山名祐豊

 
山名 祐豊 / 山名 宗詮
時代 戦国時代
生誕 永正8年(1511年
死没 天正8年5月21日1580年7月2日
改名 韶熙(初名)→祐豊→宗詮(入道号)
別名 紹熙、継熙(初名の別表記)
(※「熙」は「煕」、「熈」とも表記される。)
戒名 銀山寺殿鐡壁韶熈大居士
官位 右衛門督
幕府 室町幕府但馬守護
主君 足利義晴義輝義栄義昭
氏族 山名氏
父母 父:山名致豊、養父:山名誠豊
兄弟 祐豊豊定東揚?
正室:一色義有の娘
棟豊義親堯熙
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山名 祐豊(やまな すけとよ)は、戦国時代武将戦国大名但馬国守護。

生涯[編集]

前半生[編集]

永正8年(1511年)、山名致豊の次男として生まれる。初名は韶熙(つぐひろ、表記は紹熙、継熙とも)。叔父で但馬守護(山名氏宗家家督)を務めていた山名誠豊の後継者となり、大永8年(1528年)の誠豊の死去によって山名氏の家督を継いだ。山名持豊(宗全)以来の通字により祐豊と改名したのもこの時と思われる。

父・誠豊は細川高国と結んで細川晴元と対抗していたが、祐豊は晴元方に転じた。これは急速に台頭してきた尼子氏が高国派であったために、敵対する晴元側に移ったとみられている。この読みは当たって大物崩れで高国は滅亡、天文9年(1540年)には従五位下右衛門督に任ぜられ、同じ頃には上洛して晴元・六角定頼細川元常と共に幕政に参画していた形跡がみられる[1]

天文11年(1542年)に生野で生野銀山が発見されたことにより、祐豊は銀山経営のために先祖が築いた生野城を大規模に改修した。元は単なる山城であったが、山麓に館を設け近世に通じる役所的な役割を城に持たせた。また、山名氏歴代は臨済宗の信奉者であったが祐豊もこの例にもれず、生野城の山麓に銀山寺を建立した。もっとも、但馬国内でも祐豊が完全に掌握できていたのは出石郡のみで、朝来郡には太田垣輝延養父郡八木豊信気多郡には垣屋光成城崎郡には田結庄是義三含郡垣屋豊続七美郡には田公豊高二方郡塩冶高清が割拠していた[2]

この頃の山名氏は但馬守護家と因幡守護家に分裂していたため、祐豊は山名氏の統一を目指して天文17年(1548年)に因幡守護で一族の山名誠通を討ち取り、新たな領主として弟の豊定を因幡守護代(陣代)として任命し、因幡の安定を計った。しかし、天文21年(1552年)に尼子晴久が山名氏が代々守護に任じられてきた因幡・伯耆・備後を含んだ6か国の国主に任ぜられた。この背景には晴元が失脚して祐豊の中央への影響力が低下したことが背景にあったとみられている[3]。これに対して、和智誠春のようにあくまでも祐豊を国主として奉じて尼子氏に抵抗する動きもあったがその和智氏でさえも、現実に軍事的影響力を行使できる大内氏や毛利氏に接近するようになっていく[4]

永禄3年(1560年)、弟・豊定が死去すると、自らの長男・山名棟豊を守護代として派遣した。だが、永禄4年(1561年)5月に棟豊も死去した(享年18)ため甥(豊定の遺児)である豊数が守護代に任命し統治を任せた。また、棟豊の死去に伴い、次男・氏煕(のちの義親)が代わって嫡子となった。また、父から引き継いだ山名氏の本拠地で但馬守護所である此隅山城を拡大し、戦国時代に相応しい大城塞として本国の守りも固めた。

永禄7年(1564年)には反抗的な因幡の国人・武田高信を攻めるが失敗した。永禄12年(1569年)、尼子勝久山中幸盛尼子氏残党軍が出雲国に侵攻すると、これを支援して毛利元就とも戦っている。

永禄12年(1569年)、織田氏の家臣・木下秀吉(後の豊臣秀吉)の侵攻を受ける。この時期の織田氏と毛利氏は関係が悪化する前であり、毛利元就朝山日乗を介して織田信長と交渉して、但馬国と因幡国の境を織田氏と毛利氏の勢力圏の境界線とすることで合意していたとも言われている[5]

このため、居城であった此隅山城より出て、より堅固な有子山城を築城し但馬守護所を移し防戦した。しかし、木下軍の激しい攻撃を受けた祐豊は領国を追われて和泉国まで下る。

後半生[編集]

堺の豪商・今井宗久の仲介もあって祐豊は織田信長に直接会い、今後は西進する織田軍に加勢することを誓い、但馬国出石郡の領有を認められた。元亀元年(1570年)には有子山城主に復帰している。有子山城下に常に住まいする館と城下町を築き、それが後年の出石の町の発展の基となった。

