正力松太郎

正力 松太郎
しょうりき まつたろう
『読売新聞八十年史』より(1955年9月撮影)
生年月日 1885年4月11日
出生地 日本の旗 日本富山県射水郡枇杷首村
(現:射水市
没年月日 (1969-10-09) 1969年10月9日(84歳没)
死没地 日本の旗 日本静岡県熱海市
出身校 東京帝国大学法科大学卒業
前職 内務官僚
警視庁警務部長
内閣情報局参与
京成電気軌道総務部長
読売新聞社代表取締役社長
日本テレビ放送網代表取締役社長
讀賣テレビ放送取締役会長
読売ジャイアンツ創立者・初代オーナー
日本武道館会長
所属政党翼賛政治会→)
(無所属→)
日本民主党→)
自由民主党
称号 従二位
勲一等旭日桐花大綬章
富山県高岡市名誉市民
富山県射水市名誉市民
駒澤大学名誉博士
大日本武徳会講道館柔剣道四段[1]
講道館柔道十段
野球体育博物館特別表彰(1959年)
法学士
配偶者 初婚・正力布久子
再婚・正力波満
子女 長男・正力亨
二男・正力武
親族 孫・正力源一郎
孫・関根達雄

内閣 第1次岸改造内閣
在任期間 1957年7月10日 - 1958年6月12日

日本の旗 初代 科学技術庁長官
内閣 第3次鳩山一郎内閣
在任期間 1956年5月19日 - 1956年12月23日

内閣 第3次鳩山一郎内閣
在任期間 1955年11月22日 - 1956年12月23日

選挙区 富山県第2区
当選回数 5回
在任期間 1955年2月28日 - 1969年10月9日

選挙区 勅選議員
在任期間 1944年5月18日 - 1946年4月13日[2]
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正力 松太郎(しょうりき まつたろう、1885年明治18年〉4月11日 - 1969年昭和44年〉10月9日[3])は、日本の実業家、政治家。読売新聞社社主日本テレビ放送網代表取締役社長、讀賣テレビ放送会長、日本武道館会長を歴任した。

読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。日本におけるそれぞれの導入を強力に推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる[4][要出典]

東京帝国大学法科大学卒で内務省に入省。1923年12月に虎ノ門事件が発生、当時警視庁警務部長であった正力は警視総監湯浅倉平とともに引責辞職[5]。翌1924年2月、後藤新平の助力のもと経営難で不振の読売新聞を買い受けて第7代社長に就任し、新聞界に転じる。意表をつく新企画の連発と積極経営により社勢を拡大。当初二流紙扱いであった読売は、1941年に発行部数で朝日新聞毎日新聞を抜いて東日本最大の新聞となる。同年秋には、戦時新聞統合を企図する政府の全国新聞一元会社案に反対し、撤回させた[5]1940年の開戦時は大政翼賛会総務であったために、1945年12月2日連合国軍最高司令官総司令部は日本政府に対し正力を逮捕するよう命令を出した(第三次逮捕者59名中の1人)[6]A級戦犯の容疑で巣鴨拘置所に勾留され、後に不起訴となったが公職追放処分を受けた。戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で長期にわたるアメリカ中央情報局への協力(非公式の工作活動)をおこなっていたことが、アメリカで保管されている公文書により判明している[7][8][9][10][11][12]。また自由民主党総裁の座も狙っており、渡邉恒雄を参謀の中曽根康弘との連絡役にしていた[13]

駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。

略年譜[編集]

左から吉田茂首相、堤操(歌人)、正力、堤康次郎
昭和29年7月衆議院議長就任レセプション)
1955年
キネマ旬報』1964年1月新春特別号より

内務官僚時代[編集]

警視庁監察官時代の正力松太郎(1918年)

警視庁官房主事として1923年(大正12年)6月の日本共産党に対する大規模な一斉取締り(第1次)や、特別高等警察などにも関わり、同年9月に発生した関東大震災の際、社会主義者の扇動による暴動に備えるための警戒・取締りを指揮した。その際、朝鮮人の暴動説を新聞記者を通じて流布させ、関東大震災朝鮮人虐殺事件の一因を作った[33]。直後、警務部長となるが、摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)の責任を問われ、懲戒免官となる。恩赦により懲戒処分を取り消されたものの、官界への復帰は志さなかった。

