岳飛

岳飛像(中国国家博物館蔵)

岳 飛(がく ひ、拼音: Yuè Fēi崇寧2年2月15日1103年3月24日)- 紹興11年12月29日1142年1月27日))は、中国南宋の武将。鵬挙(ほうきょ)。相州湯陰県の出身。南宋を攻撃するに対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相秦檜に謀殺された[1][2]。その功績を称えて後に鄂王(がくおう)に封じられ(岳鄂王と呼ばれる)、関羽と並んで祀られている。その後に神格化され、明代靖魔大帝に封ぜられた。書も能くし、「出師の表」も書いており、文化的イメージと結びつけられやすく、小説や京劇などでもよくとりあげられる人物である[2]

生涯[編集]

岳飛(『晩笑堂竹荘画伝』より)

岳飛は元々は豪農の出であったが、幼い頃に父を亡くし、生母の姚氏に育てられたという。

やがて21歳の時、北宋末期の宣和4年(1122年)に開封を防衛していた宗沢が集めた義勇軍に参加した。岳飛は武勇に優れ、その中で金との戦いなどに軍功を挙げて頭角を現し、紹興4年(1134年)には清遠軍節度使・荊湖北路襄陽府潭州制置使に任命された。

しかし、増大する名声が秦檜派の反感と嫉視を招くことになる。

紹興10年(1140年)に北伐の軍を起こすと、朱仙鎮(現在の河南省開封市祥符区)で会戦を行い、金の総帥斡啜の率いた軍を破って開封の間近にまで迫るが、秦檜の献策により友軍への撤退命令が出され、孤立した岳飛軍も撤退を余儀なくされた。これは『宋史』の記録であるが、『金史』にこの会戦の記録はない。

その後、秦檜により金との和議が進められる。それに対して、主戦派の筆頭であり民衆の絶大な人気を持った岳飛は危険な存在であり、紹興11年12月(1142年1月)に秦檜は岳飛・岳飛の子の岳雲・岳家軍の最高幹部である張憲に対し、冤罪を被せて謀殺した(表向きは謀反罪であった。軍人の韓世忠が「岳飛の謀反の証拠があるのか」と意見したが、秦檜は「莫須有(あったかもしれない)」と答えている)。この時、岳飛は39歳、岳雲は23歳だった。その背には母親によって彫られたとされる(入れ墨)「尽忠報国」の4文字があったという。

没後[編集]

南宋の画家劉松年中国語版が宋の英雄を描いた「中興四将」。劉光世韓世忠張俊・岳飛の全身像が描かれており、岳飛は左から2番目である。
岳飛が書いたとされる書

紹興32年(1162年)、孝宗が即位したことを機に岳飛の冤罪が晴れ、官職の回復と改葬が行われた。淳熙5年(1178年)、武穆され、嘉泰4年(1204年)には鄂王に追封された。

杭州西湖のほとりには岳王廟が建立され、岳王廟の岳飛・岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦・張俊らが縄で繋がれた形で正座させられている像が造られている。近年は当局により禁止されているが、かつては彼らに唾を吐きかける風習があった。

岳飛は後代、救国の英雄として称えられた。現代でも中国の歴史上の英雄と言えば、まず岳飛の名前が挙がるほどである[要出典]

家族[編集]

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  • 劉氏(離婚)
  • 李娃

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男子[編集]

女子[編集]

子孫[編集]

以下の両名は、当時において岳飛の子孫とされた、ないしは称された人物である。

岳飛を扱った作品[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 康熙年間に編纂刊行された西湖をめぐる短編小説集『西湖佳話』(せいこかわ)全16話の第7話に、岳飛の生涯を描く本作『岳墳忠蹟』が収録されている。ウィキソースのロゴ 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:西湖佳話
  2. ^ うちだみちお、1916-2000年。東北大学教授(1954-1972年)、文学博士。

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 伊原弘「第1部 宋と高麗」『世界の歴史7 宋と中央ユーラシア』中央公論新社〈中公文庫〉、2008年6月。ISBN 978-4-12-204997-0 

関連項目[編集]