土佐物語

土佐物語』(とさものがたり)は、土佐国戦国大名長宗我部氏の興亡を描いた軍記物。作者は吉田孝世宝永5年(1708年)成立。

概要[編集]

平家物語』や『太平記』を「中央の軍記物」とすれば、『土佐物語』は「地方の軍記物」に位置付けられる[1]。原本は存在せず、「和学講談所本」(和学本・全20巻、享保5年写)、「森文庫本」(森写本・全13巻、寛政9年写)、「山内文庫本」(山内本・全21巻、文政2年写)、「恩田稿本」(恩田本・全20巻、嘉永2年写)、「内務省本」(内務本・全30巻、明治9年写)、修史館本(修史本・全20巻、明治15年写)の6種の写本が存在する[1]

本文中には、大といった怪異が登場したり[2]文禄の役においては大蛇が現れるなど、史実とは別に脚色も見られる。また、巻第19「元親卒去 雪蹊寺の事」には、慶長4年(1599年)に長宗我部元親正四位になったと記されているが、史実では死後に正五位を与えられたものであり[3]、誤りも含まれる。終盤(巻第20)では、長宗我部盛親に代わって土佐藩主となった山内一豊についての事績や武功、逸話(戦場で得た名槍)などについても記されている。

大坂の陣における見方・批評としては、藤堂和泉守と盛親が対陣し、井伊掃部頭木村長門守と対陣していたが、長門守が突然討死し、掃部頭が高虎と合流したため、盛親は討ち負けしてしまい、「大阪の落城は盛親に始まる」「大阪の負け軍(いくさ)は盛親第一なり」として、敗北の遠因を長宗我部氏に求めている。

土佐国古城伝承記』を基に記された経緯があり、各所に文飾が多くみられることから近世の学者である谷秦山から内容に信頼性を疑われており、現代の研究者の間でも歴史資料としての評価は高くないとされる[4]

一領具足の記述について[編集]

『土佐物語』より信頼性が高い軍記物の『長元記[4]にも「一領(両)具足」の記述は見られるが、「土佐の一領具足と申は、他家の馬廻と同事也」とあり、『土佐物語』のように一領具足を土佐独自の存在としては扱っていない。そのため、『土佐物語』が説明するように「一領しか鎧を有さないため」に「一領具足」といわれたか、由来の信頼性が確かでない。また、こうした二次資料(後世の軍記物)では「一領具足」の表記は見られるものの、『長宗我部氏掟書』(分国法)には見られず、資料が少なく、一領具足を記した一次資料として、「慶長5年(1600年)12月3日付 宇賀二兵衛宛 長宗我部氏重臣連署状写」(浦戸一揆に関するもの)があるぐらいで、一領具足が認識されていたことはわかるが、一領具足の由来が本当に「一領しか鎧がないため」だったかの証明には至らない[4]

平井上総は近世に土佐藩山内氏)が郷士を登用するにあたって、条件として、武士の家系でならなければならないと定めたことから、長宗我部氏の遺臣達は郷士になるために、先祖の名声を強調しようとしたと想定し、『土佐物語』の一領具足の説明は、郷士達の願望や要望が反映された可能性が捨てきれないとする[4]。そして他資料比較から、「鎧一領しか持たない武士」ではなく、「鎧一領分の軍役を負担する武士」としてついた呼称と見るべきものとしている[4]

脚注[編集]

  1. ^ a b 岩原(1997)p.4
  2. ^ 巻第十六、7(2メートル)の鬼で女房に化けていた。なお同じく近世軍記物である『北条五代記』にも6、7尺の鬼が登場するが、こちらは地獄の鬼で、生者には害がないと自ら語っている(亡者の女性を連れて行くのみ)。
  3. ^ 岩原(1997)脚注より
  4. ^ a b c d e 平井上総「一領具足考」『花園史学』第36号、花園大学史学会、2015年11月。 

参考文献[編集]

  • 国史叢書. 土佐物語一』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 国史叢書. 土佐物語二 四国軍記』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 国史叢書. 〔第4-5〕 / 国史研究会. 国史研究会, 1914-1920.
  • 武辺土佐物語 / 田岡典夫. 大日本雄弁会講談社, 昭和17
  • 新土佐物語 / 朝日新聞社高知支局. 高知市〔ほか, 1955. (郷土叢書 ; 第10集).
  • 土佐物語 / 朝日新聞高知支局. 金高堂書店, 1974.
  • 土佐物語 / 吉田孝世. 川野光子〔ほか, 1975.
  • 土佐物語. 上巻 / 吉田次郎左衛門孝世. 川野喜代恵, 1976.
  • 土佐物語. 下巻 / 吉田次郎左衛門孝世. 川野喜代恵, 1978.6.
  • 土佐物語 / 岩原信守校注. 明石書店, 1997.

関連項目[編集]