北条義時

 
北条 義時
承久記絵巻 巻第2
時代 平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕 長寛元年(1163年
死没 元仁元年6月13日1224年7月1日
改名 義時、観海[1]
別名 江間四郎、江間平朝臣小四郎義時、江馬小四郎[2]、相州、右京兆、奥州
墓所 静岡県伊豆の国市南江間 北條寺
神奈川県鎌倉市頼朝法華堂の東の山
官位 相模従四位下右京権大夫陸奥守
幕府 鎌倉幕府十三人の合議制
第2代執権1205年 - 1224年
主君 源頼朝頼家実朝藤原頼経
氏族 北条氏(称桓武平氏
父母 父:北条時政、母:伊東入道の娘
兄弟 宗時政子義時時房政範阿波局時子稲毛女房
正室:姫の前
継室:伊賀の方
側室:阿波局[注釈 1]伊佐朝政の娘、他
泰時朝時重時有時政村実泰時尚時経竹殿一条実雅室(後に唐橋通時室) 他
花押 北条義時の花押
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北条 義時(ほうじょう よしとき、長寛元年(1163年) - 元仁元年(1224年))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将鎌倉幕府の第2代執権伊豆国の在地豪族北条時政の次男。北条政子の弟。得宗家2代当主。

建保7年(1219年)に鎌倉幕府の源氏将軍が断絶した後、幕府の実質的な指導者となる。幕府と朝廷の対立が激化し、後鳥羽上皇より義時追討の宣旨が全国に発布されると朝敵となるが、幕府軍は京都に攻め上り朝廷を制圧。後鳥羽を含む3人の上皇(太上天皇)を配流し、践祚していた後鳥羽の孫の懐成親王(九条廃帝。明治時代に仲恭天皇)を廃した(承久の乱)。

名称

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元服後に仮名として「北条小四郎」と称した[6]。「四郎」は『吾妻鏡』にある父北条時政の仮名と同じである[6][7]江間(現在の伊豆の国市)に移住した後は「江間四郎」と称し、『吾妻鏡』では任官前の3分の2は「江間殿」などの「江間」の名字で呼ばれている[6]。「義時」の名乗りについては、母方の縁者[注釈 2]である三浦氏の通字である「義」が用いられていることから三浦氏嫡流(三浦義明もしくは義澄)を烏帽子親として元服し、偏諱を与えられた可能性が指摘されている[8]。任官後は「相州」「右京兆」「奥州」などの官名で称されている[9]。また『吾妻鏡』文治元年(1185年)十月二四日条の勝長寿院落慶法要記事では「北条小四郎義時」という表記も見られる[10]。ただし「北条小四郎」の呼称は当時の史料に基づくものだろうが、「江間殿」は鎌倉後期の『吾妻鏡』編纂時にすでに覇権を確立していた北条氏の祖の呼称として工夫したものだろうとの見解もある。源頼朝の生前には無位無官だった義時は官位を有する御家人[注釈 3]より序列が下であり、通称である「北条小四郎」の名が官位を有する御家人の「三河守」「左兵衛尉」などより上にあるのは不自然なため、『吾妻鏡』は「江間殿」の呼称を工夫したのではないかとの推測である[11]

(平氏)から名字(北条)への転換期のため、本来は姓(本姓)の場合にのみ付ける「の」を入れて北条義時(ほうじょう-の-よしとき)と名乗っていたとの姓氏研究家の主張もある[12]。もっとも、中世の実名呼称回避の習俗の中で、実際にそのように呼称される場面は限定されたと考えられる[13]諱#日本における諱の歴史参照)。

北条氏の嫡流家督者は得宗と呼ばれ、その家系は得宗家と呼ばれる。得宗は義時の法名「徳崇」にちなむとも言われるが、記録にある義時の法名は「観海」である。細川重男は「徳崇」を北条時頼期以降に贈られた禅宗風の廟号ではないかとしている[14]。訴訟法の中から生まれた行政用語であるという説もある[15]

生涯

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青年期

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長寛元年(1163年)、北条時政の次男として生まれる。母は前田家本『平氏系図』によれば伊東入道(伊東祐親)の娘。宗時が同母兄、政子が同母姉にあたる[6]。義時が15、6歳の頃に政子は、伊豆の流人であった源頼朝の妻となった。

