呉克忠
呉 克忠(ご こくちゅう、生年不詳 - 1449年)は、明代の軍人。もとの名は答蘭。モンゴルの出身。
生涯[編集]
呉允誠の子として生まれた。1405年(永楽3年)、父に従って明に帰順した。1410年(永楽8年)と1414年(永楽12年)には、父に従って永楽帝の第一次・第二次漠北遠征に参加した。のちに名を克忠と改めた。1418年(永楽16年)2月、恭順伯の爵位を嗣いだ。1423年(永楽21年)と1424年(永楽22年)には、永楽帝の第四次・第五次漠北遠征に参加して、北元のアルクタイの軍と戦い、弟たちとともに功績を挙げた。1425年(洪熙元年)、貞順恵妃が宣徳帝の後宮に入内したことから、克忠は外戚として恭順侯に爵位を進められた。1430年(宣徳5年)2月、薛禄が総兵官となると、克忠はその下で副総兵をつとめた[1]。1444年(正統9年)、兵を率いて喜峰口に進出し、ウリャンカイを討って功績を挙げ、太子太保の位を加えられた。
1449年(正統14年)8月、土木の変が起こると、克忠はその弟の都督呉克勤や子の呉瑾とともに殿軍をつとめた。オイラト兵に山上から矢石を雨と浴びせられ、克忠は馬を下りて応射したものの矢が尽き、呉克勤とともに陣没した。邠国公の位を追贈された。諡は忠勇。
子の呉瑾が恭順侯の爵位を嗣いだ。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 『明史』巻156 列伝第44