孟祺

孟 祺(もう き、生没年不詳)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。東平四傑の一人に数えられる。

概要[編集]

孟祺は宿州符離の富裕な家に生まれ、父親の孟仁は儒学を修めた人物として知られていた。1232年壬辰)、金朝の首都開封がモンゴル軍の包囲を受けると、孟仁は家族と共に戦乱を避けて黄河の北に渡り、濟州魚台で石天禄に召し抱えられるに至った[1]

孟祺は幼いころから聡明で儒学を学んでいたため、父とともに東平に移住すると、この地方を治める厳実が開いた東平府学に入った。試験を受けて好成績で登題した孟祺は廉希憲宋子貞ら著名な文化人から評価され、遂に国史院編脩官の地位に就くこととなった。更にその後、従仕郎・応奉翰林文字・兼太常博士の地位に移っている。至元7年(1270年)には高麗への使者も務め、承事郎・山東東西道勧農副使とされている[2]

至元12年(1275年)より丞相バヤンを総司令とする南宋領侵攻が始まると、孟祺は承直郎・行省諮議の地位を与えられて遠征軍に同行することとなった。孟祺は軍中で軍務を滞りなく処理するだけでなく、焦山の戦いでは速戦を避けるべきであると進言した結果モンゴル軍は勝利を収めたたため、バヤンから「書生とは思えないほど兵事を熟知している」と表されたという。また兵の掠奪を厳しく戒めるようバヤンに述べ、南宋の首都臨安の無血開城に大きく貢献している[3]

孟祺は自ら志願して臨安の開城交渉の使者となり、南宋の大臣と夜間に至るまで交渉を行ったが、孟祺の「国勢がここまで至ったというのに、まだ何を待つというのか」という言葉を切っ掛けとして遂に南宋側は投降を決意したという[4]

南宋領の平定が終わった後、バヤンは孟祺の功績が多かったことを上奏し、これにより孟祺は少中大夫・嘉興路総管の地位を授けられた。嘉興路に赴任した孟祺は学業の振興に力を入れたと伝えられるが、間もなく病を得たために官を辞して東平に帰ることとなった。至元18年(1281年)には太中大夫・浙東海右道提刑按察使とされたが、赴任することなく51歳にして病没した。息子には孟遵・孟遹らがいた[5]

脚注[編集]

  1. ^ 『元史』巻160列伝47孟祺伝,「孟祺字徳卿、宿州符離人。世以財雄鄉里。父仁、業儒、有節行。壬辰、北渡、寓濟州魚台、州帥石天禄礼之、辟兼詳議府事」
  2. ^ 『元史』巻160列伝47孟祺伝,「祺幼敏悟、善騎射、早知問学、侍父徙居東平。時厳実脩学校、招生徒、立考試法、祺就試、登上選、辟掌書記。廉希憲・宋子貞皆器遇之、以聞于朝、擢国史院編脩官。遷従仕郎・応奉翰林文字、兼太常博士。一時典冊、多出其手。至元七年、持節使高麗、還、称旨、授承事郎・山東東西道勧農副使」
  3. ^ 『元史』巻160列伝47孟祺伝,「十二年、丞相伯顔将兵伐宋。詔選宿望博学・可賛畫大計者与俱行、遂授祺承直郎・行省諮議。久之、遷郎中、伯顔雅信任之。時軍書填塞、祺酬応剖決、略無凝滞。師駐建康、伯顔以兵事詣闕、政無大小、祺与執政並裁決之。及戦焦山、宋軍下流。祺曰『不若乗勢速進、以奪彼気』。如其言、遂大破之。伯顔聞之、喜曰『不意書生乃能知兵若是』。諸将利虜掠、争趨臨安、伯顔問計、祺対曰『宋人之計、惟有竄閩爾。若以兵迫之、彼必速逃、一旦盜起臨安、三百年之積、焚蕩無遺矣。莫若以計安之、令彼不懼、正如取果、稍待時日耳』。伯顔曰『汝言正合吾意』。乃草書、遣人至臨安、以安慰之、宋乃不復議遷閩」
  4. ^ 『元史』巻160列伝47孟祺伝,「先是、宋降表称姪、称皇帝、屢拒不納。祺自請為使、徵降表。至則会宋相于三省。夜三鼓、議未決、祺正色曰『国勢至此、夫復何待』。遂定議。書成、宋謝太后内批用宝、携之以出、復起謝太后於内殿、取国璽十二枚出。伯顔将親封之、祺止之曰『管鑰自有主者、非所宜親、一有不謹、恐異時姦人妄相染污、終不可明』。遂止」
  5. ^ 『元史』巻160列伝47孟祺伝,「江南平、伯顔奏祺前後功多、且言祺可任重。有旨褒陞、授少中大夫・嘉興路総管、佩虎符。祺至、首以興学為務、創立規制。在官未久、竟以疾解官、帰東平。至元十八年、擢太中大夫・浙東海右道提刑按察使、疾不赴。卒、年五十一。贈宣忠安遠功臣・中奉大夫・參知政事・護軍・魯郡公、諡文襄。子二人遵、遹」

参考文献[編集]

  • 元史』巻160列伝47孟祺伝
  • 新元史』巻173列伝70孟祺伝
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年