義時が数え18歳となる治承4年(1180年)8月17日、父・時政、兄・宗時と共に頼朝の挙兵に従うが、23日の石橋山の戦い大庭景親に敗北し、宗時が戦死する。頼朝は土肥実平らと共に箱根山から真鶴半島へ逃れ、28日には真鶴岬神奈川県真鶴町)から出航して安房国に脱出した。時政・義時親子は文献により途中経過が違うものの、甲斐国へ向かい甲斐源氏と行動を共にすることになる[注釈 4]。10月13日、甲斐源氏は時政・義時と共に駿河に進攻し(鉢田の戦い)、富士川の戦いに勝利する。その後、時政・義時親子は頼朝の下に戻る。12月12日、頼朝は新造の大倉亭に移徙の儀を行い、義時も時政や他の御家人と共に列した。

兄・宗時が戦死したため義時は嫡子になったとされるが、義時は『吾妻鏡』で北条ではなく所領とした江間の名字で記されることが多く、分家の江間家の初代であったとも見られる[16][17]文治5年(1189年)に時政の後妻である牧の方を母として生まれた異母弟の政範は16歳で従五位下に叙され、26歳年長の義時と並ぶ地位にあり、時政は政範を将来の嫡子に考えていた可能性もある[18]

養和元年(1181年)4月、義時は頼朝の寝所を警護する11名の内に選ばれた[注釈 5]。この寝所伺候衆は後に家子と呼ばれ、門葉源氏血縁者)と一般御家人の中間に位置づけられたものである。後年に結城朝光は「義時はその中でも家子専一(側近筆頭)とされた」という書状を記している(『吾妻鏡』宝治2年閏12月28日条)[10]

寿永元年(1182年)11月、頼朝は愛妾・亀の前伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、このことを継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、牧の方の兄・牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は義兄の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。義時は父に従わず鎌倉に残り、頼朝から称賛された。義時は以降頼朝側近として重用されるようになったが、時政は長らく失脚状態となる[19]

寿永2年(1183年)、義時が21歳の時、長男の泰時が誕生する。

元暦2年(1185年)、源範頼率いる平氏追討軍に属して西国へ赴き、葦屋浦の戦いで武功を立てた。文治5年(1189年)7月、奥州合戦に従軍。建久元年(1190年)の頼朝上洛の際は、右近衛大将拝賀の随兵7人の内に選ばれ、参院の供奉をした[注釈 6]。この頃から『吾妻鏡』で義時はしばしば複数の御家人の筆頭として書かれており、呉座勇一は「吾妻鏡は義時を顕彰する意図で編纂されたものではあるが、義時が重臣として扱われているという一定の事実を示しているのではないか」としている[20]

建久3年(1192年)9月25日、比企朝宗の娘の姫の前を正室に迎える。姫の前は美人として有名な幕府出仕の女官で、義時は1年以上も手紙を送っていたが、なびかなかった。見かねた頼朝が「決して離縁しない」という誓約書を書かせた上で義時と結婚するよう姫の前に命じ、2人は結ばれたという[21]。翌年(1193年)には姫の前との間に嫡男の朝時を儲けた。また父の時政は、頼朝次男の千幡(後の源実朝)の乳父となり復権。曽我事件以降はいよいよ有力な重臣として扱われるようになった[22]。ただし頼朝の生前には時政・義時は無位無官であり、御家人の中での序列は必ずしも最上位ではなかった[23]

権力闘争

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建久10年(1199年)の頼朝の死後、跡を継いだ二代鎌倉殿・源頼家の下で政務を談合する13人の御家人、いわゆる十三人の合議制の一員となった。最年少の義時のみが30代、無冠かつ幕府においても無役であり、同じく一員であった父の時政と共同歩調を取ることとなる[24][注釈 7]

