桜島忠信

 
桜島忠信
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 不明
別名 櫻藝(大学寮での字)
官位 外従五位下大隅守
主君 村上天皇冷泉天皇
氏族 桜島氏
大江斉光
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桜島 忠信(さくらじま の ただのぶ、生没年不詳)は、平安時代中期の官人。姓は櫻嶋とも記される。宿祢官位外従五位下大隅守

経歴[編集]

文章生となり、大学寮の字(あざな)では櫻藝と称され、文章生の年長者としての堂監を務める。しかし、4年にわたり堂監として年労を重ねながらも2度に及ぶ除目で忠信は任官の機会に恵まれず、一方で大学寮に属していない者が財力を背景に文人職を得る状態にあった[注釈 1]。これを憂いた忠信は官位の売官が横行していることを批判し、官吏社会の腐敗を鋭く諷刺した落書を出した。本朝文粋には『桜島忠信落書』として収録されており、この落書によって忠信の大隅守が決まったとされている。

ただし、忠信の大隅守任官が落書による昇進か左遷かは研究者によって意見が異なっている[2]。平安文学の権威として知られる大曽根章介は、著書『王朝漢文学論攷』において、禁じられた落書によって昇進できるはずがない、最果ての地である大隅国に左遷されたとみるべきと評している[2]。一方で王朝漢文学の研究者である後藤昭雄は、忠信の大隅守への転出は落書事件から十数年後のことであり、『本朝文粋』にあるような落書にある栄転とは関係ないと評している[2]

大隅守となった忠信は、在庁官人らの職務怠慢を糾問するために郡司を召したところ、白髪の翁が出てきた[3]。白髪の翁を見て憐れに思った忠信は翁に一首詠ませたところ『老いはてて雪の山をばいただけど霜と見るにぞ身はひえにけり』と返した[3]。この歌に感じ入った忠信は、翁の罪を赦したという逸話がある[3]。これにより忠信の名が世間に広まり、この逸話は『今昔物語集』や『宇治拾遺物語』にも収録されている。また、一説には地名の桜島は忠信の姓から由来するものとされている[4]

官歴[編集]

以下、『類聚符宣抄』および『外記補任』に拠る[5]

系譜[編集]

  • 父:不詳
  • 母:不詳
  • 生母不明の子女

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 藤原衆海という者が書いたとされる落書『秋夜書懐呈諸文友兼南隣源処士』における「本朝文粋註釈」所引の傍注によると、菅原善隣と大蔵弼邦が大学寮に属していないにもかかわらず大和や陸奥での財力を背景に文人職を得ており、一方で桜島忠信や笠忠信は大学寮での年季を重ねながらも権威を持たないために官途が開かれないと記されている[1]
  2. ^ 論文(後藤昭雄 1967)では、播磨介小橡と記述されている[5]

出典[編集]

  1. ^ 後藤昭雄 1967, p. 36.
  2. ^ a b c 岡本健一 編集局特別委員「「歴史万華鏡」落書と申し文 ポスト求めて自薦と批判」『毎日新聞』、1996年10月4日、大阪夕刊、4面。
  3. ^ a b c 伊牟田經正 2004, p. 124-126.
  4. ^ 鹿児島県/国立公園と世界遺産2019年4月21日 閲覧
  5. ^ a b 後藤昭雄 1967, p. 32.

参考文献[編集]

  • 後藤昭雄桜島忠信落書について」『語文研究』第23号、九州大学国語国文学会、1967年2月28日、31-41頁、doi:10.15017/12245 
  • 伊牟田經正「隼人・國分と古典文学」『隼人学:地域遺産を未来につなぐ』、南方新社、2004年。 

関連項目[編集]

  • 橘在列 - 忠信と同じく文章生となった官人。博識抜群あったが官途に恵まれない境遇を漢詩に残し、同じく『本朝文粋』に収録された。