大垣丈夫

大垣 丈夫(おおがき たけお、文久元年12月19日1862年1月18日) - 昭和4年(1929年2月3日)は、明治期の志士アジア主義者大陸浪人ジャーナリスト。朝鮮で『大韓自強会(後の大韓協会)』など数々の排日団体を組織し、『大韓民報』を創刊して、日韓併合に反対した。号は金陵

経歴[編集]

加賀国(現・石川県金沢市)生まれ。

明治13年(1880年)に金沢第一師範学校を卒業後、東上して慶應義塾に入学。在学中に郷友の中橋徳五郎と交わり、野田卯太郎と共に早くより政治運動に奔走した。明治20年(1887年)に卒業後、尾崎行雄の知遇を得て奈良に入り、『大和新聞』の主筆となり、加賀の『石川日日新聞』主筆を経て明治32年(1899年)に東京に上り、『さくら新聞』を創刊した。

新聞経営が伊藤博文の目に留まり、以後は伊藤の側近として仕え、明治38年(1905年)に渡韓し、韓国統監府警務局の情報委員として統監府のパイプ役を務める。李完用の資金援助を受けて、尹致昊金嘉鎭呉世昌尹孝定呂炳鉉權東鎭李鍾一李宇榮沈宜性張志淵らと共に『大韓自強会(後の大韓協会)』等の排日団体を起こしてその顧問となり、自ら『大韓民報』を創刊して鮮人教導に務めた。他、「大東斯文会」や「儒道振興会」に参加。

内田良平が「一進会」を組織して、日韓合併運動を起こすと、大垣はこれに反対し、東洋の盟主が日本であることを前提とするアジア連帯論「日韓中三国同盟」を唱えて対抗した。のちに敗れて日韓併合が成立すると、感ずる所あって朝鮮を出て支那を漫遊する。しかし、大正元年(1912年)には朝鮮に戻り、同3年(1914年)に京城通信社の社長に就任。朝鮮の事情に通じた先覚者として活躍。

以来、京城府協議員、昭和2年(1927年)に道評議員となり、日本の統治下における内鮮融和に貢献した。69歳で京城で没した。

著書[編集]

参考文献[編集]

  • 黒龍会編『東亜先覚志士記伝』(黒龍会出版部、1933年-1936年)