刑事畑においては、島倉事件(のちに甲賀三郎が『支倉事件』の題名で小説化した)[注釈 6]の捜査にあたり、東大同窓生が犯した鈴弁殺し事件においては自首を仲介した。

新聞経営[編集]

1924年(大正13年)、番町会グループである郷誠之助藤原銀次郎ら財界人の斡旋と、帝都復興院総裁だった後藤新平の資金援助により、経営不振であった読売新聞社(後の読売新聞東京本社)の経営権を買収し、社長に就任した。正力は、自社主催のイベントや、ラジオ面、地域版の創設や、日曜日の夕刊発行などにより部数を伸ばした。

戦前は報知新聞社の販売局長だった務臺光雄を正力が誘って読売へ移籍させ、大阪資本の東京朝日新聞東京日日新聞などと販売競争で競い合った。そして、読売新聞の全国進出を狙って九州日報など日本各地の地方紙を買収して経営参加に成功するも、新聞統制によって計画は頓挫した。

戦後、読売新聞の全国紙計画が本格化し、1952年(昭和27年)に大阪讀賣新聞社(後の読売新聞大阪本社)を設立、念願の西日本進出を果たした。以後、札幌と正力のお膝元である高岡市にも東京直轄による発行支社を設置し、1964年(昭和39年)、正力の長年の懸案だった九州読売新聞西部本社を設立、1ブロック紙に過ぎなかった読売新聞を務臺との二人三脚で朝日毎日と肩を並べる全国紙に発展させた。

大リーグ招聘・球団結成[編集]

1934年(昭和9年)、ベーブ・ルースルー・ゲーリッグらが参加した大リーグ選抜チームを招聘した。大リーグ選抜チームは、日本で17試合を戦い、一試合当たりの観客数が6万5000人(大リーグでの平均動員数に匹敵)に達することも多かった[19]。当時アマチュア野球しか存在しなかった日本側でも、全日本チームが結成された。後に同チームを基礎として大日本東京野球倶楽部(後の読売ジャイアンツ)が創設され、1936年(昭和11年)の第1回職業野球日本リーグに参加した。正力は、京都商業から慶應義塾大学への進学が決まっていた沢村栄治を「一生面倒見る」と説き伏せて入団させたが、実際には二度の応召(徴兵も、沢村が中学卒であったことが要因)で肩を壊した沢村を解雇している。

また、沢村を中退させたのと同様の手口でヴィクトル・スタルヒンを退学させてチーム(後の読売巨人軍)に入れるため、旭川にスカウトを送るものの、地元のスターを引き抜かれることに旭川市民と学校側は抵抗した[34]

旭川中学校を甲子園へ出場させるという願いを持っていたスタルヒン本人にとっては苦渋の決断であったが、家庭の経済事情に加え、さらには亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、即ちソビエト連邦への強制送還とする可能性をほのめかされたという事情もあり、断るわけにもいかず、旭川中を中退。後ろ髪を引かれる思いで母と共に上京した。クラスメートには一切事情を知らせないまま夜逃げをするように列車に乗ったという。汽笛が「行くなぁ!」という仲間達の叫びに聞こえた、と後年妻に語っている[35]

中学中退と全日本チーム、そして巨人入団への背後には日米戦を主催していた読売新聞オーナー・正力松太郎の意思があり、スタルヒンがこれに従わねばならなかったのは、「読売買収以前は警視庁の実力者だった正力が、父の犯罪歴をたてに日本国籍のないスタルヒン一家を恫喝したからである」と作家の佐野眞一は著書[36] の中で断言している。

正力は最初期と戦後の一時期を除いて読売ジャイアンツのオーナーを務め、また、巣鴨プリズンから釈放後の一時期、職業野球連盟の総裁(今で言うコミッショナー)に就任した。このような正力の業績を称え1959年野球殿堂入り。また日本プロ野球界に貢献した関係者を対象に、毎年正力松太郎賞が贈られている。

