宇都宮仙太郎

宇都宮 仙太郎(うつのみや せんたろう、1866年5月28日慶応2年4月14日) - 1940年昭和15年)3月1日)は、日本実業家酪農家[1][2]

生涯[編集]

豊後下毛郡大幡村(現在の大分県中津市)の養蚕家であった武原文平、母ヤスの二男として生まれる[1][2]。生家に伝わる系図によれば当初は仙二郎と名付けられたが、戸籍簿に仙太郎と誤って記入されてしまい、これが本名となった[3]。後に母方の親戚・宇都宮武平の養嗣子となる。

少年時代は、村に小学校が無かったため同郷の先輩である賀來素吉論語十八史略を学んだほか、賀來が熱心なキリスト教徒であったためその影響を受けた。また、同郷であった福沢諭吉の著書を耽読した[3]

1877年明治10年)に初めて村に小学校ができたためそこで1年間学び、中学校へ進学した[3]

1882年(明治15年)に政治家を志して上京し、共立学校に入学するも、政治家志望の生徒が数千人といることが分かると夢を諦めた。その後畜産業に興味を持ち、福沢諭吉の推薦によって1885年(明治18年)、エドウィン・ダンが開設した札幌真駒内牧牛場(場長は町村金弥)の牧童となった[3]

1887年(明治20年)4月に渡米し、アメリカ合衆国ワシントン州のデビス牧場で働き、ここで初めてホルスタインを見る。その後イリノイ州のガラー牧場へ移り、バターやチーズの製造技術を習得した。その頃は酪農雑誌『ホーズデアリーマン英語: Hoard's Dairyman』を愛読していたという。その後更に最先端の酪農を学ぶため、ウィスコンシン州立大学の牧夫兼学生となった[3]

1890年(明治23年)に帰国し、町村金弥の招きで、蜂須賀茂韶が所有する雨竜の蜂須賀農場に勤務した。華族組合雨龍農場の建設事業に参加するが、計画は中止になる。

1891年(明治24年)に札幌北1条西16丁目に宇都宮牧場を開設し、他の乳牛業者と札幌牛乳搾取業組合を設立して、飼料の共同購入を開始する。後に東京に移住して麹町に牛乳搾取業「回陽舎」を開業した。

1897年(明治30年)にホルスタイン20頭余りを輸入し、同地で牛乳販売とバターの製造を始めた[1][2]

1902年(明治35年)に白石村上白石(現在の白石区菊水)に土地を取得し、サイロやアメリカ式牛舎を備えた牧場を建設、日本における本格的な酪農経営の先駆となった。この時阿部宇之八に紹介されて黒澤酉蔵が牧夫見習いとして勤務した。

1906年(明治39年)に再び渡米し、50余頭のホルスタインを買い付けて帰国した。

1925年(大正14年)にデンマーク式の協同組合を手本として、現在の雪印メグミルクへと繋がる北海道製酪販売組合を設立した[1][2]

札幌組合基督教会(現・北光教会)で洗礼を受けたクリスチャンであった。

業績[編集]

北海道で初めて民間によるバターの製造を行ったほか、日本最初の酪農組合「札幌牛乳搾乳業組合」を組織し、現在の雪印メグミルク株式会社の土台を築いた。これらの業績から「北海道酪農の父」と称されている[1][2]

酪農には「役人に頭を下げないでよい」「嘘をつかないでよい」「牛乳は人々を健康にする」という3つの徳がある、とする牛飼三徳を唱えた[2][3]

1968年(昭和43年)には、彼に因んで北海道の優れた酪農家へ贈る賞「宇都宮賞」が創設され、現在まで続いている。[4]

親族[編集]

娘婿に酪農学園大学教授を務めた出納陽一がいる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 日本人名大辞典(講談社
  2. ^ a b c d e f 20世紀日本人名事典(日外アソシエーツ
  3. ^ a b c d e f 安宅一夫「日本酪農の父・宇都宮仙太郎のまぼろし」”. 2022年2月25日閲覧。
  4. ^ 公益財団法人 宇都宮仙太郎翁顕彰会”. www.holstein.or.jp. 2022年2月25日閲覧。

外部リンク[編集]