千代田形

千代田形
横須賀に停泊中の千代田形(明治初期)[1]
横須賀に停泊中の千代田形(明治初期)[1]
基本情報
建造所 石川島造船所[2]
運用者 江戸幕府海軍
 大日本帝国海軍
艦種 砲艦[3][4]
艦歴
起工 文久2年(1862年)5月7日[5]
進水 文久3年(1863年)7月2日
竣工 慶応2年(1866年)5月[5]
除籍 1888年1月28日[5]
要目
排水量 138英トン[3][6]
トン数 158トン[2][4]
長さ 97フィート (29.57 m)[3]
または172[6](約31.52m)
または16間1尺[2](約29.40m)
全長 31.3m[要出典]
または97尺[4](約29.4m)
垂線間長 97フィート4インチ (29.67 m)[7]
16フィート (4.88 m)[3]
または2間半[6][4](約4.54m)
または2間4尺[2](約4.85m)
吃水 平均:6フィート8インチ (2.03 m)[3]
または前部:5尺4[8](約1.64m)、後部:7尺1寸[8](約2.15m)
あるいは5尺4[4](約1.6m)
ボイラー 製低円缶 3基[2]
主機 2気筒横置歯車増速式機関[2] 1基[7]
推進 青銅製2翼スクリュー 1軸[2]
回転数:67rpm[2]
直径:5 ft 6 in (1.68 m)[2]
ピッチ:5 ft 8 in (1.73 m)[2]
出力 推定[2]:60馬力 (45 kW)[3][6](IHP[7])[注釈 1]
帆装 2檣・トップスル・スクーナー[7]
または2ブリッグ[4]
面積:1,832平方フィート (170.2 m2)[9]
速力 5ノット[2]
燃料 石炭:32,000(19.5トン)[2]
航続距離 432海里 (800 km)[2]
燃料消費量:8,000斤/日[8][4]
乗員 35名[要出典]
慶応4年1月定員:50名[10]
明治2年:39人[4]
兵装 150mm砲 1門、ボートホイッスル筒(小型榴弾砲) 2門[要出典]
または12ポンド・クルップ砲 1門、6ポンド青銅カノン砲 2門[8]
または30ポンド砲 1門、ホウイツアー砲 2門[7]
その他 船材:[6][4]
テンプレートを表示

千代田形(ちよだがた)は幕府海軍の、後に日本海軍軍艦千代田江戸城の別称で、がつくのは同型艦が予定されていたため[6]

概要[編集]

幕府軍艦としては初の国産蒸気砲艦で、薩摩藩の「雲行丸」、佐賀藩の「凌風丸」に続く3番目の日本国内で建造された蒸気船[1]。江戸湾・大坂湾防御のため量産化が計画されていたため千代田「形」と名付けられたが、結局2番艦以降が建造されることはなかった。

艦歴[編集]

建造[編集]

「千代田形」の建造は小野友五郎の小型砲艦による江戸湾警備計画に端を発するもので、文久元年1月に建造命令が出され、小野友五郎、春山弁蔵などが船体設計を行い、建造は石川島、機関製造は長崎製鉄所で行うこととされた[11]。「千代田形」は文久2年5月に起工され、慶応2年5月に完成した[11]。ボイラー製造は文久2年7月に佐賀藩に変更され、三重津浜の造船所で製造された[12]。ボイラー製造を行ったのは田中久重父子であった[13]

戊辰戦争[編集]

慶応4年/明治元年(1868年)4月11日、江戸開城にともない幕府海軍の艦船は新政府軍への譲渡が約束されていたが、海軍副総裁榎本武揚がこれを拒否したため、「千代田形」も旧幕府艦隊として館山に向かうが、閏4月13日、軍艦取扱方・勝海舟が館山に行き、榎本と談判の結果、旧幕府艦隊は品川に帰還した。5月29日、「千代田形」は「 長崎丸」「太江丸」と共に館山に到着。旧幕府脱走兵らを収容して奥州へ運送。8月19日、榎本率いる旧幕府軍艦隊の一艦として品川沖を脱出し、9月20日の仙台到着後、「長崎丸」と共に庄内藩の援護に向かう。しかし、庄内藩は既に新政府に降伏していたため、飛島に停泊するが、風雨で「長崎丸」が座礁し、「千代田形」一隻では人員を輸送できず、飛島に閉じ込められる。庄内藩からは降伏勧告が出されるが、拒否。11月になり旧幕府軍がチャーターしていたフランス船が飛島沖を通りかかり、同船に人員を載せることで、11月11日、ようやく蝦夷地箱館港に入港。