戦後、読売新聞を離れていた時期には毎日新聞と接触して、毎日のプロ野球参加と将来の2リーグ制移行を画策した。このとき読売側は毎日の加入に反対し、最終的にセ・リーグパ・リーグに分かれることになる。ちなみに正力自身としては、当面1リーグ10球団で運営し、その後2球団を追加してから読売・毎日がそれぞれ所属するリーグを立ち上げる構想であったが、日本プロ野球が実際に2リーグに分かれた際、読売(読売ジャイアンツ)はセ・リーグ、毎日(毎日オリオンズ)はパ・リーグの所属となった。

襲撃事件[編集]

1935年(昭和10年)2月22日、本社玄関前で暴漢に左頸部を斬りつけられた。傷は浅く頸動脈は外れており命に別状はなかったが、出血ははなはだしく輸血が行われた。直接の実行犯の長崎勝助は武神会の構成員(元、警視庁巡査)。取調べに対して、犯行に及んだ理由として、読売新聞が天皇機関説を支持したこと、正力が大リーグを招聘して多額の利益を与えたこと[37]神宮球場を使用し「神域を穢した」ことなどを挙げた。だが、捜査・公判の進行により、競合他社東京日日新聞の幹部による指示があったとされた。襲撃の報を受けたベーブ・ルースは見舞いの電報を正力に送っている[19]

襲撃犯は懲役5年の求刑を受けたが、1935年(昭和10年)6月12日、東京刑事地方裁判所は「殺意は認められなかった」として殺人未遂を傷害罪に更訂、懲役3年の判決を言い渡した[38]

テレビ放送事業[編集]

ラジオ民間放送で出遅れていた反省もあり、正力はテレビ放送では最初に動いた。電通吉田秀雄のもとへテレビ放送について相談に行ったが、吉田は聞き役に回り、積極的な動きを示さなかったという。1951年(昭和26年)10月、正力は電波監理委員会へ「日本テレビ」の免許を申請する。翌1952年(昭和27年)7月31日、免許出願していた日本テレビ放送網(以下、日テレ)に、日本のテレビジョン放送局としては初となる予備免許が交付された。

日テレは当初、東京を本部として札幌市から鹿児島市まで日本各地に支局を置き、日本全国をカバーする構想だった。しかし、「単一資本による複数県にまたがる放送は、メディアの寡占となり好ましくない」という郵政省(当時)の見解により、やむなく関東地方のローカル局として開局せざるを得なくなることとなった。

当時の日テレの放送機材はアメリカ合衆国からの輸入に頼っており、機材の搬入が予定より大幅に遅れた。一方、日本放送協会(NHK)は、日テレより後に予備免許が下りたものの、ほとんどの機材を国産品としたため、1953年(昭和28年)2月1日に東京で日本初のテレビジョン放送(のちのNHK総合テレビジョン)を開始することになった。

同年5月15日、ワシントンのショーラム・ホテルへ日本の政府・議会・軍・航空の関係者を集め、正力を事業主とする「テレビを含む国際通信のためのユニテル・リレー網計画」の説明会が行われた。ユニテル・リレー網はテレビに留まらないマルチメディア事業であり、正力の懐刀柴田秀利も、日テレ代表として列席した。説明会を企画した人物の出身は大別して、元OSS(米軍戦略諜報局)局員か、アメリカ中央情報局(CIA)スタッフか、ジャパン・ロビーかであった[注釈 7]

そして、NHKより半年遅れの8月28日に日テレは日本初の民間放送によるテレビジョン放送を開始、正力は日テレの初代社長に就任した[注釈 8]。日テレは民間放送であることから、コマーシャルを収入源としている。テレビジョン放送開始当時のテレビ受像機は庶民にとって“高嶺の花”だったことから、正力はテレビ受像機の普及促進と各企業からのスポンサー獲得のため、東京都内を中心とした繁華街、主要鉄道駅百貨店公園など人の集まる場所に街頭テレビを常設し、一般家庭へのテレビの普及に全力を注いだ。その結果、力道山などが活躍したプロレスを始めとしたスポーツ中継では街頭テレビの観衆が殺到し、スポンサーの説得も功を奏して日テレは開局から半年たって黒字化を達成した。

