斎藤良衛

斎藤 良衛
生誕 1880年11月15日
死没 (1956-11-04) 1956年11月4日(75歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学政治科
職業 外交官
外務省顧問
南満州鉄道最高顧問
会津短期大学学長
配偶者 一ノ瀬コウ
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斎藤 良衛(さいとう りょうえ[1]1880年明治13年)11月15日- 1956年昭和31年)11月4日)は、日本の外交官外務省通商局長を最後に退官し、南満州鉄道理事、同最高顧問、外務省顧問を務める。『支那ニ於ケル外国人ノ権利義務』で法学博士東京帝国大学[2]会津短期大学学長歴任。

生涯[編集]

経歴[編集]

会津藩士[3]であった斎藤家に、医師の長男[4]として生まれる。会津中学に進学し、同級生には岸本正雄常盤盛衛などがいた[5]。検定試験から東京帝大に進み、卒業の翌々年(1910年)に外交官及領事官試験に合格した。同期生は9名で、首席合格者が斎藤博である[6]オタワワシントンでの在勤もあったが、中国勤務が長く[7]、本省では通商局課長、同局長を歴任した。1920年(大正9年)には中国の賠償金支払いを巡って日本人に銃撃を受け危篤状態に陥っている[8]1927年(昭和2年)に退官し、満鉄理事、関東軍外交顧問、外務省顧問を務める。南京事件の際は、松井石根に同行した[9]第二次世界大戦中は満鉄の最高顧問であったが、サイパン島が陥落すると辞職し、電波兵器工場の工員として働いた[10]。この時期に陸軍高官らに中国からの全面撤兵を説き、憲兵隊に捕らわれている[10]。戦後、外務官僚は37名が公職追放処分を受けたが、斎藤は対象になっていない[11]。郷里に戻った斎藤は会津短期大学の第二代学長[12]となる。二瓶兵二(欧米局第一課長[13]、トルコ参事官)は外交官試験同期で、ともに会津会会員[14]である。

松岡洋右との関係[編集]

斎藤は初任地の天津清国公使館二等書記官であった松岡洋右と知り合い、松岡の満鉄副社長、外務大臣時代にそれぞれ満鉄理事、外務省顧問を務めた。斎藤は「松岡外交の最高補助者」を自認し、北岡伸一がその満鉄理事への就任が松岡の推挙と推定する[* 1]ように両人は近い存在であった。松岡や近衛文麿に奨められた第二次近衛内閣での外務省顧問就任に際しては、松平恒雄宮相に相談し、「外務上層部の戦争突入のブレーキ役」として就任を決意する[15]。しかし、日独伊三国同盟交渉に際して辞職を考慮し、斎藤によれば松平や小幡酉吉に相談したが引き止められたという[16]。斎藤は三国同盟締結に協力し、戦後に松岡が意図した所を明らかにするため『欺かれた歴史』[* 2]を著す。同書の緒言は以下のように結ばれている。

三国同盟は、締結当時から今日まで、きびしい批判を受けている。それが外交責任者としての松岡への非難となったことは、当然とはいいながら、この同盟の真相を知る者から見れば、はなはだ彼に気の毒である。そればかりか日本の外交に対する誤解ともなる。そこで私は、この真相を赤裸々にぶちまける決心をした。そのある部分は松岡攻撃になるが、これがかえって彼に喜ばれるような気がする。(中略)なお、松岡外交に関する松岡の失敗は、最高補助者としての私の失敗でもあり、松岡に対する私の筆誅は、同時に私自身に対する筆誅でもあり、私の自己批判であることは、いうまでもない。

栄典[編集]

外国勲章佩用允許

主な著書等[編集]

戦前
  1. 近世東洋外交史序説』巌松堂、1927年
  2. 最近支那国際関係』国際連盟協会叢書、1931年
  3. ソビエト露国の極東進出』日本評論社、1931年
  4. 外国人ノ対支経済活動ノ法的根拠』(第1巻) 外務省通商局、1937年
  5. 外国人ノ対支経済活動ノ法的根拠』(第2巻) 外務省通商局、1937年
  6. 外国人ノ対支経済活動ノ法的根拠』(第3巻) 外務省通商局、1937年
  7. 外国人ノ対支経済活動ノ法的根拠』(第4巻) 外務省通商局、1937年
  8. 外国人ノ対支経済活動ノ法的根拠』(第5巻) 外務省通商局、1937年
  9. 外国人ノ対支経済活動ノ法的根拠』(第6巻) 外務省通商局、1937年
戦後
  1. 日独伊三国同盟回顧』1951年(外務省 日本外交文書デジタルアーカイブ 日独伊三国同盟関係調書集)
  2. 『太平洋戦争由来記 松岡外交の真相』要書房、1952年。復刻「日本外交史人物叢書 第22巻」ゆまに書房、2002年 
  3. 『欺かれた歴史 松岡と三国同盟の裏面』読売新聞社、1955年
新版再刊
  • 『欺かれた歴史 松岡洋右と三国同盟の裏面』 中公文庫、2012年
  • 『革命ロシアの極東進出 満洲事変前夜まで』 書肆心水、2021年
  • 『近代中国と列強の利権 積弱大国に展開する経済の国際政治』 書肆心水、2021年

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 斎藤は当時の田中義一総理に満鉄理事への転身を打診されたと述べている(『欺かれた歴史』77頁。
  2. ^ この書は近衛文麿大橋忠一(第二次近衛内閣外務次官)の回想録とともに日独伊三国同盟、日独伊ソ四国協商、日米交渉、日中戦争終結へと繋がる一連の松岡構想の「通説的理解を裏付けるもの」とされるが、この理解には疑問も呈されている(筒井清忠編『解明・昭和史』朝日新聞社、2010年。服部聡「日独伊三国同盟」)。
出典
  1. ^ 『欺かれた歴史』「著者紹介」
  2. ^ 『学位大系博士録』発展社出版部、1940年。
  3. ^ 『欺かれた歴史』146頁
  4. ^ 『大衆人事録 東京篇』「斎藤良衛」
  5. ^ 『福島県立会津高等学校同窓会員名簿』(1960年)
  6. ^ 『戦前期日本官僚制の制度・組織・人事』431頁
  7. ^ 『欺かれた歴史』(中公文庫)北岡伸一「解説」
  8. ^ 『陰謀・暗殺・軍刀』11-12頁
  9. ^ 渡部昇一. “日本とシナ:1500年の真実”. PHP研究所. 2013年2月27日閲覧。
  10. ^ a b 『欺かれた歴史』247-249頁
  11. ^ 戸部良一『外務省革新派』中公新書、2010年。ISBN 978-4-12-102059-8 
  12. ^ 『福島県立会津短期大学沿革史』340頁
  13. ^ 『会津会雑誌第29号』斎藤良衛「外務省に於ける会津人」
  14. ^ 『会津会雑誌第51号』(1937年)
  15. ^ 『欺かれた歴史』38-41頁、144頁
  16. ^ 『欺かれた歴史』158-159頁
  17. ^ 斎藤良衛外四十一名外国勲章記章受領及佩用ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10113452900 

参考文献[編集]

外部リンク[編集]

先代
佐分利貞男
外務省通商局長
1926年 - 1927年
次代
武富敏彦