天母教

天母教(てんもきょう)は日本統治時代台湾に生まれた神道系の新宗教の一つである。扶桑教の一派とされ、中治稔郎によって1925年に創立された。

教義[編集]

その教義は、日本の天照大御神中国海神である媽祖天上聖母)が同一のものであるとするもので[1]、台湾における民間宗教を取り込み、教化を図ったものである[1]。宗教行事は神式で行われ、皇室との関わりも持とうとしていた[1]

教名の「天母」とはその(天照・媽祖)女神のことを指し、天母教では「母の愛情は人類の最も強きもの」であると考えられており、母性愛こそが神の「最大霊徳」である仁愛を示すものとされている。そのため、神は女性の姿をとって現れると説かれている。その他、ほとんどの宗教と同じように勧善懲悪の教えを持っている。

天母地区の開発[編集]

教団の中心は、台北三角埔に建設した天母神社であり(現・中山北路七段一九一巷)、その御神体は中国福建省湄州湄洲妈祖祖庙)から譲り受けた媽祖像であった。

布教とともに、本拠地の三角埔(後に天母と呼ばれるようになる)で温泉の採掘や旅館バスの経営を行い[1]教会を中心とした高級住宅地の開発を計画するなど、開発事業と密着している宗教でもある。結婚紹介所や恵まれない子どもへの教育活動も行っていた[1]

天母教は、終戦を迎えると教祖である中治稔郎が帰国し、事実上消滅することとなる[1]。資産はすべて国民党に接収され、高級官僚の住宅などに転用された。その後、住環境の良さから米軍関係者や大使館など、外国人がこの一帯に多く住み始めたことにより発展し、天母教が構想していた通り高級住宅街となっている[1]

略歴[編集]

天母教の歴史は非常に短い。また、それは前述した通り、本拠地三角埔の開発と歩を一にしている。

  • 1925年(大正14年)- 台北市永楽町二丁目五十二番地(現・迪化街一段附近)で教団創設
  • 1926年(大正15年)- 台北市元園町二五三番地(現・成都路110)に移転し、教会、神殿、拝殿、付属集会所と教主住宅を建設。
  • 1927年(昭和2年)- 台湾人と日本人の融合を求めて、台湾初の結婚紹介所「御柱會」設立[2]
  • 1930年(昭和5年)- 教主中治稔郎、布教と資金集めのため台湾全道行脚を開始する。
  • 1931年(昭和6年)- 台北州士林街三角埔に湧出する温泉の権利を獲得。ここを本拠地とする事を定め、同地の開発を重田栄治との共同事業として進める。(開発の全用地は約9万坪)
  • 1933年(昭和8年)- 引湯工事に着手。
  • 1935年(昭和10年)- 引湯工事終了。付属公衆浴場、神苑、仮神殿を竣工し、移転。天母温泉として営業を始め、士林駅間のバスの運行も始める。
  • 1945年(昭和20年)- 敗戦。教主の日本引揚げのため、教団消滅。ご神体の媽祖像は、天母東・西路の交差点近くにある廟「三玉宮」に保管されている[3]

教祖[編集]

教祖の中治は明治11年1月13日、兵庫県生まれ。明治28年、兵庫県朝来郡和田山(現朝来市)の竹田尋常高等小学校尋常科准訓導となり、明治35年ごろに台湾へ渡る。明治39年台湾総督府民政部通信局に勤務し始め。大正10年台南郵便局庶務課長となる。台北郵便局に異動後、大正14年に依願退職。扶桑教に傾倒し、宗教思想家の中西牛郎と知り合い、扶桑教の教義を発展させる形で自ら天母教を興す[3]。天母教運営にあたっては、台湾電力の社長だった高木友枝、台北一の高額納税を誇っていた綿布商の重田栄治[4]らが支援した[5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 林麗華; 塩川太郎『日本統治時代における台湾の媽祖信仰』人文地理学会、2014年。doi:10.11518/hgeog.2014.0_104https://doi.org/10.11518/hgeog.2014.0_1042022年2月6日閲覧 
  2. ^ 『台灣幸福百事:你想不到的第一次』[リンク切れ]陳柔縉、究竟、2011/03/29
  3. ^ a b 台北の歴史を歩く 天母の歴史を探る片倉佳史、台湾情報誌『交流』2013.3 No.864
  4. ^ 『大日本人物名鑑』〔巻4の2〕 ルーブル社出版部 編 (ルーブル社出版部, 1922)
  5. ^ 台湾天母soso百科

参考文献[編集]

  • 中谷赳夫『18001年 中治家の歩み 加都郷」』私家版

外部リンク[編集]