1958年(昭和33年)10月、東京のテレビ電波塔東京タワー」が完成し、NHKや在京キー局各局は東京タワーに基幹送信所を置いたが、正力は日テレのみ東京タワーへの送信所移転を拒否し、麹町本社鉄塔からの送信を続けた。そして、東京・新宿に高さ550mの電波塔「正力タワー」の建設を構想、1968年(昭和43年)に起工式が行われるも、正力の死で実現しなかった。「正力タワー」の建設予定地だった場所には日テレの子会社である日本テレビサービス日本テレビゴルフガーデンを建設したが、1997年(平成9年)12月、社有地が売却され、2012年(平成24年)4月に新宿イーストサイドスクエアが建築されている。そして、正力の死後の1970年(昭和45年)11月10日に日テレも基幹送信所を東京タワーに移転した[注釈 9]

日本テレビ放送網の役職と国会議員活動の関係
  • 1952年10月28日 - 日本テレビ放送網設立、代表取締役社長に就任。
  • 1955年2月28日 - 第27回衆議院議員総選挙富山2区から出馬、当選。
  • 1955年11月22日 - 第3次鳩山内閣北海道開発庁長官に就任。日本テレビを離脱(社長辞任)。
  • 1956年5月19日 - 科学技術庁長官に就任。
  • 1956年12月23日 - 北海道開発庁長官および科学技術庁長官を辞任。
  • 1957年1月28日 - 日本テレビ放送網取締役に選任、日本テレビに復帰。
  • 1957年2月6日 - 日本テレビ放送網取締役会長に選任。
  • 1957年7月10日 - 第1次岸内閣改造内閣国務大臣に就任。日本テレビを離脱(会長辞任)。
  • 1958年6月12日 - 国務大臣を辞任。
  • 1958年7月10日 - 日本テレビ放送網取締役会長に選任、日本テレビに復帰(以後、死去まで役職固定)。

CIAの協力者としての活動[編集]

早稲田大学教授の有馬哲夫が、週刊新潮2006年2月16日号で、正力が戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後に中央情報局(CIA)の非公然の工作に協力していたことをアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。有馬は日テレとCIAの関連年表も作成しており[40]、その中でアメリカ対日協議会の面々を登場させ、日テレとの密接な関係を抉り出している。

米国中央情報局は、旧ソ連との冷戦体制のなか、日本に原子力を輸出するために‘KMCASHIR’という作戦名の心理戦を繰り広げ、日本国民の原子力に対する恐怖心を取り除くよう、読売新聞率いる正力のメディア力を利用した[23]。アメリカ政府はCIA諜報部員ダニエル・スタンレー・ワトソン(Daniel Stanley Watson, のちに服部智恵子の娘・繁子と結婚し、東南アジア、メキシコでスパイ任務にあたった)を日本へ派遣し、米国のプロパガンダ「平和のための原子力」を大衆に浸透させるため、正力と親しい柴田秀利と接触した[22]

日本へのテレビ放送の導入と原子力発電の導入について、正力はCIAと利害が一致していたので協力し合うことになった。その結果、正力の個人コードネームとして「podam」(ロシア語などで「我、通報す」の意)及び「pojacpot-1」が与えられ、組織としての読売新聞社、そして日本テレビ放送網を示すコードネームは「podalton」と付けられ、この二者を通じて日本政界に介入する計画が「Operation Podalton」と呼ばれた。これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった(アメリカ国立公文書 Records Relating to the Psychological Strategy Board Working Files 1951-53)[41][42]。正力と共に日本のテレビ放送導入に関わった柴田秀利は「pohalt」というコードネームを与えられた。

CIAに正力を推薦したのは、上院議員カール・ムントであると、ベンジャミン・フルフォードは主張している[注釈 10]。なお、CIAは「正力は思いのままに操れるような人間ではなく、気をつけないと、知らないうちに自分たちを利用しかねない人間だった」と評価している[44]

遺訓[編集]

正力は読売ジャイアンツに対して、巨人軍憲章とも呼ばれる遺訓を残している。遺訓は以下の3つ。

  • 巨人軍は常に紳士たれ
  • 巨人軍は常に強くあれ
  • 巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ

逗子邸宅[編集]

