日本在来馬

御崎馬

日本在来馬(にほんざいらいば)は、日本在来馬、すなわち、洋種馬等の外来の馬種とほとんど交雑することなく残ってきた日本固有の、及び、その馬種の総称である。

日本では単に在来馬と言うことも多く、また、和種馬在来和種(馬)とも呼ばれる。また、その馬種を日本在来種日本在来馬種、その馬を日本在来種馬と言うこともある。

現存のものは8品種に分かれるが、その多くは個体数がたいへん少なく、絶滅が危ぶまれている。また、南部馬、三河馬等、中・大型日本在来馬の多くは近代化の過程で絶滅した。(日本)在来家畜の1つである。

起源・歴史[編集]

北海道和種(道産子)

日本在来馬の起源は、古墳時代に、モンゴル高原から朝鮮半島を経由し国内へ導入された蒙古系家畜馬(モウコウマ)と考えられている[1][2]。国家方針として、朝鮮半島勢力の協力の下、軍馬・家畜馬として導入した。

朝鮮半島からの馬の移送は対馬海峡を渡って対馬へ船で運び、そこから玄界灘を渡って九州本土へ船で運んだ。馬の移送は難度が高く、対馬は重要な中継拠点だった。

競走馬理化学研究所とネブラスカ大学などのチームが日本在来馬8品種と世界の32品種のDNAを比較し、日本在来馬は、モンゴル在来馬の祖先が対馬を経由して輸入され、全国に広がった事がわかった。まず対州馬と野間馬が分岐し、ここから木曽馬や北海道和種馬の北上するグループと、御﨑馬やトカラ馬など南下するグループに分かれ、南下グループは南西諸島経由で与那国馬まで至ったという(2020年アニマル・ジェネティクス掲載)[3]

福岡県津屋崎町にある渡半島には「神代に放ち給うた馬の牧跡」の言い伝えがあり、現在でも牧の大明神の祠が残っている。半島などの地形は、潮風により牧草に塩分が含まれ、馬の飼育に適しており、対馬より馬を陸揚げし、渡半島の山に放牧して調教し、日本各地に積み出した[4][5]馬骨馬歯馬具が考古遺跡から出土するのが古墳時代以降であり、大陸から九州に移入されたものと思われる。

これが全国に拡散していき、現在の甲信越地方山梨県塩部遺跡からは日本最古級(古墳時代前期後半・4世紀後半・古墳時代前期第3四半世紀)のウマの馬歯が発見されている[6])、関東地方東北地方蝦夷との交易などにより、急速に本州東北地方へまで広がり[7]、日本は産馬の地となった。

関東地方(現在の群馬県など)も放牧に適していたと思われ、同時代に渡来したと共に出土数が多い。出土骨の形態は、牛では在来牛である見島牛口之島牛のものに似ており、また、馬では御崎馬トカラ馬に類似し、推定体高は128cm前後で、中型馬に属するものが多いが、小型馬も含まれている。

馬具の出土数は九州地方が最多で、祭祀用に用いられたと思われる土馬近畿地方に多く、埴輪馬では関東地方が最多となっている[8]

文献上の記録[編集]

  • 日本書紀雄略天皇13年(469年)九月の歌に「農播?磨能 柯彼能矩盧古磨 矩羅枳制播 伊能致志儺磨志 柯彼能倶盧古磨」(ぬばたまの かいのくろこま くらきせば いのちしなまし かいのくろこま=ぬばたまの(黒の枕詞)甲斐の黒駒を着せていたら、間に合わず命がなかっただろう あぁ甲斐の黒駒よ)とある。
  • 流鏑馬の起源とされる、6世紀中頃(552年)に欽明天皇が国の内外の戦乱を治めるため、九州豊前宇佐の地において、神功皇后・応神天皇を祀り「天下平定・五穀豊穣」を祈願し、最も騎射に長じた者に馬上から三つの的を射させた。という事から、この頃には騎馬技術や騎射技術が普及していたものと思われる。
  • 日本書紀欽明天皇15年(554年)、百済が朝廷と会談して、援軍千人、馬百匹、船四十隻派遣の約束をした記事があり、6世紀中頃にもなると馬を軍事的に海外へ輸出する状況もあった。
  • 日本書紀推古天皇20年(612年)正月7日条には、「宇摩奈羅麼 譬武伽能古摩」(うまならばひむかのこま=馬ならば日向(南九州地域)の馬)[9]とある。
  • 扶桑略記』養老二年(718年)八月には、「出羽井渡嶋蝦夷八十七人来 貢馬千疋 則授位録」(渡島(佐渡津軽北海道など、比定地は諸説あり )の蝦夷出羽の蝦夷とともに八六人で馬千匹(馬10匹の誤写と考えられる)を貢ぎ、夷と禄を授けられた)とある。
  • 類聚三代格』延暦六年 (787年) 正月二十一日の太政官符によれば、王臣や国司が競って綿や鉄を売って「狄馬」(蝦夷の馬)や「俘奴婢」(俘囚・奴隷)を買い求めるために、国内の「綿」や「鉄」が蝦夷社会に流出してしまうことが問題とされている。

