天草五橋

国道266号標識
国道266号標識
国道324号標識
国道324号標識
天草五橋
天門橋(大矢野島側から撮影)
基本情報
日本の旗 日本
所在地 熊本県天草市
交差物件 有明海
建設 1966年
座標 北緯32度32分13.2秒 東経130度25分23.3秒 / 北緯32.537000度 東経130.423139度 / 32.537000; 130.423139
構造諸元
全長 502 m(一号橋(天門橋))
249 m(二号橋(大矢野橋))
361 m(三号橋(中の橋))
510 m(四号橋(前島橋))
178 m(五号橋(松島橋))
8.3 m(一号橋)
8 m(二号橋 - 五号橋)
関連項目
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天草五橋(あまくさごきょう)は、熊本県宇土半島先端の三角(みすみ)から、天草諸島大矢野島永浦島、池島、前島を経て天草上島までを5つの橋で結ぶ宇城市から上天草市にかけての連絡道路である[1]1966年(昭和41年)9月24日に開通した。

概要[編集]

国道57号の五橋入口交差点から宇城市三角町で分岐して上天草市大矢野町飛岳へ第一号橋(天門橋)で渡り、登立・江後を経て大矢野島を縦断し、第二号橋(大矢野橋)で満越から永浦島、第三号橋(中の橋)で池島、第四号橋(前島橋)で前島へと経て、第五号橋(松島橋)で松島町会津へと至る総延長17.4 kmの区間である[1]。天草五橋は当初は償還期間39年を見込んだ有料道路であったが、開通により天草への観光客が急増し、モータリゼーションの進展なども含めた交通量の増大によりわずか9年で償還を完了して無料化された。

一号橋から五号橋の間の国道266号および路線に重複する国道324号の約15 kmのルートは[2]、天草で真珠の養殖が盛んなことから天草パールラインと名付けられ[1]、1987年(昭和62年)8月10日に、旧建設省と「道の日」実行委員会により制定された「日本の道100選」にも選ばれている[3]

また、大矢野島から上島までの間3 km足らずは小さな島づたいで、二号橋・三号橋・四号橋・五号橋がほぼ連続している。その間の両側の海に大小さまざまな島が浮かぶ風景は、天草松島と呼ばれ日本三大松島の1つに数えられる。

各橋梁[編集]

名称 区間 橋梁全長 (m) 構造 径間数 最大支間長 (m) 幅員 (m) 施工 備考
有効 (車道) (歩道左/右)
一号橋 天門橋 九州 - 大矢野島 502 連続トラス 3 300 8.3 6.0 0.8 / 0.7 上部:横河橋梁製作所
下部:西松建設
二号橋 大矢野橋 大矢野島 - 永浦島 249.10 ランガートラス 3 156 8.0 5.8 0.7 / 0.7 上部:日本橋梁
下部:大林組
三号橋 中の橋 永浦島 - 池島 361 PCラーメン 3 160 8.0 5.8 0.7 / 0.7 住友建設
四号橋 前島橋 池島 - 前島 510.20 PCラーメン箱桁橋 5 146 8.0 5.8 0.7 / 0.7 鹿島建設
五号橋 松島橋 前島 - 天草上島 177.70 パイプアーチ 3 126 8.0 5.7 0.8 / 0.8 上部:川崎重工業
下部:星野土木

[4]

歴史[編集]

地図
天草五橋の位置(クリックで拡大)
一号橋(天門橋)と三角ノ瀬戸、三角港付近の空中写真。1974年撮影の6枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
4つの橋が連続する二号橋から五号橋付近の空中写真。1974年撮影の6枚を合成作成。
国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

熊本県の属する天草諸島は、古くから水産や鉱産などの地理的天然資源に恵まれ、入江で行なわれる真珠の養殖や、農業環境に適した島嶼群であったが、九州本土の都市圏に接近していながら、離島に共通する問題となっている道路による交通輸送が不可能という条件のために、発展が阻害された後進地という悩みを抱えていた[5]

