懿徳天皇

懿徳天皇
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「懿徳天皇」(部分)

在位期間
懿徳天皇元年2月4日 - 懿徳天皇34年9月8日
時代 伝承の時代
先代 安寧天皇
次代 孝昭天皇

誕生 綏靖天皇29年
崩御 懿徳天皇34年9月8日 77歳
陵所 畝傍山南繊沙渓上陵
漢風諡号 懿徳天皇
和風諡号 大日本彦耜友天皇(紀)
大倭日子鉏友命(記)
父親 安寧天皇
母親 渟名底仲媛命(紀)
阿久斗比売(記)
皇后 天豊津媛命(紀)
賦登麻和訶比売命(記)
子女 観松彦香殖稲尊(孝昭天皇
武石彦奇友背命
皇居 軽曲峡宮(軽之境岡宮)

欠史八代の1人。
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懿徳天皇(いとくてんのう、旧字体懿德天皇、綏靖天皇29年 - 懿徳天皇34年9月8日)は、日本の第4代天皇(在位:懿徳天皇元年2月4日 - 懿徳天皇34年9月8日)。『日本書紀』での名は大日本彦耜友天皇欠史八代の一人で、実在性については諸説ある。

略歴[編集]

磯城津彦玉手看天皇(安寧天皇)の第二皇子。母は鴨王事代主神の孫)の娘の渟名底仲媛命(『日本書紀』)。兄弟として同母兄に息石耳命(または常津彦某兄)、同母弟に磯城津彦命がいる。父帝が崩御した翌年の2月に即位。即位2年1月、軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)に都を移す。同年2月、息石耳命の娘の天豊津媛命を皇后として観松彦香殖稲尊(後の孝昭天皇)を得た。即位34年、崩御。

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  • 大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと) - 『日本書紀
  • 大倭日子鉏友命(おおやまとひこすきとものみこと) - 『古事記

漢風諡号である「懿徳」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[1]

事績[編集]

日本書紀』『古事記』とも系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。 『先代旧事本紀』によると食国政申大夫出雲色命を大臣とした。

系譜[編集]

系図[編集]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2 綏靖天皇
 
神八井耳命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3 安寧天皇
 
多氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4 懿徳天皇
 
息石耳命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5 孝昭天皇
 
天豊津媛命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6 孝安天皇
 
天足彦国押人命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7 孝霊天皇
 
和珥氏
 
押媛
(孝安天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8 孝元天皇
 
倭迹迹日百襲姫命
 
吉備津彦命
 
稚武彦命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦太忍信命
 
9 開化天皇
 
大彦命
 
 
 
 
 
吉備氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
屋主忍男武雄心命
 
 
 
 
 
 
阿倍氏
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武内宿禰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
葛城氏
 
 
 
 
 


后妃・皇子女[編集]

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

  • 皇后天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)
    『日本書紀』本文による。息石耳命の娘で、懿徳天皇の姪にあたる。
    ただし、同書第1の一書では猪手(磯城県主葉江の男弟)の娘の泉媛、第2の一書では磯城県主太真稚彦の娘の飯日媛とし、『古事記』では師木県主の祖の賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめのみこと、亦名を飯日比売命)とする[2]
    • 皇子:観松彦香殖稲尊(みまつひこかえしねのみこと、御真津日子訶恵志泥命) - 第5代孝昭天皇
    • 皇子:武石彦奇友背命(たけしひこくしともせのみこと、『日本書紀』一書、多芸志比古命:『古事記』) - 日本書紀本文なし。血沼之別・多遅摩之竹別・葦井之稲置らの祖(記)。

年譜[編集]

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである[3]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

  • 綏靖天皇29年
    • 誕生
  • 安寧天皇11年
    • 1月、16歳で立太子
  • 懿徳天皇元年
    • 2月、即位
  • 懿徳天皇2年
  • 懿徳天皇22年
  • 懿徳天皇34年
    • 9月、崩御。宝算は77歳、『古事記』では45歳という[2]
  • 懿徳天皇34年の翌年
    • 10月、畝傍山南繊沙渓上陵に葬られた

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軽曲峡宮跡伝承地碑
奈良県橿原市

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では軽曲峡宮(かるのまがりおのみや)、『古事記』では軽之境岡宮(かるのさかいおかのみや)[4]

宮の伝説地は、現在の奈良県橿原市大軽町周辺と伝承される[4][2]。同地付近の白橿町では、「軽曲峡宮跡伝承地」碑が建てられている(北緯34度28分18.25秒 東経135度47分38.03秒 / 北緯34.4717361度 東経135.7938972度 / 34.4717361; 135.7938972 (伝・軽曲峡宮阯)[5]

陵・霊廟[編集]

懿徳天皇 畝傍山南繊沙渓上陵
(奈良県橿原市)

(みささぎ)の名は畝傍山南繊沙渓上陵(うねびやまのみなみのまなごのたにのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県橿原市西池尻町にある俗称「マナゴ山」に治定されている(北緯34度29分20.04秒 東経135度46分54.43秒 / 北緯34.4889000度 東経135.7817861度 / 34.4889000; 135.7817861 (畝傍山南繊沙渓上陵(懿徳天皇陵))[6][7][8]。宮内庁上の形式は山形。

陵について『日本書紀』では前述のように「畝傍山南繊沙渓上陵」、『古事記』では「畝火山の真名子谷の上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「畝傍山南繊沙渓上陵」として兆域は東西1町・南北1町、守戸5烟で遠陵としている[8]。しかし後世に所伝は失われ、幕末修陵に際して現陵に治定された[8]。なお、橿原市畝傍町のイトクの森古墳はその名から懿徳陵とされることもあったが、一説に皇后陵だともいわれる。

また皇居では、宮中三殿の一つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに懿徳天皇の霊が祀られている。

考証[編集]

実在性[編集]

懿徳天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もあり、懿徳天皇までの3代は在位年数が短いことも指摘される[9](詳細は「欠史八代」を参照)。

名称[編集]

和風諡号である「おおやまとひこ-すきとも」のうち、「おおやまとひこ」は後世に付加された美称、「すきとも」は「すきつみ」からの転訛で、その末尾の「み」は神名の末尾に付く「み」と同義と見て、懿徳天皇の原像は「すきつみ(耜友/鉏友)」という名のの神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[2]

伝承[編集]

中世の『古今和歌集序聞書三流抄』には、天皇が出雲行幸して、素戔嗚尊に出会うという逸話が見える。

脚注[編集]

  1. ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  2. ^ a b c d 懿徳天皇(古代氏族) & 2010年.
  3. ^ 『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410
  4. ^ a b 軽曲峡宮(国史).
  5. ^ 軽曲峡宮(陵墓探訪記<個人サイト>)。
  6. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  7. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  8. ^ a b c 畝傍山南繊沙渓上陵(国史).
  9. ^ 上田正昭 「欠史八代」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。

参考文献[編集]

  • 国史大辞典吉川弘文館 
    • 川副武胤「懿徳天皇」中村一郎「畝傍山南繊沙渓上陵」(懿徳天皇項目内)岡田隆夫「軽曲峡宮」
  • 「懿徳天皇」『日本古代氏族人名辞典 普及版』吉川弘文館、2010年。ISBN 9784642014588 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]