古墳時代では小形馬が主流であり、一部中形馬が存在し、奈良時代になると平城京を中心に中形馬が増加するが、小形馬も地方を中心に依然として残る分布状況であったとみられる[10](したがって、古代では近畿圏の方が馬の体格は大きい[注 1])。

その後の歴史[編集]

16世紀琉球王国の場合、商人がに対して琉球産の馬や貝を出しており[11]、自国の馬が特産品であるとの自覚がこの頃には形成されていた事がわかる。これは本土が馬を軍事品・武備と認知していたのとは対照的といえる(琉球人にとっては馬も商品となっていた)。

一方北海道では、松前を訪れた宣教師の記録により17世紀初頭には和人地で馬が用いられていたことがわかる。ただし蝦夷地に馬が渡来した時期は遅く、18世紀末頃と考えられている[12]。この時期、多くの近江商人が東蝦夷地に入って来たため、アイヌ語の「ウンマ(馬)」は関西系のアクセントの影響があると言語学者中川裕に指摘されている。

明治以降、特に日清日露戦争の後に、日本の馬匹改良は、国策としての軍馬増強に主眼が置かれ、馬格の大きい洋種馬との交配による大型化が行われた。まず明治34年(1901年)の「馬匹去勢法」によって、種牡馬及び将来の種牡馬候補以外の牡馬は全て去勢することが定められ、ついで日露戦争後の内閣馬政局の設置(明治39年(1906年))、さらには昭和14年(1939年)の「種馬統制法」によって、これがさらに強化徹底された。この大規模な「改良」の結果、多くの地方では短期間の内に純粋な在来馬が消滅するに至った。

しかしそのかたわら、離島や岬の先端など、主として交通が不便な一部地域には、外国産馬(洋種馬)の血がほとんど入らず、かつての姿をよくとどめる馬群が、細々とではあるが残された。そのような馬群8種を、日本馬事協会が「日本在来馬」として認定し、現在まで保護にあたっている。これらのほかにも農耕馬が使われている地域は存在するが、いずれもある程度洋種馬と混雑しており、純血種に近いものはこの8種のみであると考えられる。

8つの馬種は品種であり、遺伝子的には地域個体群程度の差しかないが、それぞれに特徴があり、体形が異なる。

現存在来8種[編集]

馬 種 地 域 体 高
(肩までの高さ)
頭数
(2011年)
頭数
(1990年)
備 考
北海道和種
(俗称:道産子
北海道 125-135cm 1,085 2,561
木曽馬 長野県木曽地域木曽郡開田村)、
岐阜県飛騨地方
125-135cm 162 68 長野県天然記念物
御崎馬 宮崎県都井岬串間市 100-120cm 80 93 国の天然記念物
対州馬 長崎県対馬対馬市 125-135cm 29 75
野間馬 愛媛県今治市野間 110-120cm 66 34 今治市天然記念物
トカラ馬 鹿児島県トカラ列島鹿児島郡十島村 100-120cm 128 104 鹿児島県天然記念物
宮古馬 沖縄県宮古島宮古島市 110-120cm 30 15 沖縄県天然記念物
与那国馬 沖縄県与那国島八重山郡与那国町 110-120cm 141 115 与那国町天然記念物
注:頭数は、2011年および1990年現在の飼養頭数。各保存団体報告値を日本馬事協会が取りまとめ[13]

