後藤覚乗

後藤 覚乗(ごとう かくじょう、天正17年(1589年) - 明暦2年閏4月22日1656年5月16日))は、江戸時代前期の金工家。金工の後藤勘兵衛(上後藤)家の初代。後藤宗家5代後藤徳乗の甥。後藤長乗(光栄)の次男。後藤立乗の弟。は光信、通称は勘兵衛。勘兵衛尉(かんびょうえのじょう)とも。

出自[編集]

後藤家は室町幕府に御用達金工(彫金)師として仕え、その作品は「御家彫」といわれた。織田信長豊臣秀吉刀剣装身具大判鋳造の御用達も務め、また大判の鋳造と墨判および両替屋分銅の鋳造を請負った。江戸期の後藤宗家(四郎兵衛家)の家業は、彫金・大判座・分銅座であり、俗に「後藤家の三家業」といわれ、茶屋四郎次郎家、角倉了以家と共に「京都の三長者」に数えられた。ちなみに、小判鋳造を手がけたのは江戸の金座(小判座)・庄三郎家である。家紋は五三桐

覚乗の伯父で後藤宗家の徳乗は関ヶ原の戦い石田三成に属したが、父長乗が徳川家康についたため、後藤家は改易を免れた。長乗は家康より寵愛を受け、「禁裏御所御宝剣彫物所」の看板を掲げ、公儀の役以外に外国との往復文書作成にも関わった。また、放鷹術に長け、鷹師20人を引き連れ諸大名の放鷹の指南をした。そして、旧細川満元邸の広大な庭を拝領し、それは後に擁翠園といわれ、仙洞御所東本願寺渉成園とともに「林泉広大洛中ノ三庭」(洛中の三庭)の一つに数えられる庭となった。長乗は絵画・詩歌も嗜んだ文化人でもあり、本阿弥光悦とも親しかった。なお、長乗の子・覚乗の甥に狩野探幽の養子で江戸幕府御用絵師となった狩野益信(洞雲)がいる。

生涯[編集]

父・長乗が元和2年(1616年)に死去すると、土地は立乗、覚乗、乗円、昌乗の四人の兄弟に分配された。覚乗は分家であったが一家をなすほど金工の技に優れ、主に(つば)・目貫(めぬき)・(こうがい)・小柄(こづか)などの刀装具を制作した。寛永年間より、工芸を奨励した加賀金沢藩前田利常に招かれ、現米150石をもって仕え、前田家の装剣用具の製作ほか金沢藩風聞報告役、また金銀財政面の用達を行った。従兄の後藤顕乗(理兵衛家、下後藤家)と交替で隔年に金沢に滞在して京都と金沢を往復し、「加賀後藤」とよばれる流派の基礎を築いた。利常は覚乗の彫金技術の高さを認め、いつも敬意を払っていたという(『微妙公夜話』『菅君栄名記』)。覚乗は大力の持ち主で相撲を好み、弓馬・兵法砲術の達人であった(『後藤家一統系図』)。日蓮宗を信仰し、妙覚寺の日奥聖人に帰依した。また、俳諧茶の湯にも優れた。前田利常に資金援助をしてもらい、小堀遠州の設計で、父長乗が造営した庭園を補作したほか、上段を設けた書院や「十三窓席」といわれた13の窓を持つ小間茶室「擁翠亭」を作った。 明暦2年(1656年)閏4月22日に68歳で病没し、蓮台寺石蔵坊に葬られた。

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