1936年(昭和11年)、大矢野島の西方沖合に位置し島原湾に浮かぶ湯島の出身で熊本県議会議員を務めた森慈秀は、背中に家紋をあしらったモーニングスーツを羽織って、県議会の席上で「天草に橋をかけよう」と発言した[5]。当時の日本の架橋技術は、天草諸島に橋を架けるほどの技術力はなく、森の発言を実現することは到底不可能で「ほら吹きの誇大妄想狂」のレッテルを貼られる始末であった[1]

吾が郷土天草は、四面海を繞らし、面積八八四、九平方粁、人口二四万人を有する全国有数の一大島嶼群であります。島内は天與の資源に恵まれ、年間五八五万貫の水産物を誇る東支那海の宝庫を控え、林産、農産物を始めとして、二億トンの無煙炭、陶石など豊富な地下資源を産することは余りにも有名であり、一方、気候温和にして風光明媚、キリシタン殉教の地として、その遺跡は数多く、阿蘇、霧島、雲仙国立公園の中心に位し、国際観光ルートとしてもその使命は重大であります。

 然るに、かかる物的資源を有しながら船便による輸送の制約をもつ離島であるために産業、経済、文化、教育等あらゆる面に於いて退歩を余儀なくされ、天与の資源も美観、景観も広く天下に利用されないことは独り島民の不幸ばかりでなく、国家的損失であると申さねばなりません。  この離島の後進性を除去し、進んで島内資源を開発し、文化の向上を計るには地勢的に本土との架橋を実現せしめることが最も喫緊の捷路であります。このことは先覚者によって凡に二十数年前から唱えられ、将に「夢の架橋」としてこれが実現を期した所以も実にここにあります。  この架橋の実現の上には、資源の開発は勿論、人員、物資輸送のスピードアップ等その寄与する経済効果は大なるものがあり、天下の絶景、天草松島を眼下に雄大な雲仙を望見してのドライブは将に世紀の一大偉観であり、観光客の増加及びその消費する金額も現在に数十倍することは必定であります。  特に本架橋は県の有料橋として架設し三〇年の償還により初めて天下の公道となるものであります。

 かかる大事業を完遂するには長年の月日と巨額の経費を要し、然も巧緻なる設計と綿密なる計画と更にたゆまざる努力とを必要とするものでありますが、吾々二四万島民、広く総力を結集して天草架橋期成会を成立せんとするものであります。 — 天草架橋期成会設立趣意書[6]

四半世紀を経て、森の描いた架橋の夢の実現への執念はやがて実を結ぶこととなり、1961年(昭和36年)に天草五橋の着工は決定された[1]。1962年(昭和37年)8月に着工され、当時32億円の事業費を投じて4年の歳月を費やす大事業で、1966年(昭和41年)9月に天草五橋が完成した[1]

天草五橋の開通によって、天草島における生活、産業、すべてが変化した。『新・天草学』[7]によると、それを次の21項目に分けて詳説している。

  1. 船の衰退
  2. 経済圏
  3. 道路
  4. 人口
  5. 早期作
  6. 黒毛和牛
  7. 特産品作り
  1. つくる漁業
  2. 陶石
  3. もらい水
  4. 林業
  5. 大手スーパー進出
  6. 観光つり船
  7. 工場進出
  1. ホテル・旅館
  2. フェリー
  3. 目玉作り
  4. 架橋と空港
  5. 人情
  6. 政治風土
  7. 県外からのイメージ

年表[編集]