このほか、純血種が絶滅してしまっている中・大型在来馬として、南部馬三春駒三河馬能登馬土佐馬日向馬薩摩馬甲斐駒ウシウマなどがある。これらは主に軍馬として利用されていた。また、寒立馬は南部馬と外来馬の交配種とされる。

南部馬[編集]

御料馬金華山号

古来より良質な大型馬を生み出してきた南部馬は明治期に絶滅した。 明治天皇御料馬金華山号は、南部馬の特徴をうかがえる。体高148cm。

特徴[編集]

宮古馬
与那国馬

現存する日本在来馬は、明治期に外国種と混血しなかった駄馬、農耕馬である小型馬・中型馬が占める。これらはポニーに分類され、これはモンゴルの他、中国や朝鮮半島でも最も一般的であった蒙古馬系に属する[要出典]

競馬等で親しまれているサラブレッドなどの近代軽種馬と比べた場合の特徴として、全体としてずんぐりした体形、具体的には、やや大きめの頭部、太短くて扇形の首つき、丸々とした胴まわり、体格のわりに長めの背、太くて短めの肢、豊かなたてがみや尾毛、などが挙げられる。顔面や四肢の白微はなく、特に木曽馬などでは背中に鰻線(まんせん、背筋に現れる色の濃い線)をもつものが多い。ただし、各馬種ごとにも体形には違いが見られる。多くの毛色と体型が残っているのは飼育頭数がおおい道産馬である。在来馬においては毛色のバリエーションが限られているのは、江戸時代以降、飼育頭数が減ったボトルネックの影響と思われる。絵巻ものなどからは、かつての日本の馬には様々な毛色の馬が存在していたことがわかる。

日本在来馬は体質強健で、よく粗飼に耐える。消化器官が発達しており、そのため、野草のみでも育成できると言われる。体は丈夫で、寒冷地でも年間放牧が可能であるとされる。平均的に骨やが堅く、骨折などの事故はあまり起きない。この「蹄が堅い」という在来馬の特長から、日本では雪国で馬にはかせる藁沓(わらぐつ)を除いて、蹄鉄が発達しなかった。

さらに、特徴的な歩様(歩き方)として、日本在来馬は「側対歩」、すなわち、前後の肢を片側ずつ左右交互に動かす変則速歩で歩く。この歩様は上下動が少ないため駄載に適し、特に険しい山道での運搬には向いている。体格のわりに力強く、特に後ろ脚が発達していることもあり、日本在来馬は傾斜地の歩行をあまり苦としない。また、比較的温和な性格のため、ハミをかませる必要もなく、容易に扱うことができたとされる。このことが原因の1つとなって、日本では明治に至るまで、去勢術が定着しなかった。

保護[編集]

現存の日本在来馬の中には、木曽馬のように、純血種としては一度絶滅したものを、戻し交配によって復活させたものもある。

8品種がそれぞれ文化財として指定を受け、日本馬事協会および各地保存会によって、頭数の維持・増加が図られているが、総数としては、1996年から減少の一途をたどっている。2002年現在、8品種で2,400頭ほどだが、その過半(約1,800頭)は北海道和種に占められており、他の7品種は合わせても600頭ほどにしかならない。

貴重な純血種として在来馬をただ保存するだけではなく、積極的な活用策の構築が望まれる。

現在、御崎馬が、国の天然記念物[注 2]に指定されているほか、木曽馬が長野県の天然記念物、野間馬が今治市の天然記念物、トカラ馬が鹿児島県の天然記念物、宮古馬が沖縄県の天然記念物、与那国馬が与那国町の天然記念物にそれぞれ指定されている。

江戸期における馬数の想定[編集]