建仁3年(1203年)、7月に頼家が病に倒れると、9月2日に時政は頼家の乳母父で舅である比企能員を自邸に呼び出して謀殺。頼家の嫡子・一幡の邸である小御所に軍勢を差し向けて比企氏を滅ぼし、次いで頼家の将軍位を廃し、伊豆国修禅寺へと追放した(比企能員の変)。そして頼家の弟で、娘の阿波局(義時の同母姉妹)が乳母を務めた12歳の実朝を3代将軍に擁立し、10月9日には大江広元と並んで政所別当に就任し、実権を握った。『愚管抄』によると、11月になって襲撃から逃げ延びた一幡が捕らえられ、義時の手勢に殺されたという。

元久元年(1204年)3月6日、義時は相模守に任じられた[注釈 8]。7月18日、頼家が伊豆国修禅寺で死去。『愚管抄』や『武家年代記』『増鏡』によれば、頼家は義時の送った手勢により暗殺されたという[注釈 9]。またこの頃に比企一族の正室・姫の前と離別している[注釈 10]。その後は伊賀の方を継室に迎え、元久2年(1205年)に五男の政村を儲けている。

この時期まで時政・義時は一体となった政治行動を行っていたが、元久2年(1205年)の畠山重忠の乱で父子は対立するようになる。6月、時政は娘婿の平賀朝雅稲毛重成の訴えを受けて、同じく娘婿でもある武蔵国の有力御家人である畠山重忠を謀反の罪で滅ぼした。『吾妻鏡』によれば義時はこの際、重忠討伐に反対し、義母である牧の方の使者に強談されて、渋々討伐に同意したとされる。また重忠の滅亡後には長年の親交を思って涙したという。そして義時は、重忠に従っていた家臣が少なかったことから、謀反は偽りであると時政を難詰した。その後、讒訴を行ったとして稲毛重成が大河戸行元に、その弟の榛谷重朝三浦義村にそれぞれ殺害されている。これについては時政を非難した政子・義時姉弟によるものとする説[28]と、窮地に陥った時政によるトカゲの尻尾切りとする説[29]とがある。

ただしこの経緯は父を追放した義時の背徳を正当化する『吾妻鏡』の脚色であるとの説もある。一方で近年の研究では「北条宗家ではなく分家の江間家の初代とみなされる義時が、時政の意思を拒否できた可能性が低いことも考慮する必要がある」という論も出されている[要出典]。なお義時が重忠の遺族を救済した形跡はなく、承元4年(1210年)以降、武蔵国は北条氏の重要な基盤となる[29]

7月、時政と牧の方は実朝を廃して女婿の朝雅を将軍に擁立しようと画策。義時は姉・政子と協力し、有力御家人・三浦義村(母方の従兄弟)の協力を得て、時政と牧の方を出家の上で伊豆国に追放。さらに在京御家人に命じて平賀朝雅を京で誅殺した(牧氏事件)。また8月には下野国の宇都宮頼綱(時政の娘婿)に謀反の疑いがあると告発し、守護の小山朝政に追討を命じたが、頼綱は無実であるとして出家遁世した。一連の事件の背景には、元久元年(1204年)に畠山重忠の乱の引き金となった北条宗家の後継者・政範の急死があり、後継を巡って時政・牧の方と、先妻の子である義時や政子らの確執があったと考えられる[注釈 11]

時政追放後、義時は御家人中の最有力者となり[31]儀式における序列は義時が第1位を占めるようになる[要出典]。『吾妻鏡』によれば、元久2年(1205年)に義時は時政の跡を継ぎ、政所別当並びに執権の地位に就いている。一方、岡田清一は承元3年(1209年)12月以前の政所文書に義時の署判が1通も見られないことを指摘し、元久2年の執権就任記事は『吾妻鏡』編者の脚色と指摘し、実際の就任は実朝が政所を設置する承元3年(1209年)としている[32]。また長又高夫は、「執権」は評定衆と共に北条泰時によって後年創設された職で、『吾妻鏡』の記述はそれを過去にまで遡らせたものに過ぎず、執権就任そのものが事実ではないとする説を提示している[33]