旧正力家別邸
情報
設計者 1961年増築:清水一
施工 1961年増築:水澤工務店
構造形式 木造 瓦葺 数寄屋造り
建築面積 200 m²
延床面積 254.48 m²
階数 地上2階
竣工 1931年(昭和6年)以前
改築 1939年(昭和14年)
1961年(昭和36年)
2016年(平成28年)
所在地 249-0007
神奈川県逗子市新宿三丁目
文化財 登録有形文化財(建造物)
指定・登録等日 2022年2月17日(令和4年)
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正力松太郎が1931年から1969年に死去するまで居住していた神奈川県逗子市の邸宅。1939年に増築、1961年に大規模増改築。延床面積254.48平方メートル(蔵除く)。

1965年1月2日に逗子邸宅で新年会が行われ、記念撮影された写真を日刊スポーツ / アフロが所有している。参加者は正力松太郎、正力亨清水与七郎川上哲治柴田勲広岡達朗関根潤三王貞治金田正一長嶋茂雄

正力松太郎の長女梅子(小林與三次)の邸宅が隣接しており、正力の死後、空き家を小林夫妻が管理していたが、2013年に小林梅子が死去。小林梅子の孫で、正力松太郎の曽孫の塚越暁が旧正力邸の管理人兼居住者として名乗りを上げ、2016年に大規模改修。同時期に小林梅子邸は解体されたが、建具や建材は旧正力邸に再利用されている。

2018年9月から、逗子旧邸(応接間16帖、和室10帖、縁側2帖半、庭園)を会議室、イベント、写真撮影の古民家レンタルスペースとして開放している。

2022年2月17日に国の登録有形文化財に登録された。

外部リンク

家族・親族[編集]

正力家[編集]

元々一介の庶民の出だった正力家が富山県射水市屈指の名家として名を成したのは、松太郎の祖父の庄助が、この地に度々災厄をもたらした庄川の氾濫を防いだ功による[14]。江戸嘉永年間(1848年 - 1854年)に庄助の発案になる鉄の金輪(かなわ)は、河川の氾濫で流れた古橋の抗を抜くための道具として卓効を発した[14]。この功により、庄助は奉行から苗字帯刀を許された[14]。正力という姓は、この金輪(かなわ)に命名された正力輪から始まっている[14]。正力家が土建請負業として大をなしたのはそれからだった[14]

松太郎の両親はもともと本願寺の熱心な門徒だった[45]。父・庄次郎は毎朝毎晩の勤行をかかさなかった[45]。松太郎の両親への報恩の情はきわめて篤かった[45]
  • 前妻・布久子[46]
警視庁の上層部が正力の将来にいかに属目していたかは、当時の警視総監安楽兼道が妻の兄弟の娘、つまり安楽にとっては義理の姪にあたる前田布久子(鹿児島県出身)と見合いさせ、結婚させたことでもわかる[46]。だが、布久子は一女をなしてまもなく亡くなった[46]。その長女も8歳で早世した[46]
  • 後妻・波満
1895年(明治28年)4月生
正力は最初の妻を失って間もなく、千葉県上総湊(後の富津市)出身で精華女学校の和裁教諭の吉原波満と再婚した[47]。波満が教鞭をとったのは、同校創始者の勝田孫弥が、波満の実家と縁つづきという関係からだった[47]。勝田はその一方で、元警視総監の安楽兼道とも縁戚にあり、最初の妻を早くに亡くした正力を不憫に思った安楽が、遠い縁つづきの波満を世話したものだった[47]

長男・亨[編集]

  • 長男・ … 波満との子
1918年10月24日 - (2011-08-15) 2011年8月15日(92歳没)〔大正7年 - 平成23年〕
第2代讀賣社主、第2代球団オーナー
  • 長男嫁・峰子[48]
1936年 - 2019年8月17日(83歳没)〔昭和11年 - 令和元年〕
子爵の元貴族院議員梅溪通虎の次女[48]
妹は池坊専永夫人の保子である[48]
1963年11月23日生(60歳)
読売新聞グループ本社、株式所有3045株 4.97%。
1986年、日本テレビ放送網入社。2020年、CS日本(CS日テレ)代表取締役社長。
  • 孫・美緒
読売新聞グループ本社、株式所有3029株 4.94%。

長女・梅子[編集]

