山崎武昭

山崎 武昭
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 高知県吾川郡伊野町
生年月日 (1941-06-25) 1941年6月25日
没年月日 (1995-02-01) 1995年2月1日(53歳没)
身長
体重
177 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 1964年
初出場 1965年6月6日
最終出場 1975年5月18日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • ロッテオリオンズ
    千葉ロッテマリーンズ (1983, 1991 - 1993)

山崎 武昭(やまざき たけあき、1941年6月25日 - 1995年2月1日)は、高知県吾川郡伊野町出身の元プロ野球選手投手)・コーチ

経歴[編集]

高知商では2年次の1958年夏の甲子園森光正吉の控え投手として出場。リリーフで2試合に登板するが、準決勝で柳井高に敗退[1]1959年は主戦投手として甲子園に春夏連続出場し、春の選抜では準々決勝に進出するが、県尼崎高のエース・合田栄蔵と投げ合い0-1で完封を喫する[2]夏の選手権でも準々決勝に進むが、大井道夫を擁する宇都宮工に9回裏0-1でサヨナラ負け[1]。8月末からは全日本高校選抜の一員としてアメリカ西海岸・ハワイ遠征に参加した。高校同期に中堅手の倉内顕(西鉄)、1年下に控え投手の徳久利明がいた。

高校卒業後は法政大学に進学し、東京六大学野球リーグで3度の優勝に貢献。1962年全日本大学野球選手権大会でも決勝で駒大を降して優勝している。同年の第1回日米大学選手権[3]に出場し、ミシガン大学と対戦(戦績は2勝3敗)。1963年秋季には慶大との優勝決定戦で渡辺泰輔に4-3で投げ勝った。大学同期に龍隆行がおり、左の二本柱として活躍した。リーグ通算23勝13敗、防御率1.20、ベストナイン1回。他の同期に捕手広瀬幸司がいる。

1964年東映フライヤーズへ入団。主力投手として期待されたが、入団早々に肩を故障してしまい、1年目を棒に振る。2年目の1965年6月6日西鉄戦(小倉)で初登板を果たしたが、一時は二軍戦で外野手で出場するなど[4]低迷期に陥る。5年目の1968年6月19日の西鉄戦(後楽園)で初勝利を挙げ[4]、同年には27試合に登板とブレイク。6試合に先発で起用されるも結果を残せず、その後は主にショートリリーフで起用された。1973年に自己最多の39試合に登板するが、1975年ロッテオリオンズへ移籍。同年5月18日近鉄戦(藤井寺)が最終登板となり、この年に現役を引退。

引退後はロッテで打撃投手(1976年 - 1979年, 1984年 - 1990年)、スコアラー、一軍投手コーチ補佐(1983年)、二軍投手コーチ(1991年 - 1993年)を務めた。

1995年2月1日に交通事故で亡くなった。享年53。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1965 東映
日拓
日本ハム
2 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 26 5.0 8 0 3 0 0 4 0 0 5 5 9.00 2.20
1968 27 6 0 0 0 1 3 -- -- .250 222 51.2 49 8 15 3 2 21 0 0 30 25 4.09 1.17
1969 7 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 34 7.1 9 3 1 0 0 1 0 0 9 8 10.29 1.36
1970 30 3 0 0 0 1 1 -- -- .500 254 58.0 70 10 21 0 1 35 0 0 37 33 5.12 1.57
1971 6 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 59 11.0 20 4 6 0 1 4 0 0 14 11 9.00 2.36
1972 20 0 0 0 0 1 0 -- -- 1.000 92 21.1 16 2 10 1 1 18 0 0 8 3 1.29 1.22
1973 39 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 210 49.1 48 3 21 1 2 30 2 0 17 16 2.94 1.40
1974 11 0 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 46 9.1 11 3 7 0 1 4 0 0 10 10 10.00 1.93
1975 ロッテ 5 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 16 3.2 7 0 0 0 0 2 0 0 2 2 4.50 1.91
通算:9年 147 11 0 0 0 4 6 0 -- .400 959 216.2 238 33 84 5 8 119 2 0 132 113 4.69 1.49
  • 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更

記録[編集]

背番号[編集]

  • 18 (1964年 - 1966年)
  • 17 (1967年 - 1974年)
  • 50 (1975年 - 1979年)
  • 71 (1983年 - 1986年)
  • 92 (1987年 - 1991年)
  • 72 (1992年 - 1993年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  2. ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
  3. ^ 1972年から開始された日米大学野球選手権大会とは異なり、日米の全国大会優勝大学によるチャンピオンシップ。
  4. ^ a b 『朝日新聞』1968年6月20日付朝刊 (12版、13面)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]