射援

射 援(しゃ えん、生没年不詳)は、中国後漢末期から三国時代蜀漢の政治家。文雄雍州扶風郡の人。

生涯[編集]

若くして名声があり、太尉皇甫嵩からもその才能を評価され、娘婿となった。献帝の初めの頃、三輔が飢饉により混乱したため兄の射堅は官を去り、射援を連れて益州劉璋の元に身を寄せた。

劉備が益州及び漢中を平定した後の建安24年(219年)、群臣が劉備を漢中王に推挙する上奏文に、射援は議曹・従事中郎・軍議中郎将として名を連ねている[1]

章武3年(223年)4月に劉備は没したが、その際に皇太子劉禅に宛てた遺詔で、「私の元に来た射君(射援)から、丞相諸葛亮)はお前の智力が高く、学習能力が期待以上であることに感嘆していると聞いた」と述べている[2]

射援は諸葛亮から丞相祭酒に任じられ、さらに従事中郎に転任した後、在官のまま没した[3]

一族[編集]

その先祖は『謝』で、北地郡の謝氏と同族だったが、祖先の謝服が将軍となって出征した際、皇帝がその姓を良くないものと考え[4]、『射』に改姓させたという。

兄の射堅は字を文固という。彼もまた若くして名声があり、三公の府に招聘され、黄門侍郎となった。益州に身を寄せると劉璋からは長史に、劉備の時代には広漢太守、次いで蜀郡太守に任じられた。

出典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『三国志』蜀書 先主伝
  2. ^ 先主伝注『諸葛亮集』
  3. ^ 前述の通り、劉備を漢中王に推挙する上奏文で、射援は従事中郎として名を連ねている。一方で諸葛亮が丞相となったのはそれより後のことで、射援の詳しい官歴は不明。
  4. ^ ちくま学芸文庫正史 三国志』(5巻、p.56)は謝服の姓名が「謝罪し、服従するという意味になるため」とする。