夏八木勲

なつやぎ いさお
夏八木 勲
本名 同じ
別名義 夏木 勲なつき いさお
生年月日 (1939-12-25) 1939年12月25日
没年月日 (2013-05-11) 2013年5月11日(73歳没)
出生地 日本の旗 東京府東京市足立区千住
死没地 日本の旗 神奈川県鎌倉市
身長 176センチメートル
血液型 A型
職業 俳優声優歌手
ジャンル 映画テレビ映画ドラマ
活動期間 1966年 - 2013年
配偶者 あり
主な作品
映画
牙狼之介シリーズ』『あゝ同期の桜
十一人の侍』『忍びの卍』『現代任侠史
子連れ殺人拳』『野性の証明
白昼の死角』『黄金の犬』『闇の狩人
戦国自衛隊』『希望の国
そして父になる』『永遠の0
テレビ映画
ザ★ゴリラ7』『燃える捜査網
影の軍団 幕末編』『鬼平犯科帳
ドラマ
鳩子の海』『真田太平記
織田信長 天下を取ったバカ
柳生十兵衛七番勝負シリーズ
富豪刑事シリーズ
海猿 UMIZARU EVOLUTION
 
受賞
日本アカデミー賞
その他の賞

毎日映画コンクール
男優主演賞 2012年希望の国


芸術選奨文部科学大臣賞
2013年 『希望の国』
高崎映画祭
最優秀主演男優賞 2013年『希望の国』
日本映画批評家大賞
ゴールデン・グローリー賞賞 2012年
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夏八木 勲 (なつやぎ いさお、1939年12月25日 - 2013年5月11日)は、日本俳優声優歌手。本名同じ。1978年から1984年の間は、夏木 勲(なつき いさお)名義で活動した[注釈 1]愛称なっちゃん[5][6]。・パパ[7][注釈 2]

1966年にデビューし、鍛え上げた身体で野性味あふれる男らしい演技や[8][9][10]、晩年は円熟味と重厚さが加わり[10][11]、生涯300本以上の映画テレビ映画ドラマに出演した[10][12][13][14]。特技は乗馬合気道空手[15]。身長176cm[16]

生涯[編集]

東京府東京市足立区千住出身[8][12]。実家は酒屋を経営[16]。学生時代はスポーツに打ち込み[17]柔道と空手で身体を鍛え上げる[16]東京都立墨田工業高等学校卒業後、1年間の浪人生活後[18]慶應義塾大学文学部仏文科に進学する。

これと言った目標を持たず暇を持て余していたところ、様子を見かねた知人から文学座のオーディションを勧められる[19]。大学在学中の1960年に文学座研究所へ入所[10][20][注釈 3]。しかしアルバイトばかりして演技の授業を時々サボっていたせいで、1年後正座員のメンバー選考から外れた[19]。改めて真剣に役者を目指そうと決意し[注釈 4]1963年劇団俳優座の養成所へ入所し直す[22]。同期には俳優座花の15期生と呼ばれるメンバーがいた。養成所に入ることを家族に反対されたため[16]、家を飛び出し、サンドイッチマンバーテン運転手などの仕事を転々とする[16]。その後1966年に3年の研修を経て卒業した[8][22](⇒ #人物)。

俳優座の卒業公演を見に来ていた東映から「年間5本で映画をやらないか」と誘われ[3]、1966年に東映と契約し[10]京都市に拠点を移した[注釈 5]。デビューは『骨までしゃぶる』で、加藤泰から体を張って娼婦を助ける大工の端役を貰った[16][25]