前近代において庶民や下級武士は鐙をつけての乗馬は許されなかったが、飼育や初期調教は百姓身分が担当した。『職人歌合』にも載る「馬喰」、つまり馬の仲買人業が続いたためである。その為、農民の子でも飼育方(どの草を食べさせてはいけないかなど)を覚えた。江戸期では農家の五軒に一頭の割合で馬を飼っていたとされる[14]。なお、江戸期における人口の7割は農民とされる[15]。幕末時の人口は3千万人ほどとされる[16]事から、実に2100万人が農民である。西洋馬の導入が本格化する以前の幕末を和種馬数のピークと仮定し、仮に一軒平均を10人と想定しても、2100万人いる農家に対し、42万頭前後が飼育されていた事になる。さらに、野生馬や軍事馬、奉納神馬、駅馬などを含めて想定した場合、それを上回ると想定される。

目的別呼称[編集]

軍記物語である『吾妻鑑』では、以下の様に区別している。

  • 駿馬(しゅんめ):よく走る馬[注 3]。体格よく、体力があるので、軍馬として用いられる。
  • 早馬(はやうま):急時、伝令などに用いられる。
  • 伝馬(てんま):運送用馬(律令時代から整えられている)。
  • 神馬(じんめ):神社に奉納される馬(様々な毛色の馬が奉納されていた)。
  • 異馬(いば):多足(突然変異体)など一般の馬とは外見が異なる。建久4年から5年にかけて九足が記載されている。

信仰[編集]

  • 東北地方
    • おしら様 - 馬を愛した娘がその馬と夫婦となるも、それを知って激怒した父親に馬を殺され、娘がそのまま馬の首と共に昇天した事で成り立った家の神(対神)がオシラサマであると『遠野物語』内の説話にある。馬の首をつり下げたの枝にて神像を作る。この他、馬とオシラサマに関連した説話がいくつか語られており、今に続く、日本在来馬の信仰の1つと言える(馬神を家の神とするところに特色がある)。
  • 中部・関東地方
    • 甲斐の黒駒 - 『日本書紀』などに記述が見られる名馬の産地であった甲斐国の馬を指す伝承。聖徳太子伝承と結びつく。
    • 生食 - 平安末期に八幡神の使いの馬と信仰された名軍馬で、各地に生食に由来する神社がある(磨墨塚も参照。各地に名馬・磨墨の塚の伝承がある)。

その他[編集]

  • 中世日本では、馬の体高は四(120 cm前後)を基準として、それ以上の個体をで数えた[17](なお、この場合、寸はキと読む)。『宇治拾遺物語』(13世紀前半成立)では、丈八寸、つまり四尺八寸余(144 cm前後)の馬が登場しているが、14世紀前半の鎌倉の戦いの遺骨から復元された馬の平均体高は130 cmであった[18]。また、『吾妻鑑』の文治5年(1189年)8月10日条に、西木戸国衡と言う武士が、奥州第一の駿馬「高楯黒(タカダテグロ)」と号す馬を所有していたが、九寸(147センチ)の大きさであったと記されている[注 4]
  • 古墳時代では、モンゴル文化(英語版)の影響から、馬が霊魂を運ぶ動物と認識されたため、古墳上には舟形埴輪と共に馬形埴輪も置かれるようになった。こうした馬形埴輪の近くからは馬飼の人物埴輪(俗に、踊る埴輪と呼称されるタイプ)も出土する。古墳時代以後は、馬が他界へ送る動物と認知されていないことを考えれば、当時の権力者の間に認識されていた信仰観といえる。
  • 日本書紀』の雄略期の話の中に、応神天皇陵の馬形埴輪が赤馬に化け、人を乗せ(後々、その人物は応神天皇の皇霊と解釈される)、速く走ったといった怪異話があり、古代から馬に関する怪異は語られてきた。江戸時代になると、和種馬に関連した妖怪文化も盛んとなる。馬憑き馬の足首切れ馬などは、和種馬の妖怪である(鞍野郎のような馬具の妖怪もいる)。逆にいえば、近世と違って、和種馬が身近ではなくなった現代において、こうした和種馬関連の怪談や妖怪話は皆無に等しい。例えば、馬憑きの話は現在ではほとんど症例がないが、これも日本在来馬の文化といえる。
  • 明恵上人が宇治茶の栽培の指導にあたって、乗馬して畑を歩かせ、その足跡に茶の種をまくようにと教えたとされる[19]。これは馬の歩幅が株間に適当であったためであり、現在も黄檗(おうばく)山門前には「駒の足影」の碑が建てられている。中世の茶作りに在来馬の歩幅が重要な役割を果たしていた。
  • 徒然草』(14世紀成立)の第183段には、「角で人を突くなら角を切り~(中略)、人に噛みつく馬ならその耳を切ってその印とする」とあり、犬にしても馬にしても、人に噛みつく動物を飼う事は(刑法)で禁じられており、印をつけないのは飼い主の責任であると記している。中世においても馬に関して社会的なルールが決められていた事が分かる記述である。
  • 前近代、軍馬として用いられた在来馬は、「相手の馬に噛みつき、歩兵を蹴りつけ、踏み殺し、時に乗り手の命令に従わぬ荒々しい馬が求められた」とされる。
  • 源平盛衰記』には、武蔵武士が「乗りかえ馬三騎[注 5]」と活動している様が記述されているが、大鎧(冑など含め、全重量30 kg前後)といった重量のある甲冑を着用する武者を乗せた場合、体力が持たず、長期的な合戦には数頭用意したためである[注 6]。そのため、騎射が全盛であった中世前期の武士は馬を数頭必要とした。
  • 前述のように、前近代の日本では去勢術が定着しなかったことにより、発情期の際は荒々しく、こうした時期に戦が重なった場合、それを乗りこなす技量が必要であった。このことが海外馬と比べて、和種馬は荒い馬であると認知された一因と見られる。
  • 馬を養うためには人の約十倍もの塩の摂取が必要とされ[20]、古代の遺跡から出土する馬骨の付近からは製塩土器も見つかっている。従って、騎馬軍団=人馬共々を維持するためには膨大な塩が必要となり[注 7]補給する場所の確保も条件となる。戦国期に、上杉氏が敵である武田氏塩を贈る逸話があり、甲斐国領民が苦しんでいるという噂から人道的支援をした語りとなっているが、内陸の騎馬軍団にとって重要なのは、馬を維持するための塩の方といえる。

