松岡雅俊

松岡 雅俊
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県高松市
生年月日 (1932-10-06) 1932年10月6日
没年月日 (2014-07-17) 2014年7月17日(81歳没)
身長
体重
175[1] cm
69[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手三塁手
プロ入り 1956年
初出場 1956年3月21日
最終出場 1961年10月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

松岡 雅俊(まつおか まさとし、1932年10月6日[1] - 2014年7月17日)は、香川県出身のプロ野球選手内野手)。

経歴[編集]

高松一高では、同期の中西太と共に甲子園に3度出場。1949年、控え内野手として出場した春の選抜では準々決勝で小倉高に敗退[2]。同年夏の選手権は準決勝に進むが、佐々木信也のいた湘南高に延長10回サヨナラ負けを喫する[3]。この時のチームメートに捕手山下健二塁手玉木春雄がいた。

3年生時の1951年には、1年下のエース荒井健を擁し、二塁手として夏の選手権に出場。1回戦で秋山登土井淳らのいた岡山東商を降し、準々決勝では芦屋高植村義信投手を打ち崩す。しかし準決勝で、エース清水宏員を擁する平安高に惜敗[3]。チームメートには捕手の松井清がいた。

卒業後は早稲田大学に進学し、1年下の木村保、2年下の森徹らと活躍。東京六大学リーグでは秋山、土井らの明大との二強時代であり、在学中3回の優勝を経験する。1955年春季リーグでベストナインに選出(二塁手)。リーグ通算74試合に出場し252打数57安打、1本塁打、31打点、打率.226。大学同期には捕手の酒井敏明がいる。

1956年東映フライヤーズに入団。開幕から先発として出場し、シーズン前半は主に三塁手、後半は一塁手として起用される。同年は152試合に出場(新人選手としては佐々木信也の154試合に次ぐ歴代2位)、規定打席(30位)にも達した。また二塁手としてもゲーム最多刺殺9(パ・リーグ記録)を残した。同年の新人王、稲尾和久の年間被本塁打2本のうちの1本は松岡が打ったものである(稲尾から本塁打を打った最初の打者でもある)。

1957年から二塁手に回り、浜田義雄稲垣正夫らと定位置を争う。1958年にはレギュラーとして85試合に先発出場。しかし1961年には外野手ジャック・ラドラが二塁手に回り出場機会が減少、同年限りで現役引退。

引退後は東映本社に勤務、その後は大西一世商店の代表取締役となる[4]

2014年7月17日に81歳で死去[5]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1956 東映 152 599 540 46 128 19 5 6 175 48 11 13 7 4 47 4 1 55 14 .237 .299 .324 .623
1957 74 217 195 16 44 7 0 2 57 14 5 3 0 1 19 1 2 18 6 .226 .301 .292 .593
1958 106 339 304 33 68 13 3 3 96 28 5 5 6 3 25 0 1 26 5 .224 .285 .316 .601
1959 81 264 241 23 67 17 1 2 92 20 4 2 5 3 15 0 0 21 3 .278 .320 .382 .702
1960 101 288 263 23 72 5 2 4 93 19 3 8 8 2 15 0 0 20 8 .274 .313 .354 .667
1961 40 40 38 2 7 2 0 0 9 5 1 1 0 0 2 0 0 8 1 .184 .225 .237 .462
通算:6年 554 1747 1581 143 386 63 11 17 522 134 29 32 26 13 123 5 4 148 37 .244 .300 .330 .631
  • 参考文献[1]

記録[編集]

背番号[編集]

  • 25 (1956年)
  • 5 (1957年 - 1961年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 『日本プロ野球記録大百科2004』ベースボール・マガジン社、1381頁。ISBN 978-4-583-03804-9 
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  4. ^ 神宮球場ガイドブック2003年春号「神宮球場から翔び立ったプロ野球のスターたち」越智正典
  5. ^ 毎日新聞 2014年7月18日 17面

関連項目[編集]

外部リンク[編集]