同年、『牙狼之介』の主演に抜擢されると[16][26][27][28]五社英雄に「狼之介になり切るまで、寝ても日本刀を離すな」と厳命され[16][25]、食事中も腰に刀を差し、柄(つか)に手をかけてマスメディアの取材に応じている[16]。野生的な賞金稼ぎを主人公にした同シリーズは西部劇タッチのアクション時代劇で[12][29]、刃引きはしてあるものの、重量は真剣と同じ鉄身で殺陣を披露している[29]。縛られたまま馬に引っ張られ、樹木から吊るされるなど、荒っぽいアクションが続く過酷な撮影だったが、歯を食いしばって耐え抜いた[16]。第二作『牙狼之介 地獄斬り』でも主演を果たし、「五社監督は僕の育ての親」と述べている[25]

1967年も『十一人の侍』『忍びの卍』と主演したが、『あゝ同期の桜』で千葉真一[5][9][30]、プライベートでは妻と出会う[14][17]。これ以降、親交を深めていく千葉とは特に共演が多く[5]、後年には千葉が主宰するジャパンアクションクラブ (JAC) の稽古にも参加していた[9][30](⇒ #人物)。

一方、15期生の仲間は小さな劇団を立ち上げ、活動しているのを耳にしても観劇できず、映画は封切りが1か月遅いため、京都の生活にジレンマを抱いていた[31]。加藤泰から「『懲役十八年』に出ないか?」と誘われたものの、フラストレーションが溜まり始めていた矢先だったために断り、1968年に東映を退社[31]。晩年に「新人といっても27歳のぼくを東映は売り出してくれ、加藤監督は直接オファーくれたのに…。本当に無礼だった」と悔恨の情を吐露している[31]。東京へ戻り、浪曼劇場に参加[3][10]。以降、アクション映画刑事ドラマ時代劇やくざ映画や『鳩子の海』に出演するなど[24]、様々なジャンルで幅広い役柄をこなした[15][24][30]

1977年の『人間の証明』で角川映画に初出演。同作のアメリカロケで角川春樹と親しくなり[19]、その後は1978年の『野性の証明』と主演映画『白昼の死角』、吹き替えなしで城の天守閣からヘリコプターで脱出するシーンを演じて周囲を驚かせた1979年の『戦国自衛隊』や[12][15][24]、『復活の日』等、角川映画の常連俳優として数多くの同社作品に出演した[20][24][30]キャンプ座間運転手アルバイトをした経験から[19]、『白昼の死角』と『復活の日』では堪能な英語で外国人俳優との共演シーンをこなしている。1979年の第2回日本アカデミー賞、翌年の第3回日本アカデミー賞では優秀助演男優賞にノミネート。1978年に出演した『遠くへ行きたい』では、ランニングしてトレーニングしながら初めて訪れた街を知り、スクーバダイビングを楽しむライフスタイルが紹介されている。

2012年の秋から膵癌を患い[23][24]、闘病生活を送りながらも家族や親友の千葉真一などを除き[5][13][30]、周囲には病気のことを隠して活動を続けた[10][13]化学療法を始め[30]、家族は看病をし、千葉も幾度となく見舞いに訪れ、病院の紹介や差し入れをしていた[5][13][30](⇒ #人物)。

2013年に『希望の国』で複数の賞を受賞したが、5月11日15時22分に神奈川県鎌倉市の自宅で家族が見守る中、死去した[15][23]。73歳没。新作の撮影を控えていた矢先だった[32]。千葉真一を筆頭に[5][11][13][30]、『希望の国』の監督・園子温[11]、俳優座で同期の赤座美代子[33]前田吟[8]、ファンだった片平なぎさ[33]、『そして父になる』で共演した福山雅治[33]、親しくしていた堀田眞三[7]、同世代の松方弘樹[23][34]、それぞれ弔意を表明。通夜・葬儀・告別式は近親者や千葉など限られた関係者のみで執り行われた[8][30]。未公開作品が5本残っており[32]、生涯現役を貫いた[10][17]

人物[編集]

