崔致遠

崔致遠
崔致遠の画像
各種表記
ハングル 최치원
漢字 崔致遠
発音 チェ・チウォン
日本語読み: さい ちえん
ローマ字 Choe Chiwon
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崔 致遠(さい ちえん、朝鮮語: 최치원858年 - ?)は、新羅末の文人。は海夫[1]は孤雲、海雲。

生涯[編集]

868年、12歳のとき商船によりに留学した。874年科挙に及第。まもなく黄巣の乱が起こると、高駢の黄巣討伐軍に参加しすぐれた檄文[2]や上奏文を書いて文名をあげた。884年、国信使として新羅に帰国すると「侍読兼翰林学士・守兵部侍郎・知瑞書監」に任ぜられたが、理想を果たすことができなかったために都を出て大山郡(忠清南道扶余郡鴻山面)や富城郡(忠清南道瑞山市瑞山邑)の太守を経た。新羅末期の乱世にあって志を進めることができず却って咎められることが多く、不遇を嘆いて官を辞した。その後は山林の麓や海浜を流浪し、高台を作ったり植林をしながら気の向くままに書籍を読み風景を詩に詠んだりしてすごした。晩年は海印寺慶尚南道陜川郡伽耶面)に隠棲したと言われる。

多くの優れた漢文漢詩を残し、高麗顕宗14年(1023年)には文昌侯に追封され、李氏朝鮮時代に朝鮮漢文学の祖として孔子を祀る文廟に合祀された。

釜山の観光地である海雲台の名は、崔致遠が立ち寄って景観を眺めるために展望台を築いたことに由来する。崔承祐崔彦撝とともに「一代三崔(일대삼최)」と並び称された。

崔致遠の渤海に対する認識[編集]

897年に対して渤海大封裔が渤海の席次を新羅より上位にすることを要請したが、唐が不許可にしたことを感謝して、崔致遠が執筆し、新羅王である孝恭王から皇帝である昭宗に宛てた公式な国書である『謝不許北国居上表』には「渤海を建国した大祚栄高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人であり、渤海は高句麗領内に居住していた粟末靺鞨人によって建国された」と記録されている[3]。『謝不許北国居上表』は、渤海が存在していた同時代の史料であり、また新羅王から皇帝へ宛てた公式な国書であることから史料的価値が極めて高い第一等史料とされる[3]

臣謹按渤海之源流也、句驪未滅之時、本為疣贅部落。靺鞨之屬、實繁有徒、是名粟末小蕃、嘗逐句驪内徙。其首領乞四羽及大祚榮等、至武后臨朝之際、自營州作孽而逃、輒據荒丘、始稱振國。時有句驪遺燼、勿吉雜流

渤海の源流を考えてみるに、高句麗が滅亡する以前、高句麗領内に帰属していて、取り立てて言うべき程のものでもない靺鞨の部落があった。多くの住民がおり、粟末靺鞨とよばれる集団(の一部)であった。かつて唐が高句麗を滅ぼした時、彼らを「内」すなわち唐の領内(営州)へ移住させた。その後、則天武后の治世に至り、彼らの首領である乞四比羽および大祚栄らは、移住地の営州を脱出し、荒丘に拠点を構え、振国と称して自立した。高句麗の遺民・勿吉(靺鞨)の諸族がこれに合流し、その勢力は発展していった[4] — 崔致遠、謝不許北国居上表

著作[編集]

新羅に帰国後に自ら編纂した詩文集である『桂苑筆耕集』20巻(886年成書)がある。この書物は中国にも伝わったらしく、『新唐書芸文志に記載されている[5]。現存する朝鮮最古の文集であるのみならず、唐末の混乱を伝え、中国史上も重要な書物である。

脚注[編集]

  1. ^ 徐有榘「校印桂苑筆耕集序」 『桂苑筆耕集校注』p5
  2. ^ 『桂苑筆耕集』巻11 檄黄巣書
  3. ^ a b 石井正敏『日本渤海関係史の研究』吉川弘文館、2001年4月、172頁。ISBN 978-4642023634 
  4. ^ 石井正敏『日本渤海関係史の研究』吉川弘文館、2001年4月、171頁。ISBN 978-4642023634 
  5. ^ 『新唐書』芸文志四「崔致遠『四六』一巻、又『桂苑筆耕』二十巻。高麗人、賓貢及第、高駢淮南従事。」

参考文献[編集]