参考文献[編集]

  • Nozawa, Ken; Shotake, Takayoshi; KAWAMOTO, Yoshi; others (1998). “Phylogenetic relationships among Japanese native and alien horses estimated by protein polymorphisms”. Journal of Equine Science (Japanese Society of Equine Science) 9 (2): 53-69. doi:10.1294/jes.9.53. https://doi.org/10.1294/jes.9.53. 
  • 野澤謙, 庄武孝義, 伊東慎一「蛋白多型による日本在来馬の起源に関する研究」『Hippophile= ヒポファイル』第5号、日本ウマ科学会、1999年9月、1-16頁、CRID 1520290884742790144ISSN 18836062 
  • 野澤謙「東アジアの在来馬」『アジア遊学』第35号、勉誠出版、2002年1月、21-33頁、CRID 1521980705646421376 

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 文献上では、『続日本紀霊亀2年(716年)6月7日条に、新羅国の丈五尺五寸(165センチ)の紫の驃馬(ひょうば・強い馬)2匹を献上した記述があり、事実とすれば、国内にも大形馬が極々一部渡来していた事になり、中央に集中していた事にもなる。
  2. ^ 指定名称は「岬馬およびその繁殖地」。
  3. ^ 上馬(じょうめ=優れた馬)・中馬(ちゅうめ=中等な馬)・下馬(げば=下等な馬)の内、駿馬は上馬に分類される。
  4. ^ また、源義経の「太夫黑」、 また、今川義元の愛馬等で五尺馬も生まれている。四尺八寸を超える馬は、「八寸(やき)に余る」と呼ばれ、在来馬の中では、大馬と認知された(従って、高楯黒は大馬である)。参考・週刊朝日百科1 『日本の歴史 中世Ⅰ-① 源氏と平氏 東と西』 朝日新聞社 2002年 4-23
  5. ^ 『続日本紀』養老5年(721年)3月9日条に、馬の所有数に関する記述があり、「五位の者は四匹、六位以下庶民までは三匹」とあり、一般的な武士は三頭が限度であり、源義経の乗りかえ馬が四頭なのは、義経自身が五位のためである。従って、乗りかえ馬の数の差は、位の高低の違いによる。
  6. ^ 『続日本紀』天平11年(739年)4月14日条には、「天下諸国に令し、駄馬(荷を運ぶ馬)一匹が背に負う荷物の重さは、大二百(120 kg)であったのを改め、百五十斤(90 kg)を限度にすると決めた」とあり、運送馬でも100 kg前後の荷で体力に問題が生じた事がわかる。仮に、全武装が30 kgで武人自体の体重が60 kgとしても、計90 kgで、馬の体力が保てる割合であり、鉄砲の弾を防ぐ馬甲まで備えた場合、長時間馬を走らせる事は困難である。従って、前近代のアジア馬といった中形馬で戦術論を無視した「騎兵万能論」は成り立たない。
  7. ^ 厩牧令(くもくりょう)』の記述では、上等馬の場合、毎日、塩2を与え、中等馬の場合、塩1勺、下等馬には食べさせないとあり、上等な軍馬を養うのに塩が重要とされた事がわかる。なお、上等馬にはも毎日食べさせていた。

