梅ヶ谷藤太郎 (2代)

(2代)梅ヶ谷 藤太郎
梅ヶ谷藤太郎(1903年頃)
基礎情報
四股名 梅ヶ谷 藤太郎
本名 小江 音松(旧性:押田 音次郎)
愛称 蝦蟇
東西の双璧
生年月日 1878年3月11日
没年月日 (1927-09-02) 1927年9月2日(49歳没)
出身 富山県富山市
(出生時は石川県新川郡水橋町
身長 168cm
体重 158kg
BMI 55.98
所属部屋 雷部屋
得意技 突き、左四つ、吊り
成績
現在の番付 引退
最高位 第20代横綱
幕内戦歴 168勝27敗116休47分2預
優勝 優勝相当成績3回
データ
初土俵 1891年1月場所
入幕 1898年1月場所
引退 1915年6月場所
備考
金星2個(小錦八十吉2個)
2015年8月29日現在

梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1878年3月11日 - 1927年9月2日)は、現在の富山県富山市(出生時は石川県新川郡水橋町)出身で雷部屋に所属した大相撲力士。第20代横綱。本名は押田 音次郎(おしだ おとじろう)で、後に小江 音松(おえ おとまつ)となる。

経歴[編集]

梅ヶ谷(右)と常陸山(左)の仕切り

1878年に、現在でいう「富山の薬売り」である売薬商の四男として生まれる(誕生日には異説もある)。1891年西ノ海嘉治郎 (初代)劔山谷右エ門 (2代)の一行が富山県へ巡業に来た際、恵まれた体格の少年を見つけた劔山から熱心な勧誘を受け、雷部屋へ入門、早くも同年1月に初土俵を踏んだ。師匠・雷(元横綱初代梅ヶ谷)の「ワシ(梅ヶ谷)の弟子ということで四股名は“梅ノ谷”だ」という発言で四股名はあっさりと決定、番付には「梅ノ谷 音松」と書かれた。

当時はまだ満12歳という子供ながら英才教育を受け、とりわけ鬼ヶ谷才治からの指導が特に熱心だった。その甲斐があって三段目での単独土俵入りが許されたほか、梅ノ谷の錦絵も発売、幕下時代では早くも横綱免許授与に備えて横綱土俵入りの稽古までしていたという、現在では全く考えられない英才教育だった。

1898年1月で新入幕を果たすと、この場所で小錦八十吉 (初代)から金星を獲得した。同年5月場所も小錦八十吉から金星を獲得するなど「小錦キラー」ぶりを発揮した。次の1899年1月には早くも小結、5月で関脇に昇進し、この場所6勝2敗1分と勝ち越したものの、翌1900年1月1度小結に降格するが[1]、次の5月には関脇を飛び越えて大関に昇進した。大関昇進が決定すると雷の現役名「梅ヶ谷 藤太郎」の継承を申し出たが、雷は「いま(梅ヶ谷を)襲名したら横綱になった時に何を名乗るつもりだ?」と時期尚早を唱えた。

しかし、1902年1月から「梅ヶ谷 藤太郎(2代)」を襲名し、梅ヶ谷の名に恥じぬ好成績を挙げる。1903年5月場所9日目(当時は1場所10日、ただし幕内力士は千秋楽は出場しない)に同じく常陸山谷右エ門と全勝対決を行い、敗れはしたものの、この一戦で勝利して横綱免許授与が決まった常陸山の「梅ヶ谷関と一緒にお願いします」という申し出によって、梅ヶ谷も吉田司家から横綱免許を授与された。24歳6ヶ月での昇進は当時の最年少記録だった[2]。横綱土俵入りは雲龍型を選択し、現在まで受け継がれている「雲龍型の土俵入りの開祖」とされ、梅ヶ谷の土俵入りの様子を撮影した映像も現存している[3]

現在でも短躯肥満はあまり長持ちする体格ではないと言われているが、横綱を実に12年間(同時に昇進した常陸山より1年長かった)も務め、常陸山と共に「梅常陸時代」と呼ばれる明治時代後期の相撲黄金時代を築き上げた。旧・両国国技館の開館後に優勝した経験はないが、長年の功績を称えられたことで、1915年の引退時には優勝額に相当するものが贈呈された。

引退後は雷の廃業に伴い、年寄・並びに雷部屋を継承した。協会内では引退1年後の1916年に勝負検査役、1921年に取締に就任したが部屋も衰退、先代雷の娘である妻と離縁し、芸者を妻とするなど不遇で1926年取締を辞任し[4][5]、先代・雷より早い1927年9月2日に巡業先の新潟県与板町で心臓麻痺により死去。49歳没。弟子は弟弟子だった玉椿憲太郎が引き取ったものの、江戸時代から続く名門だった雷部屋は梅ヶ谷を最後に消滅した。

人物・エピソード[編集]

  • 腹が出ているのを活かした理詰めの相撲で、体格ゆえか、横にやや脆い点を努力で克服していた。ただし、晩年には守り重視の相撲となった。常に自分の相撲を事細かに分析していたと伝わる。
  • 太刀山峯右エ門より1歳若いため、常陸山の引退後は太刀山の相手役を期待され、番付はそれまでと逆の出羽海一門側に回されたが、その状態で出場することはなかった。
  • 若い頃に指導を受けたのが鬼ヶ谷才治だったため、節分では絶対に「鬼は外」と言えず、常に「福は内」とだけ言って豆を撒いていた。
  • 1915年(大正4年)8月、西の海らとともに初めてアメリカ巡業を行った[6]。ハワイ巡業では、当時の海外では人前で臀部を出すことが野蛮とされたため、廻しの下に衣類を着用して相撲を取った[7]
  • 現役時代の趣味は演劇鑑賞。