俳優の基本は「健康な身体を保ち続ける」というポリシーを持ち、自らの鍛錬に熱心だった[9][12]。『水戸黄門 第5部』第25話「黄門爆殺計画・長崎」(1974年)や『戦国自衛隊』で鍛え上げた身体を披露しているが、その肉体美は世界的アクションスターの千葉真一にも引けをとらないと評されている[5][9][10]。千葉とはお互いに「演技に必要なのは健全な肉体である」という考えで意気投合したことから親友となり[19]、千葉が主宰するジャパンアクションクラブ (JAC) の稽古にも通っていた[9][30]。千葉との擬斗では『子連れ殺人拳』や『影の軍団 幕末編』などで、壮絶な一騎討ちを演じている。

静かで無口で新鮮で好きなタイプの俳優だった。いろんなことを教わったが、僕が“世界の千葉”と呼ばれるようになったのは、なっちゃんのおかげともいえる。人生に親友は3人いると言うけど、僕の場合は高倉健さんとなっちゃんかな。人を傷つけない、思いやりのある理想的で素晴らしい人だった。[5]
「監督からどんな要求をされても、それに応え、肉体で表現するのが役者だ」という価値観が一緒だった。御殿場市で行われた1年にも及ぶ『戦国自衛隊』のロケでは、出演者が皆バスで10km離れた宿へ戻ったが、我々二人だけはロケ現場から毎日走って帰った[13]。彼は足腰が強く、過酷なロケも平気だった。JACにも出稽古にきて、一緒に汗を流しました。僕のやってるトレーニングをいちいち「これはどうやるんだ?」と聞いてきて、懸命に鍛えていましたよ。[30]

と千葉は振り返り、夏八木は、

新人で京都にきたばかりで挨拶の仕方も知らなく、そんな僕を千葉ちゃんがいろいろと面倒みてくれた。「何も知らない奴だから、あまりいじめないでくれよ」と周囲に言ってくれたんです。お陰で見知らぬ京都でかなり過ごしやすくなったので、本当に感謝しています。千葉ちゃんのそういう性格はもちろんだけど、あそこまで自分の肉体を意のままに操れるよう鍛えていたことに、僕はビックリしてね。千葉ちゃんから「JACでアクションの練習をしているから、なっちゃんも暇があったら来てみない?」って誘われたので、時間がある時は練習場に行って、紛れて一緒に鍛えたりしていました。[9]

と回想している。千葉と夏八木を知る関係者も、

夏八木さんの口からは、千葉さんを絶賛する言葉しか聞いたことがない。千葉さんも夏八木さんを『僕の人生の中で最高の俳優』と認めていて、事あるごとに仕事に誘っていた。互いによき理解者で、尊敬し合えるかけがえのない友だった。[5]

と二人の友情を証言している。夏八木からを告白された千葉は、関西の名医に夏八木を連れて行く[5]、身体に良い水を差し入れし[13]、頻繁に自宅を訪ねて励ましていたが[5]、すごく苦しそうだったという[30]

デビュー時は金欠だったので、東映京都撮影所経理部給与の前借りを頼むが、もじゃもじゃの頭髪により、山猿を彷彿させる風貌だったので、応対した職員を驚かせてしまう[16]身分証明書の提示を求められたものの、「将来の大物」と期待する岡田茂 (東映) の決済で受け取ることができた[16]

角川春樹は「私が仮出所して内輪のパーティを開いたときに、受付に座って殺到するマスコミの防波堤になってくれた」と、その気遣いと侠気ぶりに深く感謝している[20]俳優座花の15期生の同期、小野武彦高橋長英地井武男前田吟村井國夫竜崎勝と共に俳優事務所「どりいみい7」を結成した[注釈 6]。その後「どりいみい7」は解散したものの、食事会を開いたり、互いの演劇を鑑賞しあったりと交流していた。

京都府在住時に出会った妻はハーフ[14][20]、夏八木が29歳の時に結婚[17]、2人の娘をもうける[17][20]。家庭で全く仕事の話をしないので、家族は作品になって初めて知った[17]。長く居住していた鎌倉市を深く愛し、深緑色の洋風住宅を構えていた[32]2003年にバス路線整備の話が持ち上がった際には、閑静な住宅街の雰囲気を守るため、住民を集めて反対を訴えている[32]2012年にはご当地ナンバーの推進運動に参加し、癌を発病した後も続けていた[37]。『希望の国』の撮影地である埼玉県深谷市まで鎌倉から2時間以上かけて電車通勤するなど、仕事も私生活も信念を曲げなかった[32]

