太刀山峯右エ門

太刀山 峯右エ門
太刀山峯右エ門(1916年頃)
基礎情報
四股名 太刀山 峯右エ門
本名 老本 弥次郎
愛称 鬼神
四十五日
砲弾投げ
大正の雷電
雷電の再来
古今十傑
20世紀最強の人類[1]
生年月日 1877年8月15日
没年月日 (1941-04-03) 1941年4月3日(63歳没)
出身 富山県富山市吉作
(出生時は石川県婦負郡吉作村)
身長 188cm
体重 150kg
BMI 42.44
所属部屋 友綱部屋
得意技 突っ張り呼び戻し小手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 第22代横綱
幕内戦歴 195勝27敗10分5預73休
優勝 幕内最高優勝9回
(優勝相当成績2回)
データ
初土俵 1900年5月場所(幕下付出)
入幕 1903年1月場所
引退 1918年1月場所
備考
2013年6月2日現在

太刀山 峯右エ門(たちやま みねえもん、1877年8月15日 - 1941年4月3日)は、現在の富山県[注 1]富山市吉作(出生時は石川県婦負郡吉作村)出身で友綱部屋に所属した大相撲力士。第22代横綱。本名は老本 弥次郎(おいもと やじろう)。

経歴[編集]

幼少期~初土俵[編集]

1877年に呉羽丘陵の近くの、農業の傍ら製茶業、豆腐業を営む老本治助の次男として生まれた。秀業小学校(現・富山市立呉羽小学校)卒業とされている[2]。老本家のは品評会で常に一等で、幼い頃から茶葉の手揉みを手伝っていたことから怪力が付き、これによって針のごとく鋭い優良品を生み出し、茶の品評会では必ず優勝したという。兵役検査での優秀な成績が評判になり、友綱が貴重な逸材として欲しがったが本人は相撲に興味が無く、実家も長男を早く失っているので猛反対された[3]。諦め切れない友綱は板垣退助西郷従道、さらには警察署長や当時の富山県知事である金尾稜厳を動員して[4]1899年友綱部屋へ入門させた[5]

肩の故障や流感脚気などの影響で、入門1年後の1900年5月場所に幕下付け出しで初土俵を踏む。四股名は地元・富山県の立山常陸山谷右エ門に迫れという願いを込めて板垣退助によって「太刀山」と命名された[6]

取り口[編集]

下半身の硬さに難があることから四つ相撲には向かず、徹底して突き押しを磨いた。これが功を奏して順調に実力を付けていったが、その強さゆえに友綱一門には太刀山と稽古できる力士が少ないため、友綱は常陸山に「太刀山に稽古をつけて欲しい」と頼んだら快諾されたため、駒ヶ嶽國力と共に稽古を付けてもらった[7]。その双手突きの威力は誰も二突きとは耐えられないという意味から、一突き半→一月半で「四十五日の鉄砲」と恐れられた[8]。太刀山の双手付きは、大関時代の1910年6月場所3日目に小常陸由太郎を立合いの1発で桟敷まで突き飛ばし、足で桟敷を突き破った小常陸は負傷して翌日から休場、翌場所は全休することとなったほか、8日目には八嶌山平八郎が太刀山の強烈な突き押しを怖がって、太刀山が手を出す前に土俵から逃げ出した(太刀山は前に歩いたのみで、決まり手は「にらみ出し」と言われた[注 2])。

最初は突っ張っても常陸山に上手く返されて負けていたが、前頭筆頭だった1904年5月場所に常陸山が休場した隙をついて8勝1敗の優勝相当成績を挙げる。1905年5月場所には小結を飛び越して関脇1907年5月場所でついに常陸山から初勝利を挙げ、8勝1敗と2度目の優勝相当成績を挙げる。

横綱として[編集]

駒ヶ嶽とは関取になる前から並び称されたが、大関争いとなると太刀山の陣営には横綱が大砲万右エ門梅ヶ谷藤太郎 (2代)、大関も國見山悦吉荒岩亀之助が存在しており、上が詰まって逆に相手陣営に大関がいないことから先を越された。大砲・荒岩の引退によって、1909年6月場所の両國相撲常設館(旧・両国国技館)の完成とともに大関に昇進する[9]。この場所8日目碇潟に敗れるが、翌日駒ヶ嶽を破ってから、1912年1月場所8日目で2代西ノ海に敗れるまで43連勝(421休)を記録。この間1910年6月場所と1911年2月場所での連覇で、吉田司家から明治時代で最後となる横綱免許を授与された。1911年2月7日、8日両日は勝負検査役不信任問題のため休業となっていた[10]

