大光寺合戦

大光寺合戦(だいこうじかっせん)は、1333年元弘3年/正慶2年)から1334年建武元年)にかけて行われた、鎌倉幕府滅亡に伴う津軽豪族による合戦。

沿革[編集]

正慶2年(元弘3年、1333年)5月、鎌倉が陥落し、鎌倉幕府の滅亡した。執権北条氏の一族の安達高景名越時如らは所領のあった秋田に逃げ、湊の城(現秋田県秋田市土崎港)に立て籠ったが、在地の諸将から朝敵として対峙されたため、やもなく御内人曾我道性を頼って11月に津軽の大光寺楯(現青森県平川市)に拠った。

これに対し、岩館曾我氏曾我光高や、田舎郡成田泰次工藤貞行らが朝廷方に付き、陸奧国司北畠顕家の命を受けた多田貞綱伊賀貞光南部師行らの援助を受け、元弘4年(改元により建武元年(1334年))1月にかけて攻撃し、大光寺側は敗れて石川楯(青森県弘前市)に逃げた。だが、顕家は各地の有力武士を津軽に派遣し、合戦が4、5月と続いたがついに落ち、敗残兵は相馬持寄城(青森県弘前市)に立て籠ったが、8月から9月にかけて大光寺側を撃滅し、11月に名越時如、安達高景も降伏した。

同年12月、降伏し津軽に留め置かれた者と、預かった者の名簿(『津軽降人交名注申状』(南部家文書))が作成されたが、それによれば曾我氏工藤氏小川(河)氏も、いずれも一族分裂して戦った。

この戦功で、岩館曽我氏は岩館と大光寺城を居城として勢力を拡げた。また、奥州工藤氏も鎌倉幕府滅亡に際して、幕府方と朝廷方に分裂し、多くは幕府方に付いたため所領を没収された者もいるが、そうした中で工藤貞行の朝廷方としての活躍はめざましかった。

参考文献[編集]

  • 浪岡町史編纂委員会『浪岡町史 第一巻』青森県南津軽郡浪岡町(現 青森市)、2000年3月15日。 
  • 松岡孝一『青森県百科事典』東奥日報社、1981年3月1日。 
  • 児玉幸多坪井清足日本城郭大系 第2巻 青森・岩手・秋田』新人物往来社、1980年7月15日。 

関連項目[編集]

  • - 日本語の「やり」という音の言葉は大光寺合戦で「矢利」が使用されたとあるのが初出である。