山田洋次役者としての才能を評価し、『男はつらいよシリーズ』に寅さんのライバル役で出演を打診したが、叶わなかった[19]

受賞[編集]

出演[編集]

※は夏木 勲名義

映画[編集]

テレビ[編集]

テレビ映画[編集]

ドラマ[編集]

吹き替え[編集]

アニメ[編集]

舞台[編集]

CM[編集]

ディスコグラフィ[編集]

発売日 規格 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
センチュリーレコード
1984年10月5日 EP 7AC0032 A 盛り場二人づれ[注釈 7] 池田充男 野崎真一 竹村次郎
B 夜の駅(ステーション)[注釈 7]

書籍[編集]

  • 春日太一「演じるほかに、道はなかった」『役者は一日にしてならず』(初版第一刷)小学館、2015年2月28日。ISBN 4093798699OCLC 905172825 

参考文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 浦崎浩實は「角川春樹の勧めで映画『野性の証明』から芸名を改名した」とコラムで紹介しているが[1]、角川は「『夏八木という名字はめでたすぎる』と主張する僧侶の意見を取り入れて夏木 勲に改名させたのは失敗だった」と反省している[2]。しかし夏八木本人は角川証言を否定し、親しくしていた僧侶に「これから良くない時期にぶち当たるから、一定期間名前を変えたほうがよい」と改名を勧められたものと述べている[3][4]
  2. ^ 俳優座花の15期生の同期・村井國夫が、アーネスト・ヘミングウェイの愛称に因んで名付けた。出演した『ザ★ゴリラ7』でも役柄の愛称が“パパ”となっている。
  3. ^ 同期に黒柳徹子江守徹らがいた[21]
  4. ^ 週刊朝日1997年8月15・22日号のインタビューで、「むくむくっと負けん気が頭をもたげた。冗談じゃない。1年ばかりでそんな選別をするのか」と語っている[19]
  5. ^ 慶応大学在学中だったが[16]、最終的には中退した[23][24]
  6. ^ 「仲間と集まる機会を持つべく『どりいみい7』を結成」としており[35]、略年譜では東映退社後「以後、生涯事務所に所属せずフリーで活動」と書かれている[36]
  7. ^ a b 八代亜紀とのデュエット。

出典[編集]

