持明院基家

 
持明院基家
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 長承元年(1132年
死没 建保2年2月26日1214年4月7日
改名 通基(初名)→基家→真智(法名)
官位 正二位権中納言
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇守貞親王
氏族 藤原北家中御門流持明院家
父母 父:藤原通基
母:上西門院一条(源師隆の娘)
兄弟 藤原通親藤原通重基家、良基、長基、藤原公通室、藤原実綱室、休子
上西門院因幡(源長時の娘)、平頼盛の娘
阿古
基宗保家陳子藤原実宗室、平資盛正室、園基氏、行雲、俊玄、源兼忠室、惟明親王
養子:藤原基行
特記
事項
後堀河天皇の外祖父
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持明院 基家(じみょういん もといえ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけての公卿大蔵卿藤原通基の三男。官位正二位権中納言持明院家3代当主。後堀河天皇の外祖父。

経歴[編集]

長承元年(1132年)、誕生。初名は通基。

父の通基より持仏堂の持明院(祖父の基頼が創建)を継承する。久安元年(1145年)11月、叙爵(従五位下)。能登守美作守左近衛中将などを歴任した後、承安2年(1172年)正月、従三位に叙された。更に治承三年の政変の後に右京大夫に任じられ、寿永元年(1182年)10月、参議に任ぜられる。平頼盛の娘を室とし、守貞親王の乳母人となってその養育に当たっていたが、寿永2年(1183年)に守貞親王が平家一門に伴われて都落ちした際には供奉せず都に留まる。同年木曾義仲のクーデターにより解官、義仲上京による政治的混乱を避けるため、舅の頼盛や甥の一条能保の後を追って関東に亡命した。

義仲が滅亡した後には再度都に戻り、妻と共に西海から戻った守貞親王に再び仕える。持明院を守貞親王の居所として提供し、また娘の陳子をその妃とした。文治6年(1190年)には正二位まで昇り、建仁元年(1201年)に出家して引退(法名は真智)。建保2年(1214年)2月26日、83歳で死去した。

承久3年(1221年)、承久の乱の後に仲恭天皇が廃立されると、陳子の生んだ茂仁王が後堀河天皇として践祚した。基家の子孫は羽林家持明院家として発展した。

逸話[編集]

  • 鎌倉時代の禅僧・道元の言葉を弟子の懐奘が記した『正法眼蔵随聞記』に下記の記述がある。

「示して云く、伝へ聞く、実否は知らざれども、故持明院の中納言入道、あるとき秘蔵の太刀を盗まれたりけるに、士ひの中に犯人ありけるを、余の士ひ沙汰し出してまひらせたりしに、入道の云へらく、此れは我が太刀にあらず、ひがごとなりとてかへされたり。決定その太刀なれども、士ひの恥辱を思ふてかへされたりと人皆な是を知りけれども、其の時は無為にしてすぎけり。故に子孫も繁昌せり。俗なを心ろある人はかくの如し。いはんや出家人、必ずしも此の心あるべし。出家人はもとより身に財宝なければ、智慧功徳を以てたからとす。他の無道心なるひがごとなんどを、直に面てにあらはして非におとすべからず、方便を以て彼れのはらたつまじき様に云ふべきなり。・・・」(出典:岩波文庫版 P.102~103)

  • 基家の母である上西門院一条(源師隆の娘)は統子内親王(上西門院)の乳母を務め、妻である持明院宰相局(平頼盛の娘)は守貞親王(後高倉院)の乳母を務めた。後に統子内親王と守貞親王の間で猶子関係が結ばれ、親王妃に娘の持明院陳子(北白河院)が選ばれた背景には基家と彼を取り巻く人的つながりがあったと考えられている。また、息子の保家は甥である一条能保の養子となり、娘の一人は藤原実宗に嫁いで西園寺公経を生んだ。後に西園寺公経が一条能保の娘婿になったのも、基家との関係を抜きには出来ないとされている。更に別の息子である基宗も妻の成子が後堀河天皇の乳母に、娘の宗子は四条天皇の乳母となり、孫の別当典侍も後堀河天皇の寵愛を受けて後に女院となる2名の皇女(暉子内親王体子内親王)を儲けた。こうした基家を中心とした人的なつながりは、彼の没後に後堀河天皇が即位すると、持明院家や縁戚の西園寺家などを有力な外戚として押し上げることになった[1]

官歴[編集]

公卿補任』による。

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『尊卑分脈』では、基宗の母を散位隆重の娘とする。

出典[編集]

  1. ^ 曽我部愛『中世王家の政治と構造』同成社、2021年、P21-23.
  2. ^ 曽我部愛『中世王家の政治と構造』同成社、2021年、P23.
  3. ^ 高橋昌明『平家の群像 物語から史実へ』
先代
藤原通基
持明院家
3代
次代
持明院基宗