ 『歴代天皇・女帝 早わかり手帖』黒塚 信一郎 (著) 滝浪 貞子 (監修) 三笠書房 2005/2/1 p83
  11. ^ a b 「継体天皇と王統譜」 前田晴人 同成社 P131
  12. ^ a b 古代天皇家の物語 2009 加藤蕙 P226 新人物文庫
  13. ^ a b 直木孝次郎古代を語る〈3〉神話と古事記・日本書紀 2008 直木孝次郎 P86 吉川弘文館

関連項目[編集]

  • 古事記
  • 日本書紀
  • 紂王 - 暴君であったという伝説と、新しい君主に討ち倒された過程で暴君としての逸話が創作されたと見られる点などが類似する。
  • 易姓革命 - 中国古来の政治思想。徳のある王が徳のない王と交代し、新しい王朝を立てる革命。
  • 王朝交替説
  • 小長谷部氏

外部リンク[編集]