明治2年(1869年)3月25日の宮古湾海戦では箱館に待機していた。4月9日に新政府軍の上陸が開始され、「千代田形」は4月24日、箱館に接近する新政府艦隊に応戦した。4月29日夜中、「千代田形」は箱館港で暗礁に乗り上げ座礁。乗員は大砲の火門に釘を打つ、機関の破壊などの工作をして全員脱出したが、これは艦長・森本弘策の判断ミスであり、この後に潮が満ちてきて離礁してしまった。翌日、漂流中の「千代田形」は新政府軍によって発見・拿捕される(この件によって森本は一兵卒に格下げされた)。

日本海軍[編集]

明治2年(1869年)5月、艦籍を政府軍に移す。艦名「千代田形(艦)」。一時久留米藩に預けられたが、7月20日に久留米藩から返還され、兵部省所管となった[5]

明治3年2月24日(1870年3月25日)、海軍操練所(後の海軍兵学寮、海軍兵学校)に引き渡され[14]練習艦として使用された。同年7月(8月頃)に普仏戦争が勃発し、中立を守るために各港に小艦隊が派遣されたが[15]、「第二丁卯」「千代田形」は品川に留まり、同地の警備を行った[16]。翌明治4年3月7日(1871年4月26日)に警備は解かれた[17]

同年9月28日(11月10日)、「千代田形」と「日進」は艦隊に編入された[18]。11月15日(12月26日)、7等艦に定められた[5]

明治5年9月29日(1872年10月31日)、造船局所轄となった[19]

1873年(明治6年)2月2日、主船寮所轄から提督府所轄になったが[20]、3月13日に主船寮所轄に戻された[21]

1875年(明治8年)11月13日、常備艦とされた[22]

1877年(明治10年)1月24日、行幸出発に際し、「」「鳳翔」「孟春」「千代田形」の4隻で小艦隊を編成して金田湾まで見送り、帰途は蒸気機関運転での艦隊運動訓練を行った[23]

1878年(明治11年)1月6日に横浜港から横須賀に回航[24]。1月26日、6等艦に定められ[5]、『海軍省報告書』によると定員は44人に改正された[25]。なお『海軍省布達』によると同日付で定員38人となっている[26]。また『海軍省報告書』『海軍省布達』によると3月22日付で艦位6等とされている[27][28]。2月17日に横浜に回航された[24]

5月11日(または5月13日[24])、東海鎮守府所轄の練習艦とされた[29][30]。5月27日、横須賀に回航[24]。7月9日、水雷火御用のために横浜に回航され、翌10日横須賀に戻った[24]

11月26日、12月4日、12月11日は演習参加の為に横須賀を出港、同日横須賀に帰港した[24]。12月17日、艦隊運動訓練のために横須賀を出港、同日横浜港に入港した[24]。翌18日も艦隊運動訓練のために横浜出港、同日横浜着[24]。12月19日も艦隊運動訓練のために横浜を出港し、同日横須賀に帰港した[24]

1879年(明治12年)1月15日に練習のために横須賀発、同日横須賀着[31]。同様に練習で1月22日、1月29日、3月5日、2月12日、2月26日、3月12日、4月2日に横須賀を発着した[31]。4月23日は「扶桑」の大砲試験が行われ、その弾着を見るために千代田形は横須賀を発着した[31]。5月2日、7月2日と練習のために横須賀を発着した[31]

8月27日、コレラ流行のために横須賀から品海に回航、コレラが収まったため10月9日横須賀に戻った[31]。12月9日機関の試運転の為に横須賀を発着した[31]

1880年(明治13年)1月20日、東海鎮守府所轄の繋泊練習艦とされた[32]。3月15日、練習の為に横須賀を出港し、同日品川着、17日品川発、同日横須賀に戻った[31]。4月1日に横須賀造船所で修理を開始した[33]1881年(明治14年)6月14日、練習の為に一旦横須賀から品川へ回艦、6月19日横須賀に戻った[34]