  • 長女・梅子 … 後妻との間の子
1920年 - 2013年7月30日(93歳没)〔大正9年 - 平成25年〕
1913年7月23日 - (1999-12-30) 1999年12月30日(86歳没)〔大正2年 - 平成11年〕
小林與三次と梅子のなれそめについて小林によると「ジイさん(松太郎)の姉さんが、テロによるケガの具合を心配して、僕に様子を見に行ってくれ、と頼んできた[49]。それがきっかけとなって、僕が田舎に帰るたび、ジイさんの近況を実家に報告するようになった[49]。そんなことからだんだんと正力家と親しくなった[49]。学費を正力家から出してもらったという話もあるようだが、僕は育英金で学費をまかなったので、正力家からは一銭も出してもらっていない[49]。結婚についてはジイさんから直接話があった[49]」という。
小林與三次の実家について佐野眞一によると「要塞のような正力家の屋敷に比べ、庄川の水べりのすぐそばに建つ小林の生家は見るからに貧相だった[14]。その対照的な光景は、当主を“おやっさん”(親方)と呼ぶ、印半纏(しるしばんてん)の人足が何十人となく出入りしていた正力家の羽ぶりのよさと、その正力家の土建資材を運ぶイカダ舟船頭に過ぎなかった小林の父との境遇の違いを、残酷なまでに見せつけている」という[14]
  • 孫・塚越陽子
読売新聞グループ本社、株式所有2804株 4.58%。
  • 曽孫・塚越暁
1978年4月15日生(45歳)
正力松太郎逗子旧邸の管理人兼居住者。
神奈川県逗子市生まれ。山手学院高等学校一橋大学卒業。
2002年4月 - 2013年9月、リクルートに勤務。
2012年4月、個人事業「子ども原っぱ大学」企画運営。
2015年7月、HARAPPA株式会社 代表取締役「原っぱ大学ガクチョー」。

二女・利子[編集]

  • 二女・利子 … 後妻との間の子
1923年 - 2007年9月21日(84歳没)〔大正12年 - 平成19年〕[50]
1918年
三菱銀行副頭取関根善作の三男、元衆議院議員、信濃毎日新聞社長小坂善之助
1949年4月17日生(74歳)
読売新聞グループ本社、株式所有4800株 7.83%。
1972年、読売新聞社入社。

二男・武[編集]

  • 二男・ … 柳橋の元芸者中村すゞとの間の子
1934年 - 1985年5月(51歳没)〔昭和9年 - 昭和60年〕
日本テレビの副社長に就任したが最初に断行したことは、同社の役員だった弟の武を、傍系のよみうりランドに追放したことだった[51]。正力から認知され、日本テレビ入りしたものの、武の在社期間はわずか2年にすぎなかった[51]。武はその後、二度と日本テレビに復帰することなく、1985年(昭和60年)5月、51歳で死去した[51]。熱望していた結婚は結局叶わず、独身のままの淋しい死だった[51]。武は晩年、自分の人生を呪うように、浴びるほどのをのみつづけた[51]

正力を演じた俳優[編集]

評伝[編集]

  • 長尾和郎『正力松太郎の昭和史』実業之日本社、1982年
  • 波多野勝『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』芙蓉書房出版、2013年