  1. ^ 浦崎浩實. “様々な存在感を見せてくれた女優・男優たち 夏八木勲”. 追悼特集 日本映画のススメ vol.12 2013年上半期に亡くなられた映画人たち. 特集1 コラム「2013年上半期、逝きし映画人」. KINENOTE. 2013年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月24日閲覧。
  2. ^ (語る 人生の贈りもの)角川春樹:10 次はビデオの時代、発想切り替え」『朝日新聞』、2020年10月14日。
  3. ^ a b c 「新・あの人はいつも映画の中に / 夏八木勲インタビュー」『キネマ旬報』 2012年11月上旬号、92 – 97頁。
  4. ^ 「昭和の怪物研究 その114」『週刊現代』2021年5月1・8日合併号、38頁。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 千葉真一 夏八木勲さんへの思い語る」『東京スポーツ』、2013年5月14日。2013年5月21日閲覧。オリジナルの2013年5月21日時点におけるアーカイブ。
  6. ^ 春日太一 (2013年7月2日). “見果てぬ夢を取り戻す!夏八木、千葉、熱い友情”. 週刊文春WEB. 春日太一の木曜邦画劇場. 文藝春秋. 2013年7月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月6日閲覧。
  7. ^ a b 堀田眞三 (2014年4月5日). “蟹江敬三氏 訃報”. 我が俳優人生 ここに記す 堀田眞三. アメーバブログ. サイバーエージェント. 2014年12月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年12月11日閲覧。
  8. ^ a b c d e 俳優の夏八木勲さん死去」『NHKニュース』NHK NEWSweb、2013年5月12日。2013年5月13日閲覧。オリジナルの2013年5月12日時点におけるアーカイブ。
  9. ^ a b c d e f g 春日太一 (2013年4月29日). “世界的アクションスター・千葉真一に劣らぬ夏八木勲の筋肉美”. NEWSポストセブン. 週刊ポスト. 小学館. 2013年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月13日閲覧。
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  13. ^ a b c d e f g 千葉真一、50年来の友の死に「何でだよ!」…夏八木勲さん死去」『スポーツ報知報知新聞社、2013年5月13日。2013年5月13日閲覧。オリジナルの2013年5月13日時点におけるアーカイブ。
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  17. ^ a b c d e f 春日太一 (2013年5月16日). “夏八木勲さん 仕事第一の生き方貫いてがんの手術を拒否した”. NEWSポストセブン. 女性セブン. 小学館. 2013年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月9日閲覧。
  18. ^ 猪俣勝人、田山力哉『日本映画俳優全史: 現代編』p.237
  19. ^ a b c d e f g 「昭和の怪物」研究その114・夏八木勲「病気を隠し、最後まで演じ続けた」 週刊現代2021年5月1日、5月8日号、33 - 40頁。
  20. ^ a b c d e 名脇役「夏八木勲」が“主役”だった「角川春樹」秘話”. Book Cafe 矢来町ぐるり. 週刊新潮. 新潮社 (2013年5月23日). 2014年7月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月16日閲覧。
  21. ^ 2009年6月9日に放送された『徹子の部屋』へ出演した時の発言[出典無効]
  22. ^ a b 春日太一 (2013年4月11日). “夏八木勲 俳優座「花の十五期生」として三年間で気づいたこと”. NEWSポストセブン. 週刊ポスト. 小学館. 2013年5月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年5月13日閲覧。
  23. ^ a b c d 夏八木勲さんが死去、名脇役として活躍」『サンケイスポーツSANSPO.COM、2013年5月12日。2013年5月13日閲覧。オリジナルの2013年5月13日時点におけるアーカイブ。
  24. ^ a b c d e f 「白昼の死角」俳優・夏八木勲さんが死去」『読売新聞YOMIURI ONLINE、2013年5月12日。2013年5月13日閲覧。オリジナルの2013年5月12日時点におけるアーカイブ。
  25. ^ a b c “私のデビュー 夏木勲”. 読売新聞 (読売新聞社): p. 27. (1981年10月4日) 
  26. ^ “〈娯楽〉東映時代劇はこれで行く 新たに三路線を敷き"魅力ある作品"で巻き返し”. 読売新聞夕刊 (読売新聞社): p. 12. (1966年10月27日) 
  27. ^ 『鬼才 五社英雄の生涯』文藝春秋文春新書〉、2016年8月、83 - 86頁。ISBN 978-4-16-661087-7 
  28. ^ 春日太一責任編集 編『[総特集]五社英雄 極彩色のエンターテイナー』河出書房新社〈文藝別冊〉、2014年11月、55 - 57頁。ISBN 9784309978512 
  29. ^ a b 春日太一 (2013年5月13日). “夏八木勲さん 五社監督と「刀を当てる」殺陣の流儀を貫いた”. NEWSポストセブン. 週刊ポスト. 小学館. 2013年7月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月14日閲覧。
  30. ^ a b c d e f g h i j k l 夏八木勲「親友・千葉真一が明かした骨太“名脇役人生”」”. アサ芸+. エンタメ. 徳間書店 (2013年5月29日). 2013年6月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年7月1日閲覧。
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  36. ^ 「昭和の怪物研究 その114」『週刊現代』2021年5月1・8日合併号、37頁。
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外部リンク[編集]