悪は存在しない

悪は存在しない
Evil Does Not Exist
監督 濱口竜介
脚本 濱口竜介
製作 高田聡
製作総指揮 原田将
徳山勝巳
出演者 大美賀均
西川玲
音楽 石橋英子
撮影 北川喜雄
編集 山崎梓・濱口竜介
制作会社 NEOPA
fictive
配給 Incline
公開 イギリスの旗 2024年4月5日/日本の旗 2024年4月26日/アメリカ合衆国の旗 2024年5月3日
上映時間 106分
製作国 日本の旗 日本
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悪は存在しない』(あくはそんざいしない)は、濱口竜介監督による2023年製作の日本映画。同年のヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(審査員賞)を受賞した作品で[1]、この受賞によって濱口監督は、アメリカのアカデミー賞世界三大映画祭のすべてで主要賞の受賞を果たした黒澤明以来2人目の日本人監督となった[2]

概要[編集]

この作品は、濱口の前作『ドライブ・マイ・カー』で作曲をつとめた石橋英子の依頼から始まっている。石橋は『GIFT』と題する自身のライブ・パフォーマンスのための映像制作を濱口に依頼[3][1]。しかし濱口はそうした制作の経験がなく、石橋との協議をかさねるうち、抽象的なイメージ映像のようなものではなく、明確な物語映像を希望していることがわかり、しだいに物語が膨らみ始めたという[4]

濱口は石橋の仕事場に近い八ヶ岳をたびたび訪れ、この映画の撮影も多くはそこで行われた。また濱口は集落の人々から森や動物たちについての実践的な知識を数多く習得し、それは劇中に盛り込まれている[4]。また映画に登場する開発計画も、一部は実際に八ヶ岳周辺で説明会が行われた計画からアイデアをとっている[4]

本作は2023年夏のヴェネツィア国際映画祭を皮切りに、トロントやニューヨークなど各地の主要映画祭で上映されたのち[5]、日本国内では同年11月に広島国際映画祭で公開された[6]

あらすじ[編集]

山奥の小さな集落「水挽町」で暮らす寡黙な男・巧と、その一人娘・玲花。集落の人々は美しい森と澄んだ雪解け水に支えられて静かな暮らしを守ってきた。ある日、そこへ企業からキャンプ場建設の話がもちこまれる。企業はホテル施設を備えたキャンプ場「グランピング」の設置をうたっていた。これが実現すれば東京から多くの観光客を呼び込むかもしれないが、そこに置かれる浄化槽は、集落が誇りとする自然水を汚染するだろう。そしてこれはコロナ助成金目当てのずさんな計画らしい。ざわめきはじめる集落の人々。

住民説明会へやってきた事業側の男女に、集落の人々は理を尽くして反論する。この集落はもともと都会からの移住者ばかりだし、ここへ新たに加わりたいときちんと考えた計画なら反対する理由はなにもない。しかしその前に、この土地の人にとって自然水がどんな意味をもつのか、そこで暮らすことがどんな責任を負うことなのか、どうか一度よく考えてほしい。集落の人々のおだやかな姿勢に、事業側の男女は「地元の人は決して愚かではない」と態度を改め、計画のいいかげんさに気づくようになる。

しかし親会社は、助成金の申請期限が迫っているし、ガス抜きの説明会が済んだ以上、予定どおり設置をすすめればよいと方針を曲げない。説明会に出た男女は板ばさみとなって困惑し、集落から信頼を得ているらしい巧に協力をあおぐことを思いつく。そしてふたたび集落を訪ねるうち、森と山の自然が人間にとって善でも悪でもなく、ただ人間の世界とは別にそこに並立している存在だとかすかに気づき始める。そんな中、巧の娘・玲花の様子がしだいに変わりはじめる。

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

評価・受容[編集]

野辺山高原からのぞむ八ヶ岳(2010年)。映画は主に八ヶ岳周辺など長野県の諏訪地域で撮影された[7]

この作品はヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞したのち、多くの映画祭に招聘された。

とくに2021年に『ドライブ・マイ・カー』がアメリカで高評価をよぶきっかけとなったニューヨーク映画祭は、『悪は存在しない』を「予測のつかない映画的体験をもたらす」と評して、ふたたび主要紹介作品のひとつに選び出した[8]

イギリスの『ガーディアン』紙やアメリカの 『IndieWire』誌は、都会と自然の対立という昔ながらの問題に安易な解決をゆるさない脚本と、濱口独特の不気味な物語技法があいまってつよい印象を残す、などと論評した[9][10][11]。『ハリウッド・レポーター』誌や『バラエティ』誌も本作に描かれた自然と人間の関係に注目し、それをきわめて繊細・優雅に表現したところに濱口の独自性とすぐれた手腕が示されていると評した[12][13]

また英国映画協会は、『ドライブ・マイ・カー』につづく本作で濱口は現代のもっとも偉大な演出者のひとりであることをふたたび証明したと指摘[14]。『デッドライン』誌なども『ドライブ・マイ・カー』との類似性を論じ、なにげない会話から不穏で予測不能な空気をつくりだしてゆく催眠術のような力をはらんだ作品、などと評した[15]。『フィナンシャル・タイムズ』紙は、作品がはらむこうした不穏さ・不吉さが、濱口流の省略の多い作劇法から来るものだと論じている[16]

