松田正久

松田 正久
まつだ まさひさ
生年月日 1845年5月17日
弘化4年4月12日
出生地 日本の旗 日本肥前国小城郡牛津(現・佐賀県小城市(旧牛津町))
没年月日 (1914-03-04) 1914年3月4日(68歳没)
死没地 日本の旗 日本東京府
出身校 昌平坂学問所
所属政党自由党→)
九州改進党→)
立憲自由党→)
憲政党→)
自由派憲政党→)
立憲政友会
称号 正二位
勲一等旭日大綬章
勲一等旭日桐花大綬章(没時陞勲)
男爵

日本の旗 第13・16・18代 司法大臣
内閣 第1次西園寺内閣
第2次西園寺内閣
第1次山本内閣
在任期間 1906年1月7日 - 1908年3月25日
1911年8月30日 - 1912年12月21日
1913年2月20日 - 1913年11月11日

日本の旗 第7・12代 大蔵大臣
内閣 第1次大隈内閣
第1次西園寺内閣
在任期間 1898年6月30日 - 1898年11月8日
1908年1月14日 - 1908年7月14日

日本の旗 第12代 衆議院議長
在任期間 1904年3月18日 - 1906年1月19日
天皇 明治天皇

日本の旗 第15代 文部大臣
内閣 第4次伊藤内閣
在任期間 1900年10月19日 - 1901年6月2日

在任期間 1890年7月2日 - 1891年12月25日
1898年8月11日 - 1914年1月19日
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松田 正久(まつだ まさひさ、1845年5月17日弘化2年4月12日) - 1914年大正3年)3月4日)は、日本政治家男爵幼名は猪吉郎。は牛州・江村など。

来歴[編集]

肥前国小城郡牛津(現在の佐賀県小城市(旧牛津町))において、小城藩横尾只七の次男として生まれた。13歳の時、同藩士松田勇七の養子となる。松田家は最下級の藩士で、副業として酒造業を営んでいた。

維新後は、昌平坂学問所に派遣されるが、間もなく同校が廃止されたために西周からフランス語を学んだ。西の推薦によって陸軍省入りし[1]1872年には兵学研究のためにフランス留学に赴いた。留学中に西園寺公望を識り、将来の日本には自由主義的な考えが必要と意気投合する。スイスローザンヌで学んだ後、帰国後は陸軍省を辞して佐賀にて自由民権運動に参加する。

1879年には長崎県会議員に、のち同会議長に就任。自由党九州改進党に入党し、さらに西園寺とともに『東洋自由新聞』を創刊した。政府内では松田の才能を惜む意見もあり、自由民権運動が衰退した1887年司法大臣山田顕義の要請を受けて司法省検事となり、関西法律学校(のちの関西大学)にも短期間出講した[2]。翌年には鹿児島高等中学造士館の教頭に就任した。

1890年第1回総選挙で佐賀を地盤として衆議院議員に当選、立憲自由党に参加する。民権派の中心人物と目され、同年9月には政府支持者による暗殺未遂事件があったといわれる。翌年、衆議院予算委員長として第1次松方内閣提出の予算案を廃案に追い込むが、第2回総選挙では、内務大臣品川弥二郎による選挙干渉事件により落選。1898年第6回総選挙まで議席回復はならなかったが、この間に党内の政策・事務に専念し、伊藤博文と自由党との関係回復に努めた。西園寺の仲介によって伊藤の面識を得、次第にその信任を得るにいたった。憲政党による隈板内閣が成立すると、大蔵大臣として入閣し、直後の第6回総選挙で議席を回復した。同党分裂によって内閣はわずか4ヶ月で崩壊するが、のち旧自由党系の憲政党に属し、星亨とともに伊藤の首領とする新党結成運動に奔走した。

1900年、伊藤を総裁とする立憲政友会では総務委員として党組織の編成にあたり、その功により第4次伊藤内閣では文部大臣を務めた。1903年に西園寺が第2代総裁となると、党務に不得手な西園寺に代わって党務を統括した。1904年3月、衆議院議長日露戦争では、第1次桂内閣と議会との協力関係確立に尽力した。第1次第2次西園寺内閣では法相と蔵相をつとめるなど、西園寺、原敬とともに政友会と内閣を支えて、刑法改正や日露戦後の財政再建などに尽力した。

憲政擁護運動では原とともに中心的な役割を果たし、第1次山本内閣では法相として入閣。やがて西園寺が政友会総裁を辞して松田をその後任に推薦するが、大正2年(1913年)11月に至って持病の胃病が悪化し、療養を理由に法相を辞任。翌1914年1月19日、勅使が派遣され男爵が授けられた[3]のを受けて衆議院議員を辞職[4]。同年3月4日に胃潰瘍のため死去した[5]。墓所は青山霊園

人柄[編集]

当時、河野広中西郷従道と並んで「不得要領」、「狸親父」とも評されながらも温厚篤実な人柄で人望を集め、西園寺や星、原など同志を前面にたてて自身は裏方に徹した。原は松田の立ち回りの上手さへの不満を日記に記す一方で、その仕事ぶりを評しており、西園寺が次期総裁に推薦するのも当然と考えていた。原は松田の急死によって後継総裁に就任するが、戸惑いを隠せなかったという。

清貧でスキャンダルとは無縁だったが、西園寺が呆れるほどの物惜しみをすることも少なくなかった。松田が熱海別荘を構えたとの情報を入手した記者が、その真相を確認すべく熱海を訪問したところ、建物は庶民の住宅と見紛う粗末なものだった。松田によれば、体調を崩して診察を受けたところ温泉療養を勧められたが、温泉宿では費用がかかるので別荘を建てて温泉を引いた方が安上りだと説明した、といわれる。

栄典[編集]

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、528頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  2. ^ 関西大学百年史編纂委員会 『関西大学百年史』 通史編上巻、1986年、102-103頁
  3. ^ 『官報』第441号、大正3年1月20日。
  4. ^ 『官報』第443号、大正3年1月22日。
  5. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)284頁
  6. ^ 『官報』第4504号「叙任及辞令」1898年7月6日。
  7. ^ 『官報』第233号「叙任及辞令」1913年5月12日。
  8. ^ a b 『官報』第478号「叙任及辞令」1914年3月6日。
  9. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  10. ^ 『官報』第7415号「叙任及辞令」1908年3月18日。
  11. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年、583頁。
公職
先代
松室致
岡部長職
(新設)
日本の旗 法律取調委員会会長
1913年
1911年 - 1912年
1907年 - 1908年
次代
奥田義人
松室致
千家尊福
先代
阪谷芳郎
日本の旗 臨時国債整理委員会委員長
1908年
次代
桂太郎
その他の役職
先代
松室致
岡部長職
監獄協会会長
1913年 - 1914年
1911年 - 1912年
次代
奥田義人
松室致
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
松田(正久)家初代
1914年
次代
松田正之