この敗戦後も再び白星を重ね、1913年1月場所・1915年1月場所・1916年1月場所と全休が3回あるものの、常陸山に対する引分・小常陸に対する休み(当時は相手が休むと自らも休みになる)・2代朝潮に対する預り(軍配は太刀山だが物言いがついた)を挟み、1916年5月場所8日目で栃木山守也に敗れるまで56連勝を記録した。その栃木山戦では、栃木山が上手く立って右ハズで攻めたが、太刀山は左から栃木山の右を抱えて小手に振り、右ハズで強引に割り出そうとした。これをこらえた栃木山は、左も差してもろ差しとなり、太刀山が強引に寄ろうとすると、右すくい投げで太刀山の体を崩し、渾身の力でそのまま寄り切った[8]

56連勝は引分や預り、休場を挟んだものとしては双葉山定次谷風梶之助白鵬翔(同数2位)、梅ヶ谷藤太郎 (初代)に次ぐ史上5位、43連勝は谷風・雷電爲右エ門らと並んで史上9位タイに位置する。またこの二つの連勝の間に西ノ海への1敗しかないため、この西ノ海戦にも勝っていれば丁度100連勝に達していたことになる。この黒星については八百長であったことを本人が述べている[8]

1917年1月場所の千秋楽、この場所で綱取りを賭けていた大錦卯一郎との全勝対決に敗れ、大錦の横綱昇進が決定的になった。感極まった観客達は総立ちになり、帯や羽織座布団に加えて灰皿や火鉢蜜柑も土俵に投げ込まれ、さらに興奮の余り土俵に上って逆立ちをする者や大錦に泣きながら飛び付く者まで現れたと伝わっており、国技館内は観客の騒ぎで前代未聞の大騒動になった。結果的にこの一戦が太刀山の現役最後の取組となり、その後の稽古で右脚を捻挫、また稽古を付けてもらった常陸山の弟子に敗れたことで体力の限界を感じ、1918年1月場所で引退した。

引退後[編集]

引退後は年寄・東関を襲名して独立したが、勝負検査役選挙での落選を機に相撲界に嫌気が差し、旧国技館前にあった部屋の施設ごと弟子を3代高砂へ譲って1919年に協会を廃業した[11]。廃業後は大相撲で巨万の富を築いたこともあり、趣味としていた富士山の絵を描きながら、悠々自適の余生を過ごした。

1937年2月には自身の還暦を記念して、木村瀬平鳴戸を従えて赤い綱を締め、後援者の主催で史上初となる「還暦土俵入り」を上野精養軒にて披露した。1941年4月3日に死去。63歳没。

人物[編集]

現在より小さい13尺土俵(現在は15尺)だったためもあるが、全勝を5度記録するなど、突っ張りを得意とした力士としてはその安定感が特筆される。友綱は「古今最強の力士は幕末の陣幕久五郎、そして我が太刀山」と言ったと伝わる。後に双葉山が全勝8回を記録するまでは全勝最多記録保持者だった。

恐るべき怪力は400kgの砲弾も片手で持ち上げ振り回したり、釜山でロシア製の500kg弾丸を一人で運んだ。当時の生物図鑑に「ゴリラは太刀山のように強力な動物」なる記述が見られるほど太刀山の超人的な怪力が周知されていた[1]。この怪力を活かし、相手を捕まえて背中から落とす「呼び戻し」は、仏壇返しの異名で突っ張りとともに恐れられた。

当時は常陸山に代表される「がっぷり四つでしのぎあう相撲」が全盛で、太刀山の瞬間で勝負をつける取り口は面白みに欠けると批判された。しかし現在では「梅常陸時代」と、栃木山守也のスピード感ある近代相撲との橋渡しをした存在として、その功績は高く評価されている。

その実力は相撲の領域に留まらず、ある時の上海巡業でインドレスラー集団を手玉に取ったという事実が伝わっている。結果として第一次世界大戦を受けて取り消しとなったものの、当時世界最強のレスラーといわれたジョージ・ハッケンシュミットとの異種格闘技戦も内定していたという[1]

後世には温厚な性格と伝わる。好きな酒は大正時代に流通していた「サクラビール」というビール[12]

現役時代の趣味は狩猟。

エピソード[編集]