2023年10月に行われた第67回BFI ロンドン映画祭のコンペティション部門において、審査員の全員一致で作品賞 (Best Film) を受賞した。審査団は声明で「(この作品は)繊細かつ映画的で、力のこもった演技によって支えられている。 (…) 家族とそのコミュニティに関する美しい肖像であると同時に、自然の再開発をめぐる倫理的課題の複雑さについての考察にもなっている」と述べている[17]黒沢清が審査員長をつとめた第17回アジア・フィルム・アワードでは作品賞と音楽賞を授与された[18][19]

2024年4月に本作がイギリスで公開されると、同国の映画批評誌『Sight & Sound』は濱口を表紙とする特集を組み、彼がもっている「自信にみちていながら繊細な感情表現や、物語上のひねりを重視するきわめて独自の映画言語」は東京藝大の修了製作から本作まで一貫している、などと論じた[20]

イギリスで一般公開された直後の2024年4月の時点で、映画レビューサイト「Rotten Tomatoes」では批評家の92%が好意的な反応を示したが[21]、一方で『ガーディアン』紙を中心に、衝撃的な結末がバランスを崩しており濱口の前2作品ほどの水準には到達しなかった、などとする批判も掲載されている[22]

受賞[編集]

GIFT[編集]

『GIFT』は企画の出発点となった石橋英子のソロ・ライブの名称で、そのために濱口が製作した映像にも便宜上『GIFT』の題名が与えられている。『悪は存在しない』と同じ撮影から別テイク・別ショットを使いながら別の構造をもつ映像作品として組み立てられた[28]

映像はわずかな字幕・一部のセリフをのぞいてすべてサイレントで、石橋のパフォーマンスはこの上映に合わせて、石橋が即興で音楽を演奏する形で行われる。演奏時間に合わせ、映像の長さも約74分と映画版に比べて短くなっている[29]。サイレントのため物語は観客に明確には提示されず、フルートやパーカッションを反復しつづける電子音楽とあいまって、石橋のソロ・ライブは「きわめて神秘的・瞑想的な体験」と評されている[28]

『GIFT』の映像編集は『ドライブ・マイ・カー』につづいて山崎梓が担当した。脚本を見ていない状態で映像だけを見ながら約10時間あった素材を40分間に編集し、それを演奏時間に合わせやや引き伸ばして完成させたという。濱口は、この『GIFT』の編集を一部残しながら本作『悪は存在しない』のための再編集を行ったことが、物語に依存しすぎない夢のような印象を生んだ、と語っている[30][31]。また濱口は、観客の感情をコントロールする手段として音楽を過度に使わないという自らの製作方針が、今回は石橋のライブ音楽を基本としたことで、自然に達成できたという[32]

石橋のパフォーマンスは、2023年10月18日にベルギーの第50回ゲント国際映画祭で初演されたほか[33]、2024年4月にニューヨークでも上演された[34]。日本では2023年11月23日の第24回東京フィルメックスが国内初演となった[35]

関連文献[編集]