  • 1922年2月21日 - 天草郡通常議会で鉄道大臣に対して天草に鉄道を編入し、工事着工を望む請願書の決議案を採択した。[8]
  • 1932年 - 昭和7年の熊本県議会で各地の雄大な開発着想が話題になったとき、天草では「本土ー天草間の架橋」が提唱されて架橋の端緒となった。[9]
  • 1936年 - 熊本県議会議員森慈秀が県議会で『大矢野島と三角の間に2つの橋を架けて大矢野島と宇土半島を陸続きにし、柳港から優秀なる連絡船で、合津、大浦に結ぶ』と提言した。[10]
  • 1953年10月 - 離島振興法の指定地域となる。(離島振興法適用により、天草島内の道路網の整備が可能となった)[11]
  • 1953年 - 県議の蓮田敬介、三角から天草上島迄を5〜7つの橋で繋ぐ『天草架橋』構想を提案 [10]
  • 1954年9月 - 伊藤九州地方建設局長来天草。「今日の架橋技術を以ってすれば天草架橋は可能」と発言。[12]
  • 1954年10月18日 - 天草架橋期成会設立を申し合せる(天草土木協会役員会)[13]
  • 1954年11月24日 - 初めて『天草架橋(当時は大矢野架橋)』陳情[14]
  • 1954年12月24日 - 天草架橋期成会設立総会 [15]
  • 1954年 - 熊本県による調査開始
  • 1955年1月 - 竹山祐太郎建設大臣、来天草。架橋予定地点視察「天草架橋は決して夢ではない。天草は大へん美しい島だから、この島に架橋ができると日本一の観光地になるよ」と語る。[16]
  • 1955年 - 『島民一人一円献金』始まる[15]
  • 1955年 - 長崎県の伊ノ浦瀬戸にかかる西海橋が完成した。この橋の着工は5橋の計画に刺激を与えた。
  • 1955年8月9日 - 天草架橋正式申請書(道路整備特別措置法に基づく有料通路施行要望書)提出[17]
  • 1956年2月 - 「道路整備特別措置法にもとづく有料道路貸付金申請書」を建設大臣に提出し、建設省に最初の架橋説明会開催[18]
  • 1956年4月 - 日本道路公団発足
  • 1956年 - 日本道路公団による調査開始
  • 1956年8月 - 日本道路公団井尻副総裁、来天草 [19]
  • 1957年6月 - 南条徳男建設大臣、架橋予定地点視察[20]
  • 1958年4月 - 日本道路公団岸総裁、来天草[21]
  • 1958年4月24日 - 根本龍太郎建設大臣、大矢野町役場で『昭和36年度から着工する』と語る[21]
  • 1958年2月 - 「天草連絡道路建設計画報告書」を公団支社作成[22]
  • 1960年1月 - 1月26日、NHKのニュースで、「日本道路公団が天草連絡道路(天草架橋)計画」と発表。[23]
  • 1960年4月 - 天草架橋実現世話人会、東京で発足[24]
  • 1960年10月 - 天草架橋について、天皇から岸道路公団総裁が質問を受け、「架橋は三十六年度に着工します」と回答[22]
  • 1961年 - 天草環状道路貫通[25]
  • 1961年11月 - 中村梅吉建設大臣来天草、「天草架橋の実現は疑う余地なし」と言明[26]
  • 1962年3月 - 日本道路公団内に架橋工事事務所設置
  • 1962年7月 - 天草架橋起工式[27]
  • 1964年 - 1966年 - 架橋を描いたテレビドラマ『虹の設計』(NHK総合テレビジョン)が放映される。
  • 1966年9月24日 - 日本道路公団が管理する一般有料道路として供用開始
  • 1975年8月10日 - 償還完了により無料開放

道路公団の評価[編集]

メリット・デメリット評価(1976年[28]
問題 評価(%)
交通網の整備 93.4
交通事故の増大 93.2
外商の増加 75.6
地域開発の進展 68.8
公害の増大 67.9
本土との一体感 65.4
買い物が便利 60.3
生活環境の整備 43.7
五橋料金が高い(現在は無料[29]) 41.6
風紀の乱れ 32.1
収入増大感 22.1
天草としての一体感 21.9
就職口の増加 16.3
物価が安くなる 10.2

地理[編集]

千巌山展望所からの天草五橋の眺望(2015年5月)
高舞登山展望台からの天草五橋の眺望(2015年5月)