  • 23歳と遅い年齢で入門したことから、現役時を振り返るときには「私のような中年者が…」を口癖のようにしていたという。
  • 1910年に小常陸との取り組みが組まれた際、その前日に小常陸の後援者が、太刀山に上手く相撲を取らせないようにしようと酒を多く飲ませて二日酔いを狙ったところ、結果的に返り討ちにされた(神嵜重太郎芸者をあてがって、太刀山を一晩寝させない策を取ったとも言われている)。
  • 現役時代のある時、稽古場に当時の幕内力士全員を呼んで土俵の内側に足で1m程の丸を描き「ここからワシを押し出したら賞金10円やるぞ」と言って挑戦させた。太刀山が活躍した大正時代の10円は今なら数十万円になるが、誰にも出来なかったという[1]
  • 双輪の綱を締め両手を広げてせりあがる、現在で言う「不知火型土俵入り」の完成者と言われているが、本人は「木村庄之助 (16代)に勧められ、雲龍久吉の型を真似た」としていた。やくみつるが「脇をきつく締めて掌を常に上に向けていた。」という内容の考察[13]をしており、「重たい岩をも支える腕の形」という不知火型土俵入りのせり上がりに見られる本質があらわれていたというような評価をされている。
  • 引退の際に出た伝記『太刀山』には、「鬼面山の式に拠れる土俵入を為し」[14]とあり、鬼面山が綱姿で両手を広げている写真も現存しているが、太刀山が鬼面山をモチーフとしたという証言はない。
  • 当時では珍しく食事面から健康に気を使ったが、還暦土俵入りが出来たのはこれが功を奏したためとも思われる。晩年は大阪横綱の若嶌權四郎立浪と良い囲碁仲間で、茶飲み話に花が咲いて興が乗ると、立浪の自宅にあった中庭で相撲を取ることもあったという。ある時、東西合同相撲で若嶌と引き分けた話が出たところ、決着を付けようと立ち合った。しかし、四つに組んだ後は微動だにせず「分けじゃ。分けじゃ。このままでええ」と笑いあった。
  • 1940年に太刀山自身の寄付で立てられた『相撲殿』を創始とする『太刀山道場』という名前の相撲場が富山市立呉羽小学校に存在する[15]。この相撲場は一度解体されたが、太刀山の次女の寄付で1980年5月24日再建されたものである[16]。また同小学校の卒業生には高砂部屋所属の朝乃山英樹がおり、彼も4年生の時から太刀山道場で稽古していた。令和元年5月場所において富山県出身者として大正5年5月場所の太刀山以来103年ぶりとなる幕内優勝を果たし[17]、翌年3月には111年ぶりの大関昇進を果たした。
  • 2004年11月頃、10代友綱は弟子の魁皇に対して「横綱に昇進したら太刀山を襲名しないか?」とさらなる奮起を促したという。当時、魁皇の場所後の横綱昇進が囁かれていた時の逸話で、マスコミなども「魁皇が横綱に昇進すれば、友綱部屋からは太刀山以来」と報じていたが、正確には2004年当時活動していた友綱部屋は旧・高嶋部屋を前身とし、魁皇に系統のつらなる横綱としては吉葉山潤之輔がいる。また太刀山が一時名乗った東関部屋からは、やはり突っ張りを得意として「平成の太刀山」と呼ばれた曙太郎が出ている。
  • 1911年6月場所の優勝額は当初披露された際は太刀山が横向きポーズであったが、のちにやや横向きに訂正された[10]
  • 不知火型を経験した横綱が還暦土俵入りを行なったのは太刀山と旭富士の2人だけである。

主な成績[編集]

  • 幕内成績:195勝27敗10分5預73休 勝率.878
  • 幕内在位:31場所
  • 優勝:9回(ほか優勝相当成績2回)

優勝は国技館開館後9回、それ以前にも優勝相当成績が2回ある。前述の通り大関昇進以後は無敵で、横綱時代に喫した黒星は僅か3(与えた金星は0)で勝率は.966(84勝3敗1分1預51休)。東京相撲の横綱としては谷風を1厘上回り、1場所しか勤められなかった勝率10割の陣幕を除けば最高記録である。歴代横綱で唯一、金星配給経験が全く無い。

協会を離れたことで歴史的評価の面では少なからず損をしており、横綱としての純粋な強さという意味では史上最強との呼び声も少なくない。

場所別成績[編集]