主な成績[編集]

  • 幕内在位:36場所
  • 幕内通算成績:168勝27敗47分2預116休 勝率.862
  • 優勝相当成績:3回
  • 金星:2個(小錦八十吉2個)

場所別成績[編集]

場所 地位 成績 備考
明治25年(1892年)6月場所 東序ノ口26
明治26年(1893年)1月場所 東序ノ口6
明治26年(1893年)5月場所 東序二段25
明治27年(1894年)1月場所 西序二段32
明治27年(1894年)5月場所 西三段目39
明治28年(1895年)1月場所 西三段目43
明治28年(1895年)6月場所 西三段目20
明治29年(1896年)1月場所 西幕下22
明治29年(1896年)5月場所 西幕下5
明治30年(1897年)1月場所 西十両5 7勝3敗
明治30年(1897年)5月場所 西十両1 8勝1敗1分
明治31年(1898年)1月場所 西前頭5 5勝2敗1分1預1休
明治31年(1898年)5月場所 西前頭2 7勝1敗1分1休 優勝同点相当
明治32年(1899年)1月場所 西小結 7勝1敗1分1休
明治32年(1899年)5月場所 西関脇 6勝2敗1分1休
明治33年(1900年)1月場所 西小結 5勝2敗2分1休
明治33年(1900年)5月場所 西大関 6勝1敗1分1休
明治34年(1901年)1月場所 西大関 8勝1敗1休
明治34年(1901年)5月場所 東大関 6勝2敗1分1休
明治35年(1902年)1月場所 東大関 8勝0敗1分2休 優勝相当
明治35年(1902年)5月場所 東大関 8勝1敗1休
明治36年(1903年)1月場所 東大関 4勝0敗1分5休
明治36年(1903年)5月場所 東大関 8勝1敗1休 9日目に常陸山と全勝対決
場所後6月に常陸山と共に横綱免許
明治37年(1904年)1月場所 東大関横綱 7勝1敗2休 優勝同点相当
明治37年(1904年)5月場所 東大関横綱 6勝1敗1分2休
明治38年(1905年)1月場所 東大関横綱 8勝1敗1休
明治38年(1905年)5月場所 東横綱 5勝0敗5休
明治39年(1906年)1月場所 東横綱 7勝1敗1分1休
明治39年(1906年)5月場所 東横綱 7勝0敗1分2休
明治40年(1907年)1月場所 東横綱 1勝0敗9休
明治40年(1907年)5月場所 東横綱 6勝2敗1分1休
明治41年(1908年)1月場所 東横綱 8勝0敗1分1休 優勝相当(2)
明治41年(1908年)5月場所 東横綱 7勝1敗1分1休
明治42年(1909年)1月場所 西横綱 7勝0敗1分2休 優勝相当(3)
旧両国国技館開館
明治42年(1909年)6月場所 西横綱 5勝0敗5分
明治43年(1910年)1月場所 西横綱 0勝1敗9休
明治43年(1910年)6月場所 西横綱 0勝0敗1分9休
明治44年(1911年)2月場所 西横綱 3勝1敗6分
明治44年(1911年)5月場所 西張出横綱 10休
明治45年(1912年)1月場所 東張出横綱 5勝1敗4分
明治45年(1912年)5月場所 西張出横綱 1勝1敗3分5休
大正2年(1913年)1月場所 西横綱 4勝1敗5分
大正2年(1913年)5月場所 東張出横綱 0勝1敗1分8休
大正3年(1914年)1月場所 東張出横綱 2勝0敗2分6休
大正3年(1914年)5月場所 西張出横綱 0勝0敗1分9休
大正4年(1915年)1月場所 西張出横綱 1勝0敗2分7休
大正4年(1915年)6月場所 東横綱 10休 引退
  • 1909年1月までは千秋楽には幕内力士は取組が組まれないのが通例だったため、「1休」は休場ではない。

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 小結の荒岩亀之助が8勝1敗と優勝に相当する成績を納めたため。東西制では番付下位で好成績の者がいたら勝ち越しても入れ替わるように降格することがよくあった。
  2. ^ この29年後照國萬藏が23歳4ヶ月で記録を更新した。2013年現在の記録は北の湖敏満の21歳2ヶ月。
  3. ^ 明治の大相撲 梅常陸時代(YouTube動画)
  4. ^ 慰留されることを前提とした辞任の意向であったというが真相は不明。
  5. ^ その後相談役にも処遇されず、平年寄に降格されたという記事もあるが資料不足により不明である(昭和2年の番付はいろは順で年寄が記載され役職が不明であった)。
  6. ^ 下川耿史 家庭総合研究会 編『明治・大正家庭史年表:1868-1925』河出書房新社、2000年、403頁。ISBN 4-309-22361-3 
  7. ^ Sports Graphiv Number PLUS April 2017(文藝春秋、2017年4月10日)p60-62

関連項目[編集]