1882年(明治15年)5月12日に修理が完了した[35]。12月31日現在で東海鎮守府所轄の繋泊練習艦となっていた[36]

1883年(明治16年)2月23日修理について裁可[37]、2月26日に横須賀造船所で修理を開始した[38]。同年12月31日現在で東海鎮守府所轄の繋泊練習艦となっていた[39]

除籍[編集]

1888年(明治21年)1月28日除籍[6]。除籍後は千葉県に交付され[6]、日本水産会社に貸与され「千代田丸」となった[5]。その後の消息は不明であるが、1911年(明治44年)に解体されたという[7]

艦長[編集]

日本海軍
  • (艦長代)三上三郎:明治2年7月20日[40] - 明治2年11月10日[41]
  • (艦長代)石川武直(尚一郎):明治2年11月10日[41] -
  • 磯辺包義 大尉:明治4年6月19日(1871年8月5日)[42] - 明治4年7月23日(1871年9月7日)[43]
  • 原俊則 大尉:1874年2月24日[44] - 1878年6月3日[45]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #M1-M9海軍省報告書画像11-12、明治二年己巳艦船総数表によると名馬力で60。

出典[編集]

  1. ^ a b #日本海軍全艦艇史p.490、No.1235の写真解説。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n #帝国海軍機関史(1975)別冊表2
  3. ^ a b c d e f #近世造船史明治(1973)p.172
  4. ^ a b c d e f g h i #M1-M9海軍省報告書画像11-12、明治二年己巳艦船総数表
  5. ^ a b c d e f g 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.10千代田形(初代)
  6. ^ a b c d e f g h #艦船名考(1928)pp.18-19、千代田(千代田形)ちよだ(ちよだがた)Tiyoda(Tiyodagata).
  7. ^ a b c d e f #元綱(2004)p.121
  8. ^ a b c d #帝国海軍機関史(1975)上巻pp.445-446(第2巻pp.119-120)
  9. ^ #近世造船史明治(1973)p.293
  10. ^ #帝国海軍機関史(1975)上巻pp.201-202人、乗員定員表。
    • 船将(代一等)1人
    • 軍艦役竝勤方二等2人
    • 医師2人
    • 軍艦役竝勤方三等1人
    • 下役2人
    • 当分出役2人(以上士官)
    • 水夫小頭・火焚小頭3人
    • 平水夫・平火焚35人
    • 大工1人
    • 鍛冶1人。
  11. ^ a b 「内輪式蒸気船「先登丸」について」54ページ
  12. ^ 「内輪式蒸気船「先登丸」について」55-56ページ
  13. ^ 「汽罐抄譚(その8)」32-33ページ
  14. ^ #M3公文類纂8/千代田形艦引渡日限の件海軍用所へ達画像1
  15. ^ #海軍制度沿革4-1(1971)p.7、明治3年7月28日(太政官)。
  16. ^ #M1-M9海軍省報告書画像13、明治3年7月。
  17. ^ #海軍制度沿革8(1971)p.33、明治4年3月7日(御沙汰)諸港守備ノ軍艦ヲ解クノ件「兵部省 諸港守衛トシテ出張之軍艦解備被仰付候間帰艦之儀其省ヨリ可相達候事」
  18. ^ #M1-M9海軍省報告書画像19-20、明治4年9月。
  19. ^ #M1-M9海軍省報告書画像31-32、明治5年9月。
  20. ^ #M1-M9海軍省報告書画像37-38、明治6年2月。
  21. ^ #M1-M9海軍省報告書画像38-39、明治6年3月。
  22. ^ #M1-M9海軍省報告書画像70-72、明治8年11月。
  23. ^ #M9.7-M10.6海軍省報告書/沿革画像17-20、明治10年1月
  24. ^ a b c d e f g h i #M11.7-M12.6海軍省報告書画像44、千代田形艦航泊表
  25. ^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像19-22、明治11年1月沿革
  26. ^ #M11布達/1月画像12-13、明治11年1月26日丙第19号
  27. ^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像26-28、明治11年3月沿革
  28. ^ #M11布達/3月画像8、明治11年3月22日丙第46号
  29. ^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像31-34、明治11年5月沿革
  30. ^ #M11布達/5月画像4-5、明治11年5月11日丙第70号
  31. ^ a b c d e f g #M12.7-M13.6海軍省報告書画像34-35(pp.59-61)、航泊表千代田形
  32. ^ #M12.7-M13.6海軍省報告書画像16-17、艦船所轄並在任附改称及等級
  33. ^ #M13.7-M14.6海軍省報告書画像19-20、海軍艦船修復
  34. ^ #M13.7-M14.6海軍省報告書画像33-34、艦船航泊表、千代田形艦
  35. ^ #M14.7-M15.6海軍省報告書画像21-23、部内艦船修復
  36. ^ #M15.7-12海軍省報告書画像15-16、艦船所轄在任表 十五年十二月三十一日調
  37. ^ #M16海軍省報告書画像26、艦船備考。「千代田形艦修復向点検ヲ遂ケ主船局ヨリ報告ノ末裁決ス」
  38. ^ #M16海軍省報告書画像21、艦船修理
  39. ^ #M16海軍省報告書画像19、艦船所轄在任、明治16年12月31日調
  40. ^ #M1-M9海軍省報告書画像9-10、明治二年己巳 軍務官 兵部省、7月。
  41. ^ a b #M1-M9海軍省報告書画像10-11、明治二年己巳 軍務官 兵部省、11月。
  42. ^ #M1-M9海軍省報告書画像17-18、明治4年6月。
  43. ^ 『日本海軍史』第9巻、第一法規出版、1995年、665頁。
  44. ^ #M1-M9海軍省報告書画像49-51、明治7年2月。
  45. ^ #M10.7-M11.6海軍省報告書画像34-37、明治11年6月沿革