その後も同じく信長と手を結んでいた勝久らと協力して織田氏が敵対する毛利氏と戦った。

同年、丹波国の赤井忠家に侵攻され竹田城・此隅山城を占拠された。元亀2年(1571年)には織田氏の援軍を得て丹波国氷上郡に攻め入る。

元亀3年(1572年)には、毛利方についた高信と幸盛らと共に戦った。また同年、嫡男・氏煕が室町幕府第15代将軍足利義昭から「昭」の偏諱を受け昭豊と諱を改め、のちに「義」の偏諱を受けて義親と改めた。

天正3年(1575年)11月、祐豊およびその三男・堯煕の援軍もあり竹田城から氷上郡へと、織田氏の家臣・明智光秀が侵攻した。ところが黒井城荻野直正の加勢にきた波多野秀治の軍に敗れ、光秀は自らの領国である近江坂本城に帰還した。

一方、天正2年(1574年)10月に甥の山名豊国が毛利氏と和睦し祐豊の重臣・太田垣輝延も毛利方の吉川元春と和睦して、豊国や輝延の勧めを受けて天正3年(1575年)1月には祐豊も毛利氏と和睦・同盟を結んだ。山名氏と毛利氏の同盟(芸但同盟)は、尼子勝久とこれを奉じる山中幸盛ら尼子氏の遺臣や彼らの勧誘で反毛利行動を起こした三村氏や浦上氏に対抗する意図で結ばれたもので、織田氏との対決を意図したものではなかったことには注意を要する[6]>。実際に前述の荻野直正は輝延の竹田城に攻め込んでいるのは、輝延が毛利氏と結んだ後も織田派とみなされていたことによる[7]

ところが天正3年(1575年)以降、毛利氏に敵対した末に備前を追われた浦上宗景や尼子勝久・山中幸盛主従などが信長のもとを頼り、織田氏と毛利氏の関係が急速に悪化することになる[8]。天正4年(1576年)に入ると、山名氏や重臣である垣屋氏・太田垣氏は織田氏との関係を絶って毛利氏との同盟を強める路線を取るようになる。祐豊や豊国は織田政権が但馬・因幡の国主としての地位を否認したことに不満を持っており、太田垣氏は鉱山利権を巡る織田氏との対立、垣屋氏は海運を通じて毛利氏の領国と経済的に結びついていたことが毛利氏支持に向かわせたとみられる。更に赤松則房や宗景が先に織田氏の傘下に入り、嘉吉の変以来敵対関係にあった赤松氏と山名氏(およびその重臣であった浦上氏)の関係が判断に影響を与えた可能性もある[9]

これに信長は怒ったものの、播磨平定を最優先にする立場から直ちに行動を起こさなかった。再度の但馬出兵が開始されるのは天正5年(1577年)11月のことで、しかもそれは播磨平定を命じられていた羽柴秀吉が同地の安定のために信長の許しなく行ったものであったとされる[10]。その後、毛利氏の援軍を得た毛利派の垣屋豊続が織田派の垣屋光成を攻めるなど但馬の戦局は毛利側有利に動くが、祐豊は必ずしも毛利軍と同調していた訳ではなく、国内では毛利派と織田派のにらみ合いが続いた[11]

天正7年(1579年)6月、光秀は秀治の本拠地である八上城を落城させた。また同じ頃、備前を支配していた宇喜多直家が信長に降ったことで情勢が織田氏有利へと一転することになる。

天正8年(1580年)5月21日、秀吉率いる織田氏の大軍勢が居城である有子山城を包囲すると開城を余儀なくされ、祐豊も間も無く病没した。享年70。法名は銀山寺殿鐡壁韶熈大居士。

三男の堯熙は祐豊と意見が合わなかったので開城前に隣国へと逃れて助かり、後に秀吉により取り立てられ秀吉の馬廻衆(親衛隊)となった。次男の義親も信濃国へと逃れたといわれ、子孫もいるという。

脚注[編集]

  1. ^ 川岡 2018, pp. 413–414.
  2. ^ 山本 2018, pp. 153–154.
  3. ^ 川岡 2018, pp. 415–416.
  4. ^ 柴原直樹「守護山名氏の備後国支配と国人領主連合-国衆和智氏の歴史的役割-」『史学研究』213号、1996年。/所収:市川 2018, pp. 218–248
  5. ^ 山本 2018, pp. 159–160.
  6. ^ 山本 2018, pp. 162–165.
  7. ^ 山本 2018, pp. 168–169.
  8. ^ 山本 2018, pp. 166・171.
  9. ^ 山本 2018, pp. 147–148, 168–171.
  10. ^ 山本 2018, pp. 171–172.
  11. ^ 山本 2018, pp. 173–189.

参考文献[編集]

  • 渡邊大門『中世後期山名氏の研究』日本史史料研究会、2010年。
  • 市川裕士 編『山陰山名氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世西国武士の研究 第五巻〉、2018年。ISBN 978-4-86403-293-3 
    • 山本浩樹「戦国期但馬国をめぐる諸勢力の動向」、147-213頁。 /初出:科学研究費補助金研究成果報告書『戦国期西国における大規模戦争と領国支配』、2007年。
    • 川岡勉「山名氏の但馬支配と室町幕府」、395-436頁。 /初出:『但馬史研究』37号、2014年。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代
山名誠豊
山名氏当主
1528年 - 1580年
次代
山名堯熙