横須賀造船所

横須賀造船所外観

横須賀造船所(よこすかぞうせんじょ)は、江戸幕府により横須賀市に開設された造船所江戸開城後は明治政府が引き継ぎ、のちに海軍省の管轄となる。現在は在日米軍横須賀海軍施設となっている。

構内には幕末遺構が残り、貴重な近代化遺産の一つと言われる。

概要[編集]

ヴェルニーの指導の下、横須賀製鉄所で製造された煉瓦の刻印部分。1866年頃から製造され、観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台等の建造に使用された。

幕末の1865年慶応元年)、江戸幕府勘定奉行小栗忠順の進言により、フランスの技師レオンス・ヴェルニーを招き、横須賀製鉄所として開設される。その後造船所とするため施設拡張に着手したが幕府が瓦解。明治新政府は参与兼外国事務掛小松帯刀の尽力により1868年9月にオリエンタル・バンクから貸付を受け、ソシエテ・ジェネラルに対する旧幕府の債務を返済し、横須賀製鉄所を接収。これを1871年に完成させた。

1871年(明治4年)4月9日、工部省管轄中に横須賀製鉄所から横須賀造船所への改称が行われた。 1872年10月に工部省から海軍省の管轄になり、1876年8月31日には海軍省直属となり、1884年には横須賀鎮守府直轄となる。1903年には組織改革によって横須賀海軍工廠となり、多くの軍艦を製造した。

第二次世界大戦後は在日米軍の基地となっている。幕末に造られたドックが残っており、造船は行っていないものの艦船の修理に使用されている。造船で幕末から2000年平成12年)まで活躍したスチームハンマーが横須賀市内のヴェルニー公園内にあるヴェルニー記念館に展示されている。また横須賀港の歴史は横須賀中央駅近くの自然・人文博物館で学ぶことができる。

黌舎[編集]

造船所内には技術者養成のための教育機関「黌舎(こうしゃ)」が設けられた(黌はまなびやの意)。ヴェルニーを校長に、明治3(1870)年に、ヴェルニーの母校であるパリの技術者養成学校「エコール・ポリテクニク」を模範として設立され、造船技術や機械学、製図法などの技術のほか、フランス語を教授した[1]。入学資格は原則として13歳から20歳までで、衣食住は官給制であった[1][2]。技手らを養成する「職人黌舎」と呼ばれる学校も併設され[3]、明治10年代以降は多くの職人生徒も入学するようになった[4]。1888(明治21)年に閉校するまで、約100人が卒業し、海軍省や大蔵省、外務省などへの入省者が多かったことや、100人に数人程度しか入学が認められなかったことからエリート学校とも評されていた[1]。出身者には恒川柳作辰巳一をはじめとしたエリート技師のほか[3]海軍省から横浜正金銀行リヨン駐在員となり、『八十日間世界一周』の初邦訳者としても知られる川島忠之助などがいる[5]。黌舎はのちに工部大学校に吸収され東京帝国大学工学部造船学科となり、日本の造船技術をリードした[3]

ティボディエ邸[編集]

ティボディエ・ジュール・セザール・クロードは明治時代のお雇い外国人であり、当造船技術監督として赴任していた。

ティボディエの官舎として、1869年(明治2年)完成の洋風平屋建てに住まう。現在、ティボティエが使用していた洋館は、2003年米海軍の費用負担で移築を条件に解体され、横須賀市に寄贈。当時のままの礎石などの部材が文化財であることから、横須賀市教育委員会の所管で旧坂本小学校に保存された。その後、旧坂本小学校の売却に伴い、同市上ノ台中学校に移転。

2001年11月20日付で「ティボディエ邸」の保存と活用の要望書が横須賀市および在日米軍横須賀海軍に提出され[6]、「横須賀に軍港資料館を作る会」としての活動をしている[7]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 横須賀製鉄所黌舎 卒業証書の原本 初公開 タウンニュース横須賀版、2015年7月3日号
  2. ^ 横須賀黌舎規則 早稲田大学図書館
  3. ^ a b c 神奈川・横須賀ドライドッグ一般社団法人日本埋立浚渫協会
  4. ^ 高レベルだった旧横須賀造船所内の教育機関「黌舎」、120年前の教科書など発見神奈川新聞、2011/06/
  5. ^ 川島忠之助家のばあい 江戸の地霊・東京の地縁塩崎文雄、和光大学総合文化研究所年報『東西南北2013』
  6. ^ 日本建築学会 (2001年11月20日). “旧横須賀製鉄所副首長官舎(ティボディエ邸)の保存・活用に関する要望書”. 2012年7月13日閲覧。
  7. ^ 横須賀に軍港資料館を作る市民の会(2018年12月以降)

参考文献[編集]

関連文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]