島津氏久

 
島津 氏久
時代 南北朝時代初期
生誕 嘉暦3年4月11日[1]1328年5月21日
死没 至徳4年/元中4年閏5月4日[2]1387年6月20日
別名 又三郎、三郎左衛門尉
神号 巌捷男雄彦命[1]
戒名 玄久齢岳大禅定門[2]
墓所 鹿児島県志布志市即心院
鹿児島県鹿児島市福昌寺
官位 修理亮越後守陸奥守[2]
幕府 室町幕府大隅日向筑後守護
氏族 島津氏
父母 父:島津貞久、母:栴林夫人(大友親時の娘)[1]
兄弟 川上頼久宗久師久氏久光久氏忠[2]
正室敬外夫人伊集院忠国の娘)[1]
継室佐多忠光の娘
元久久豊、娘(伊集院頼久室)
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島津 氏久(しまづ うじひさ)は、南北朝時代武将守護大名である。島津氏6代当主(奥州家初代当主)、大隅日向筑後守護。5代当主島津貞久の4男。母は大友親時の娘。川上頼久宗久師久の弟。元久久豊の父。

生涯[編集]

嘉暦3年(1328年)、薩摩国山門院(現在の鹿児島県出水市野田町下名)の木牟礼城にて誕生[1]足利尊氏より偏諱を賜い氏久と称す。父貞久、兄師久らと共に足利尊氏ら北朝に属し南朝と戦い、観応の擾乱の影響で起きた足利直冬一色範氏の抗争では範氏に従軍、正平6年/観応2年(1351年)に直冬軍と戦ったが負傷している。正平11年/延文元年(1356年)に南朝に転向、三条泰季と共に直冬方の畠山直顕岩屋城を攻撃、畠山直顕と大隅を巡って争った。その後北朝に帰順したようで、正平18年/貞治2年(1363年)に父から大隅守護職を譲られている。

永和元年/天授元年(1375年)、室町幕府が九州の南朝勢力制圧のために派遣した九州探題今川了俊が菊池氏討伐のために九州三人衆を招聘すると、大友親世と共に8月に着陣。了俊に着陣を拒んだ少弐冬資の説得を依頼されて冬資を招くが、了俊が冬資を謀殺する(水島の変)と氏久は面目をつぶされたとして帰国する。了俊はただちに氏久へ使いを出し、筑後守護職に推挙する旨を述べたが氏久がそれを拒絶したために決裂[3]、了俊の南九州制圧に抵抗し、翌永和2年/天授2年(1376年)に大隅守護職を解任された。

同年6月、了俊の5男・満範が南九州の征討に向かい、肥後相良前頼や大隅・日向・薩摩の国人衆を招集しながら日向へ向かい、従弟の北郷義久が籠城した都之城を翌永和3年/天授3年(1377年)に包囲した。氏久はこれに対して9月に甥の総州家7代島津伊久と一緒に了俊に降伏、了俊・満範父子に属する南九州国人一揆の調略を行い、天授4年/永和4年(1378年)3月に了俊と決別、満範が国人一揆と共に都之城を再包囲すると志布志城から後詰に向かい、翌天授5年/康暦元年(1379年3月1日3月3日の激戦の末に勝利(蓑原の合戦)、大隅姫木城も落として満範を都之城から追い落とした。

弘和元年/永徳元年(1381年)10月に再度北朝へ復帰したが、国人一揆の動揺につけこんで一揆勢の所領を侵略、相良前頼の南朝への寝返りもあって国人一揆を崩壊させた。至徳4年/元中4年(1387年)、60歳で死去。氏久は大隅守護に復帰することはなかったが、嫡男の元久が大隅守護に復帰した。

馬術の達人で馬術書『在轡集』を書いたと言われる。居城を東福寺城から清水城に移し、以後は島津氏の居城となった。

墓は鹿児島県志布志市即心院跡、鹿児島県鹿児島市福昌寺跡。法名は玄久齢岳。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 島津顕彰会 編『島津歴代略記』1985年。 
  2. ^ a b c d 瀬野 2005, p. 198.
  3. ^ 藤田明『征西将軍宮』東京宝文館、1915年、417頁。 

参考文献[編集]

  • 瀬野精一郎『足利直冬』吉川弘文館〈人物叢書〉、2005年。ISBN 464205233X 
  • 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 7 しな - しん』吉川弘文館、1986年。
  • 都城市史編さん委員会編『都城市史 通史編 中世・近世』都城市、2005年。

関連項目[編集]