天草五橋がある天草諸島は、雲仙天草国立公園の一角を占める熊本県の西方にある島嶼群で、四方を不知火海有明海東シナ海に囲まれた気候温暖な風光明媚なところで知られる[5]。 大矢野島と上島の間に大小19の島々が点在する天草松島の島々を眺め、宇土半島先端の三角から天草上島までの5つの橋を渡るルート上には、展望台も設置されており、特に松島展望台から見る前島橋と天草松島の島々と美しい海が調和する風光明媚なパノラマ風景を見ることができる[30]。また、近くにある高舞登山(たかぶとやま)や千巌山(せんがんやま)の展望台からも天草松島と天草五橋を展望できる[30]。高舞登山展望台からの夕日の眺めは、「日本の夕日百選」に認定されている[1]。天草五橋一号橋の天門橋は、天草松島にある他の4橋とは離れた北の位置にあり、三角半島と大矢野島北端の間にある三角ノ瀬戸と呼ばれる海峡に架かる。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 「日本の道100選」研究会 2002, p. 207.
  2. ^ 須藤英一 2013, p. 175.
  3. ^ 「日本の道100選」研究会 2002, p. 11.
  4. ^ 以上は橋梁台帳(天草地域振興局)による
  5. ^ a b c 「日本の道100選」研究会 2002, p. 206.
  6. ^ 上天草市史 天草の門 (2007) 上天草市史大矢野町編現代部会/ 『地方創生に駆けた男』p. 134 熊本出版文化会館 2016
  7. ^ 『新・天草学』熊本日日新聞社 1987
  8. ^ みくに新聞、特集 陸上交通45年史、1958年3月23日
  9. ^ 『熊本県広報昭和37年特別号NO.155 天草架橋これまでのいきさつ』p. 15、 1962年
  10. ^ a b 『天草建設文化史』第四章 天草の主要土木工事「天草架橋の思い出(その二)」元熊本県会議員蓮田敬介 p. 848. 天草地区建設業協会 秀巧社 1978年
  11. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 99. 熊本出版文化会館 2016年
  12. ^ 『天草建設文化史』第四章天草の主要土木工事「天草架橋の思い出(その二)元熊本県会議員蓮田敬介、p. 851. 天草地区建設業協会 秀巧社 1978
  13. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 132. 熊本出版文化会館 2016
  14. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 133. 熊本出版文化会館 2016
  15. ^ a b 『天草建設文化史』第四章天草の主要土木工事「天草架橋の思い出(その二)元熊本県会議員蓮田敬介、p. 853. 天草地区建設業協会 秀巧社 1978年
  16. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 138. 熊本出版文化会館 2016
  17. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 141. 熊本出版文化会館 2016
  18. ^ 『熊本県広報昭和37年特別号NO.155 天草架橋』p. 15. 1962年
  19. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 148. 熊本出版文化会館 2016
  20. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 153. 熊本出版文化会館 2016
  21. ^ a b 『地方創生に駆けた男』p. 160. 熊本出版文化会館 2016
  22. ^ a b 『熊本県広報昭和37年特別号NO.155 天草架橋』p. 16. 1962年
  23. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 173. 熊本出版文化会館 2016
  24. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 174. 熊本出版文化会館 2016
  25. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 183. 熊本出版文化会館 2016
  26. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 185. 熊本出版文化会館 2016
  27. ^ 『地方創生に駆けた男』p. 187. 熊本出版文化会館 2016
  28. ^ 上天草市史 天草の門 (2007) 上天草市史大矢野町編現代部会
  29. ^ なお開通当時は普通自動車800円、軽自動車70円
  30. ^ a b 須藤英一 2013, pp. 174–175.

参考文献[編集]

  • 『工事報告 天草五橋』 (社)土木学会 1966/05
  • 『天草建設文化史』 天草地区建設業協会 1978/05
  • 『新・天草学』熊本日日新聞社 1987
  • 『天草の歴史』郷土出版社 ISBN 978-4-87663-932-8
  • 天草地区建設業組合 『天草建設文化史』秀巧社 1978年
  • 天草五橋の橋梁台帳(編集:天草地域振興局)保存 熊本県庁
  • 須藤英一『新・日本百名道』大泉書店、2013年。ISBN 978-4-278-04113-2 
  • 『地方創生に駆けた男-天草架橋・離島振興に命を賭した森國久』熊本出版文化会館(2016/9/24)
  • 「熊本県広報『くまもと』1962/NO155 特別号」
  • 「日本の道100選」研究会 著、国土交通省道路局(監修) 編『日本の道100選〈新版〉』ぎょうせい、2002年6月20日、206-207頁。ISBN 4-324-06810-0 
  • 『評伝 天草五十人衆』天草学研究会[編] 弦書房 2016年

関連項目[編集]