(インタビュー)[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b Biennale Cinema 2023 | Aku wa sonzai shinai (Evil Does Not Exist)” (英語). La Biennale di Venezia (2023年7月6日). 2023年10月12日閲覧。
  2. ^ Hamaguchi wins big in Venice, ties with Kurosawa in cinematic feat | The Asahi Shimbun: Breaking News, Japan News and Analysis” (英語). The Asahi Shimbun. 2024年4月24日閲覧。
  3. ^ Gift, new film by 'Drive My Car' director Ryûsuke Hamaguchi, to world premiere at FFG with Eiko Ishibashi performing a…” (英語). World Soundtrack Awards. 2023年10月12日閲覧。
  4. ^ a b c (日本語) Ryûsuke Hamaguchi on Evil Does Not Exist | NYFF61, https://www.youtube.com/watch?v=VCXMbhC794I 2023年10月12日閲覧。 
  5. ^ Brody, Richard (2023年9月29日). “What to See in the New York Film Festival’s First Week” (英語). The New Yorker. ISSN 0028-792X. https://www.newyorker.com/culture/the-front-row/what-to-see-in-the-2023-new-york-film-festivals-first-week 2024年4月9日閲覧。 
  6. ^ 『悪は存在しない』ジャパンプレミア”. 広島国際映画祭. 2024年4月24日閲覧。
  7. ^ 諏訪県フィルムコミッション”. 2024年4月24日閲覧。
  8. ^ Evil Does Not Exist” (英語). Film at Lincoln Center. 2023年10月12日閲覧。
  9. ^ Bradshaw, Peter (2023年9月4日). “Evil Does Not Exist review – Ryu Hamaguchi’s enigmatic eco-parable eschews easy explanation” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077. https://www.theguardian.com/film/2023/sep/04/evil-does-not-exist-review-ryu-hamaguchis-enigmatic-eco-parable-eschews-easy-explanation 2023年10月12日閲覧。 
  10. ^ Lattanzio, Ryan (2023年9月5日). “‘Evil Does Not Exist’ Review: Ryûsuke Hamaguchi Retreats Post-‘Drive My Car’ Oscars Marathon Into an Eerie Eco-Poem” (英語). IndieWire. 2023年10月12日閲覧。
  11. ^ Liu, Rebecca (2024年4月1日). “Oscar-winning director Ryûsuke Hamaguchi: ‘The world is full of mystery and absurdity’” (英語). The Guardian. ISSN 0261-3077. https://www.theguardian.com/film/2024/apr/01/ryusuke-hamaguchi-interview-drive-my-car-evil-does-not-exist 2024年4月4日閲覧。 
  12. ^ Kiang, Jessica (2023年9月4日). “‘Evil Does Not Exist’ Review: Ryusuke Hamaguchi’s Tale of Rural Gentrification Is a Tone Poem with an Atonal End” (英語). Variety. 2023年10月13日閲覧。
  13. ^ Rooney, David (2023年9月4日). “‘Evil Does Not Exist’ Review: Ryusuke Hamaguchi Follows ‘Drive My Car’ With an Unsettling Reflection on Man and Nature” (英語). The Hollywood Reporter. 2023年10月13日閲覧。
  14. ^ Evil Does Not Exist review: a beguiling eco-drama” (英語). BFI. 2023年10月13日閲覧。
  15. ^ Bunbury, Stephanie (2023年9月4日). “‘Evil Does Not Exist’ Review: Ryusuke Hamaguchi Delivers A Constantly Surprising, Intellectually Agile Film – Venice Film Festival” (英語). Deadline. 2024年3月22日閲覧。
  16. ^ Evil Does Not Exist review — city meets country in a delicate tingler of a film”. www.ft.com. 2024年4月4日閲覧。
  17. ^ Award winners announced at 67th BFI London Film Festival” (英語). BFI. 2023年12月29日閲覧。
  18. ^ Asian Film Awards Academy – 亞洲電影大獎學院”. 2024年3月22日閲覧。
  19. ^ a b Brzeski, Patrick (2024年3月10日). “Asia Film Awards: Ryusuke Hamaguchi’s ‘Evil Does Not Exist’ Wins Best Film” (英語). The Hollywood Reporter. 2024年3月10日閲覧。
  20. ^ Sight and Sound: the May 2024 issue” (英語). BFI. 2024年4月7日閲覧。
  21. ^ Evil Does Not Exist | Rotten Tomatoes” (英語). www.rottentomatoes.com (2024年5月3日). 2024年4月8日閲覧。
  22. ^ Ide, Wendy (2024年4月7日). “Evil Does Not Exist review – slow-burning eco-parable” (英語). The Observer. ISSN 0029-7712. https://www.theguardian.com/film/2024/apr/07/evil-does-not-exist-review-slow-burning-eco-parable-ryusuke-hamaguchi 2024年4月8日閲覧。 
  23. ^ Award winners announced at 67th BFI London Film Festival” (英語). BFI. 2023年10月15日閲覧。
  24. ^ Asia Pacific Screen Awards - 2023 Awards”. IMDb (2023年). 2023年12月23日閲覧。
  25. ^ Asian Film Festival Barcelona - 2023 Awards”. IMDb (2023年). 2023年12月25日閲覧。
  26. ^ Kerala International Film Festival - 2023 Awards”. IMDb (2023年). 2023年12月23日閲覧。
  27. ^ Welcome to Asian Film Festival Barcelona 2023” (英語). Asian Film Festival Barcelona. 2024年3月22日閲覧。
  28. ^ a b Cobbaert, Tobias (2023年10月19日). “'Gift' op Film Fest Gent: een meditatieve beeldenstroom die de relatie tussen mens en natuur onderzoekt” (オランダ語). Focus. 2024年4月9日閲覧。
  29. ^ Film at Lincoln Center Announces GIFT: A Film by Ryûsuke Hamaguchi X Live Score by Eiko Ishibashi, May 1 and 2” (英語). Film at Lincoln Center. 2024年4月9日閲覧。
  30. ^ 濱口竜介×石橋英子対談”. CINRA. 2024年4月9日閲覧。
  31. ^ 石橋英子×濱口竜介インタビュー”. numero TOKYO. 2024年4月9日閲覧。
  32. ^ "Atteindre le mystère: Entretien avec Ryûsuke Hamaguchi" (Cahiers du Cinéma, Avril 2024, no. 808)
  33. ^ GIFT” (英語). Film Fest Gent. 2024年4月23日閲覧。
  34. ^ GIFT: A Film by Ryûsuke Hamaguchi X Live Score by Eiko Ishibashi” (英語). Film at Lincoln Center. 2024年4月10日閲覧。
  35. ^ GIFT / 特別招待作品”. 第24回 東京フィルメックス (2023年). 2023年12月22日閲覧。

外部リンク[編集]