      は優勝掲額成績。

場所 地位 成績 備考
明治33年(1900年)5月場所 幕下付出
明治34年(1901年)1月場所 東幕下6
明治34年(1901年)5月場所 東幕下4
明治35年(1902年)1月場所 東十両8 6勝3敗1分
明治35年(1902年)5月場所 東十両3 10勝0敗
明治36年(1903年)1月場所 東前頭9 6勝3敗1休
明治36年(1903年)5月場所 東前頭2 4勝4敗1分1休
明治37年(1904年)1月場所 東前頭2 7勝2敗1休
明治37年(1904年)5月場所 東前頭1 8勝1敗1休 優勝相当
明治38年(1905年)1月場所 東前頭1 7勝1敗1預1休
明治38年(1905年)5月場所 東関脇 5勝2敗1分2休
明治39年(1906年)1月場所 東関脇 7勝2敗1休
明治39年(1906年)5月場所 東関脇 4勝1敗5休
明治40年(1907年)1月場所 東関脇 5勝1敗1分3休
明治40年(1907年)5月場所 東関脇 8勝1敗1休 優勝相当(2)
明治41年(1908年)1月場所 東関脇 6勝2敗1預1休
明治41年(1908年)5月場所 東関脇 7勝1敗1分1休
明治42年(1909年)1月場所 西関脇 6勝1敗1分2休
旧両国国技館開館
明治42年(1909年)6月場所 西大関 8勝2敗
明治43年(1910年)1月場所 西大関 6勝0敗2分1預1休
明治43年(1910年)6月場所 西大関 9勝0敗1分
明治44年(1911年)2月場所 西大関 8勝0敗1分1預
明治44年(1911年)5月場所 西横綱 10勝0敗
明治45年(1912年)1月場所 東横綱 8勝1敗1分 43連勝
明治45年(1912年)5月場所 西横綱 10勝0敗
大正2年(1913年)1月場所 西張出横綱 10休
大正2年(1913年)5月場所 東横綱 10勝0敗
大正3年(1914年)1月場所 東横綱 10勝0敗
大正3年(1914年)5月場所 西横綱 8勝0敗1預1休
大正4年(1915年)1月場所 西横綱 10休
大正4年(1915年)6月場所 西横綱 10勝0敗
大正5年(1916年)1月場所 西横綱 10休
大正5年(1916年)5月場所 西横綱 9勝1敗 56連勝
大正6年(1917年)1月場所 東横綱 9勝1敗
大正6年(1917年)5月場所 東横綱 10休
大正7年(1918年)1月場所 西横綱 10休 引退
  • 1909年1月までは千秋楽に幕内力士は取組が組まれないのが通例だったので、「1休」は休場ではない。

関連文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 出生時から1883年5月9日(満5歳時)までは石川県の一部だった。
  2. ^ 当時から「にらみ押し」と言われたかは真偽の程が疑わしい。「1910年夏場所では、八嶋山が突っ張りを恐れるあまり、一度も体が触れないまま自ら土俵を割り、「にらみ出し」とはやされた(1993年9月6日付け朝日新聞朝刊)」という記事が掲載されたが、当時の取組内容が記載されている朝日・読売・毎日の各新聞によれば、決まり手は「よりきり」となっている。八島山との取り組みは1911年2月場所でも実現したが、その時の決まり手は「つきだし」だった。ちなみに決まり手として相撲協会が認めるようになったのは1955年からで、それ以前は新聞などのメディアが勝手に名づけていた。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 【大相撲豪傑列伝】(8)20世紀最強の人類 太刀山峰右衛門 産経新聞 2008.11.15 16:54
  2. ^ 『呉羽小学校のあゆみ』(1994年3月、富山市立呉羽小学校著)14頁。
  3. ^ 竜野周一郎 編『太刀山』第二.友綱の烱眼板垣伯の斡旋,太刀山会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション
  4. ^ 竜野周一郎 編『太刀山』第三.太刀山の上京,太刀山会,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション
  5. ^ 竜野周一郎 編『太刀山』第四.友綱部屋に入門,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ 竜野周一郎 編『太刀山』第四.友綱部屋に入門,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション
  7. ^ 竜野周一郎 編『太刀山』第五.幕下時代,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション
  8. ^ a b c 『大相撲ジャーナル』2017年6月号42-43頁
  9. ^ 竜野周一郎 編『太刀山』第七.土俵上の成績,大正7. 国立国会図書館デジタルコレクション
  10. ^ a b 『大相撲中継』2017年11月18日号 pp.86-87.
  11. ^ ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p12
  12. ^ 富山県出身の朝乃山と横綱太刀山…どちらも温厚 日刊スポーツ 2019年5月26日10時0分(2019年12月17日閲覧)
  13. ^ 『相撲』 2013年11月号、p90
  14. ^ 『太刀山』太刀山会編、1917年、p52
  15. ^ 太刀山峰右衛門” (PDF). 富山県. 2019年5月25日閲覧。
  16. ^ 『呉羽小学校のあゆみ』(1994年3月、富山市立呉羽小学校発行)114頁。
  17. ^ “平幕・朝乃山が初優勝 横綱・鶴竜敗れて決定「実感ない」”. Sponichi ANNEX. スポーツニッポン新聞社. (2019年5月25日). https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2019/05/25/kiji/20190525s00005000289000c.html 2019年5月25日閲覧。 

関連項目[編集]