関連項目[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 同級生に河合良成小松製作所会長)、品川主計読売ジャイアンツ代表)など
  2. ^ この時、団体戦で四高は三高に押されて負けムードが漂っていたが、大将である正力が巴投で二段の相手から逆転の一本勝ちをし、四高は優勝した。なお、この時正力自身は白帯だった
  3. ^ 巴投げを防がれた所からの送襟絞とする説あり[16]
  4. ^ 河合、品川のほか、重光葵(外相)、芦田均(首相・外相)、石坂泰三(経団連初代会長)などが同級。柔道と参禅に打ち込んだ。学業の方はまったく振るわず、試験前になると級友のノートを借りるのが東大時代の正力のならわしとなっていた。品川をはじめとする級友たちの間では、「正力があんなにノートを借りまくるのは、自分が勉強するためではなく、ノートを貸した人間の成績を下げるためなのではないか」という悪評が広がった[17]
  5. ^ 巣鴨の正力は、娑婆にいる時と変わらぬ傍若無人ぶりで、同房者や収監者たちを閉口させていた。同房者を迷惑がらせたのは、まず正力の大イビキだった。そのイビキは雷鳴以上で、たまりかねた同房者が下駄で正力の枕下の床板を叩いても一向にやむことはなかった[21]
  6. ^ 『支倉事件』は、甲賀が正力の新社長就任に際して1927年に『読売新聞』に連載したもの。なお、登場人物名は仮名となっており、正力は「庄司利喜太郎」、また、被告人の弁護にあたった布施辰治は「能勢弁護士」となっている。
  7. ^ OSS出身で説明会と最も深く関わったのは、X-2部長の ジェイムズ・マーフィ である。1000万ドル借款をアメリカ政府から取り付けるための交渉など全般を担当する弁護士として、日テレに雇われていた。説明会にも主催者として直接関わり、出席もしていた[39]
  8. ^ 日テレで初の地方完全系列局で、務臺光雄が設立に関わった讀賣テレビ放送(読売テレビ。大阪市)の初代会長も務めた。
  9. ^ 2013年5月31日に地上デジタル放送の完全移行に伴い、NHKと他の在京キー局の基幹送信所は東京スカイツリーに再移転した。なお東京タワーは予備送信所としての機能に移行している。
  10. ^ カール・ムント米上院議員は、「VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)」構想を打ちたて、世界中で広まりつつあった共産主義の撲滅に乗り出した「プロパガンダの雄」である。1951年(昭和26年)8月13日、ムントは「日本全土に総合通信網を民間資本で建設する」と発表した。その翌年、正力はテレビ放送免許を取得、1953年(昭和28年)8月28日、日本テレビが開局した[43]

出典[編集]

  1. ^ 時事通信社 1920.
  2. ^ 『官報』第5781号、昭和21年4月25日。
  3. ^ . 読売巨人軍公式サイト. https://www.giants.jp/G/museum/g_history/+2020年4月6日閲覧。 
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参考文献[編集]

  • 自伝 『正力松太郎 悪戦苦闘』〈人間の記録〉日本図書センター、1999年(復刻新版)
  • 佐野眞一 『巨怪伝 正力松太郎と影武者たちの一世紀文藝春秋、1994年、文春文庫(上・下)、2000年
  • 柴田秀利 『戦後マスコミ回遊記』 中央公論社、1985年、中公文庫(上・下)、1995年
  • 春名幹男 『秘密のファイル CIAの対日工作』(上・下) 共同通信社、2000年、新潮文庫、2003年
  • 神松一三 『「日本テレビ放送網構想」と正力松太郎』 三重大学出版会、2005年
  • 有馬哲夫 『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』 新潮社、2006年、宝島社・文庫、2011年
  • 有馬哲夫 『原発・正力・CIA 機密文書で読む昭和裏面史』 新潮新書、2008年
  • 有馬哲夫 『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』 平凡社新書、2008年
  • 有馬哲夫 『CIAと戦後日本』 平凡社新書、2010年
  • Richard Krooth, Morris Edelson, 福来寛(カリフォルニア大学サンタクルーズ校教授)共著"Nuclear Tsunami: The Japanese Government and America's Role in the Fukushima Disaster" Lexington Books, 2011年
  • 『ニューズウィーク日本版別冊 激動の昭和』TBSブリタニカ、1989年。 
  • 時事通信社時事年鑑』《大正9年版》時事通信社、1920年https://dl.ndl.go.jp/pid/3018570/1/394 

外部リンク[編集]

公職
先代
創設
宇田耕一
日本の旗 科学技術庁長官
初代:1956年5月19日 - 同12月23日
第4代:1957年7月10日 - 1958年6月12日
次代
三木武夫
先代
創設
宇田耕一
日本の旗 総理府原子力委員会委員長
初代:1956年1月1日 - 同12月23日
第4代:1957年7月10日 - 1958年6月12日
次代
宇田耕一
三木武夫
先代
大久保留次郎
日本の旗 国家公安委員会委員長
第8代:1957年6月10日 - 1958年6月12日
次代
青木正
先代
大久保留次郎
日本の旗 北海道開発庁長官
第11代:1955年12月22日 - 1956年12月23日
次代
石橋湛山(事務取扱)