新続古今和歌集

新続古今和歌集』(しんしょくこきんわかしゅう)は、室町時代勅撰和歌集二十一代集の最後にあたる。

概要[編集]

室町幕府第6代将軍足利義教執奏により、後花園天皇の勅宣によって、権中納言飛鳥井雅世(初名雅清)が撰進、和歌所開闔として堯孝編纂に助力した[1]永享5年(1433年)8月25日下命、同10年(1438年)8月23日四季部奏覧、翌11年(1439年)6月27日成立[1]。真字序・仮名序は一条兼良の筆である[1]。撰進のために『永享百首』が作られ[1]宝治後嵯峨院)・弘安亀山院)・嘉元後宇多院)・文保(同)・貞和尊円法親王)度の百首歌も選考資料となる。

歌数は2144首[1]、部立は春(上下)・夏・秋上下・冬・賀・釈教・離別・羈旅・恋(1-5)・哀傷・雑(上中下)・神祇から成る[1]。雑下に長歌折句物名・俳諧歌を含み、撰歌範囲は『万葉集』から当代まで及ぶ[1]。二十巻勅撰集の伝統的な構成を持ち、『続古今和歌集』の部立から、神祇と賀歌を入れ替え、千載集に倣い神祇を末に置いた他に相違はない。

入集した主要歌人は、飛鳥井雅縁(29首)・藤原良経(28首)・後小松院(26首)・藤原俊成(22首)・藤原定家(19首)・頓阿(19首)・後鳥羽院(18首)・足利義教(18首)・飛鳥井雅世(18首)・二条為定(14首)・飛鳥井雅有(14首)・順徳院(13首)・慶運(13首)などである[1]。飛鳥井雅世が撰者となった関係から飛鳥井家の人々が多数を占め、二条家や頓阿流も厚遇された[1]。一方で、飛鳥井家と対立した冷泉家の人々は冷遇された(冷泉為尹が6首、冷泉為秀が6首、阿仏尼が5首、了俊が1首など)[1]。皇族や公家、上級武士の歌も幅広く入集している[1]

歌風は、幽玄・枯淡を基調とする二条派の歌風を踏襲する。『新古今和歌集』時代と二条家流の歌人が多いが、和歌史上の鮮明な特徴は無く、当時の権力者への妥協の産物とされる[1]。さらに、南朝の『新葉和歌集』から、花山院師兼(1首)・宗良親王(3首)などの数首を「詠人不知」として収録している点が注目される。

その後、寛正6年(1465年)に飛鳥井雅親が撰者に選ばれ、新たな勅撰集の計画が進んだが、応仁の乱によって中断し、以後勅撰集は編まれなかった[1]

校注[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第3巻』岩波書店、1984年4月、479頁。 

外部リンク[編集]