義時は政所別当・大江広元、頼朝の流人時代からの側近である安達盛長の嫡男・安達景盛らと連携し、幕政の最高責任者として実権を握ったが、その権力を自ら示すことには慎重であった。時政は政所下知状に唯一人で署名するなど、性急な権力独占を行って多くの反発を招いていたが、義時はそのような活動を抑制している。実朝の政所設置までの4年間に義時が発給した文書は、わずか5通しか現存していない[注釈 12]。また幕府においては御家人達の要望に応えた「頼朝公以来拝領した所領は、大罪を犯した場合以外、一切没収せず」との大原則を明示した。

承元3年(1209年)、実朝が従三位に進み、政所を設置して親裁を本格的に開始した。11月、義時は自らの被官を御家人扱いするよう要望したが、実朝の反対により断念した。同月には幕府は、諸国守護人の職務怠慢を突いて終身在職を改め、定期交替制への変更を図ったが、千葉氏三浦氏小山氏など豪族御家人達の激しい反発を招いて断念された。かつてはこの取組が義時主導にあるものと考えられていたが、実朝の政治的自立によって義時と共に主導したのではないかとする説もある[34][35]。一方でこの時期の実朝は疱瘡の創痕を憚って籠居していたため政治を主導しえない状況にあったとして、従来通り義時主導とする説もある[36]

建暦2年(1212年)5月、姫の前所生の次男・朝時が実朝の怒りを買い勅勘を蒙ったため義絶し、駿河国へ蟄居させているが、和田氏との間で緊張が高まると12月には呼び戻している。義時は有力武士への攻撃を重ね、建保元年(1213年)2月には泉親衡の乱をきっかけとして幕府創設以来の重鎮で侍所別当の地位にあった和田義盛を挑発して反乱に追い込み、これを滅ぼした(和田合戦[37]。義時は義盛に代わって侍所別当となり、政所別当と兼務するようになった。また被官である金窪行親を侍所所司(次官)に任じ、名実ともに北条氏は他の御家人と別格扱いを受けることとなった[38]。同年12月、五男の政村が三浦義村を烏帽子親として元服。その際に政村は義時の"鍾愛の若君"と呼ばれている。建保4年(1216年)、義時は従四位下に叙され、翌年5月に右京大夫、12月に陸奥守を兼ねて、父の官位を超えた。

実朝暗殺

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実朝は結婚から13年が経過しても子が生まれず、側室も設けようとしなかった[39]建保6年(1218年)には、実朝の後継者として後鳥羽上皇の皇子を親王将軍として東下させることが検討されており、政子が上洛して上皇の乳母である卿二位(藤原兼子)と話が進められていた[40]

建保7年(1219年)正月27日、鶴岡八幡宮での右大臣拝賀の際に、将軍・実朝が頼家の子公暁によって暗殺される事件が起こり、源氏の正統が断絶した。義時はこの時実朝のすぐ側にはいなかった。このことや暗殺事件後の収拾策などから、実朝の暗殺は義時が裏で操ったという説[注釈 13]や、将軍親裁を強める実朝に対する義時・三浦義村ら鎌倉御家人の共謀という説[注釈 14]もあるが、北条氏に対抗する三浦義村[注釈 15]、または幕府転覆を望む後鳥羽上皇が黒幕という説[注釈 16]もある。また、それらの背後関係よりも公暁個人の野心に最も大きな要因を求める見解もあり、近年では黒幕説を否定して公暁単独犯行説を取っている研究者が多い[注釈 17]。『吾妻鏡』では、義時は実朝の脇で御剣役(太刀持ち)の予定だったが、当日白い犬をみたところ急に体調不良となり、源仲章と交代して自邸に戻り、結果として源仲章は実朝と一緒に暗殺され、義時は生き延びた。義時は前年大倉薬師堂を建立しており、前年には夢で薬師堂の戌神から実朝の伴をしないようにと告げられており、白い犬も戌神の使いであったとしている[57]。一方『愚管抄』では、実朝が義時に八幡宮の中門にとどまるよう告げ、殺害現場に義時は同行していなかったが、仲章は義時と勘違いされて殺されたとしている[57]。これについては義時が将軍殺害を防げなかった失態を隠蔽するため、現場にいなかったと『吾妻鏡』が曲筆したのではないかとする説がある[58]