出典[編集]

  1. ^ 野沢謙が、血液蛋白を指標とする遺伝学的解析を行った。
  2. ^ 川嶋舟, 颯田葉子「日本在来馬のミトコンドリアDNA多型」『東京農業大学農学集報』第54巻第3号、東京農業大学、2009年12月、211-213頁、CRID 1050001338710974976ISSN 0375-9202NAID 1100073893462023年10月18日閲覧 
  3. ^ “日本在来馬、対馬から全国へ 南の小型馬も中型馬と同じルート:朝日新聞デジタル”. (2020年11月6日). https://www.asahi.com/articles/DA3S14683811.html 
  4. ^ 参考 福津郷土史会”. 2020年10月20日閲覧。
  5. ^ 福津郷土史会”. 福津郷土史会. 2021年10月26日閲覧。
  6. ^ 遺跡トピックスNo.0268日本最古級のウマ-塩部遺跡(しおべいせき)〔甲府市〕”. 山梨県. 2021年10月27日閲覧。
  7. ^ 奥州市で5世紀後半の馬骨が出土
  8. ^ 研究代表者 西中川駿『古代遺跡出土骨からみたわが国の牛,馬の渡来時期とその経路に関する研究』西中川駿〈科学研究費補助金(一般研究(B))研究成果報告書〉、1991年https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-01490018 
  9. ^ 当時の日向は鹿児島宮崎を含んだ南九州地域の総称とされる
  10. ^ 松井章 『動物遺存体から見た馬の起源と普及』(『日本馬具大鑑 一』所収、40頁、1992年)
  11. ^ 『Story 日本の歴史 古代・中世・近世史編』 日本史教育研究会 山川出版社 2001年 ISBN 4-634-01640-0 p.137
  12. ^ 『東北学 vol.7』 作品社 2002年 ISBN 4-87893-513-8 p.120
  13. ^ 日本在来馬の飼養頭数の推移 (PDF) 社団法人日本馬事協会 (2012年9月11日閲覧)
  14. ^ 本田豊著 『絵が語る 知らなかった江戸のくらし 農山漁民の巻』 遊子館 2009年 ISBN 978-4-946525-99-5 p.56
  15. ^ 小和田哲男 『この一冊で 日本の歴史がわかる!』 三笠書房 1996年 ISBN 4-8379-1628-7 p.222
  16. ^ 江戸時代の日本の人口統計#幕末の推定人口変遷
  17. ^ 『中島悦次校注 宇治拾遺物語』 角川ソフィア文庫 初版1960年 p.183の脚注21より
  18. ^ 青木康洋 (2015年8月31日). “なんだこれは!馬を背負った武士の銅像に隠された真実!”. だれかに話したくなる、歴史の裏側. Business Journal. 2023年11月26日閲覧。
  19. ^ お茶人の友4『煎茶の心得』 世界文化社(普及版) 13刷1999年(初版 1985年) ISBN 4-418-85304-9 p.147
  20. ^ 『今来才伎 古墳・飛鳥の渡来人』 大阪府立近つ飛鳥博物館 2004年 p.26

関連項目[編集]

外部リンク[編集]