参考文献[編集]

  • アジア歴史資料センター(公式)
    • 国立公文書館
      • 『記録材料・海軍省報告書第一』。Ref.A07062089000。  明治元年から明治9年6月。
      • 『記録材料・海軍省報告書/第一 沿革』。Ref.A07062089300。  明治9年7月から明治10年6月。
      • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091300。  明治10年7月から明治11年6月。
      • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091500。  明治11年7月から明治12年6月。
      • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091700。  明治12年7月から明治13年6月。
      • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062091900。  明治13年7月から明治14年6月。
      • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092100。  明治14年7月から明治15年6月。
      • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092300。  明治15年7月から12月。
      • 『記録材料・海軍省報告書』。Ref.A07062092500。  明治16年1月から12月。
    • 防衛省防衛研究所
      • 『公文類纂 明治3年 巻8 本省公文 艦船部/諸達並雑記内 2月 千代田形艦引渡日限の件海軍用所へ達』。Ref.C09090105000。 
      • 「1月」『明治11年 海軍省布達全書』、Ref.C12070003700。 
      • 「3月」『明治11年 海軍省布達全書』、Ref.C12070003900。 
      • 「5月」『明治11年 海軍省布達全書』、Ref.C12070004100。 
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻四の1』 明治百年史叢書 第175巻、原書房、1971年11月(原著1939年)。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。 
  • 石井勉『徳川艦隊北走記』學藝書林、1977年。
  • 斎藤勇「汽罐抄譚(その8)」『ボイラ研究』第149号、日本ボイラ協会、1975年2月、29-33頁、CRID 1521699230171074816doi:10.11501/3287424ISSN 03870162NDLJP:3287424 
  • 杉山謙二郎「内輪式蒸気船「先登丸」について : 安政末・文久期徳川幕府の造船政策と関連して(明治の企業家 杉山徳三郎の研究)」『千葉商大論叢』第40巻第3号、千葉商科大学国府台学会、2002年12月、41-77頁、ISSN 03854558CRID 1050845764109262976 
  • 造船協会/編『日本近世造船史 明治時代』 明治百年史叢書 第205巻、原書房、1973年(原著1911年)。 
  • 日本舶用機関史編集委員会/編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 元綱数道『幕末の蒸気船物語』成山堂書店、2004年4月。ISBN 4-425-30251-6 

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

軍艦の部屋