源氏の正統が絶えたことによる幕府内での動揺は大きく、2月には頼朝の異母弟阿野全成の子時元が将軍の座を望んで駿河国で挙兵したとされ、義時は金窪行親を派遣して討たせている[59]。実朝暗殺後、幕府は新たな将軍として親王の鎌倉下向を朝廷に要請するが、後鳥羽上皇は延期を申し入れた。『愚管抄』では日本を2つに割ることを危惧していたとしている。親王将軍は実朝の後見を前提としたものであり、実朝が不在の状況では幕府の権威が上昇することを危惧したものとする説もある[60]。幕府は重ねて親王の下向を要請するが、上皇は寵姫である亀菊の所領荘園の地頭廃止を要求してくる。幕府方はこれを拒否して、義時の弟・時房に1千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、両者の態度は強硬で交渉は不調に終わった。ただし後鳥羽上皇は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと渋々ながらも妥協案を示したため、幕府はやむなく皇族将軍をあきらめ、7月に頼朝の妹の曾孫にあたる九条道家の子である三寅(後の藤原頼経)を4代目の鎌倉殿として迎え入れた。三寅は当時生後1年余の幼児であり、ただちに征夷大将軍に任じられる状況にはなく(実際の将軍補任は7年後)、政務が取れるはずもなかった。このため政子が鎌倉殿の地位を代行して政務を取り、義時がこれを補佐して実務面を補うことで実権を握る執権政治が確立した。

この将軍後継者の問題を不服とした摂津源氏の院近臣で在京御家人の源頼茂が同月に京都で謀反を計画したとして、上皇の命に従った在京武士によって鎮圧されたが、その過程で大内裏が焼失するという事件が発生している[61]。上皇による討伐の理由は『愚管抄』などでは頼茂が将軍職に就くことを企てたため在京武士たちがそれを後鳥羽に訴え、後鳥羽は頼茂を召喚したが応じなかったため追討の院宣が発せられたとされており、『吾妻鏡』では上皇の意に背いたためと記されているが、上皇が突如頼茂を攻め滅ぼした明確な理由はわかっていない[注釈 18]。また承久2年(1220年)には公暁の異母弟禅暁が、公暁に荷担したとの嫌疑で京の東山あたりで誅殺されている。

承久の乱

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大内裏焼失をうけて後鳥羽上皇は幕府を含む各方面に再建のための賦課を求めた。しかし公家・寺社・武士のいずれも非協力的であり、上皇は幕府に対する不満をつのらせた[63]。承久3年(1221年)5月14日、城南寺の仏事守護[注釈 19]と称して諸国の兵を招集すると、院政内の親鎌倉派を粛清して義時の京都代官伊賀光季を殺害し、挙兵した。15日、義時追討の官宣旨が全国に発布され、諸国の守護人・地頭たちに、上皇の元に馳せ参じるよう命が出された[64]。義時は生涯最大の難局に直面することになる。

宣旨には義時の名のみしかなく、幕府そのものを倒すとは明言されていなかったが、政子は幕府全体への攻撃であるとして頼朝以来の恩顧を訴え、御家人達を団結させた。また、北条氏に次ぐ有力御家人である三浦義村が早くから義時支持の姿勢を明確にした[65]。幕府首脳による軍議では慎重論も出る中、大江広元の「防御では東国御家人の動揺を招く」という意見と政子の「上洛しなければ勝ち目はない」という言葉により、京への出撃方針が一旦決定した[66]。伊賀光季戦死の報告を受けた幕府は再び動揺したが、広元と三善康信が再び進撃を強く主張したことで再度京攻撃の方針が決まった[67]。義時は嫡男・泰時を総大将として東海道から京都へ向けて軍勢を送り、次男・朝時、弟・時房を大将軍として北陸東山の三道から京へ上らせた。幕府首脳部の積極作戦が功を奏し、東国武士たちが続々と動員令に応じて、総勢19万の大軍となって都へ攻め上った。道中、信濃国の武士市河氏が北陸道の大将軍朝時の到着を待たず積極的に進軍し、越後越中の境、親不知付近を突破して前進すると、義時はただちにその功を賞して「一人も残らず殲滅せよ。山狩りをしてでも召し捕れ。敵を掃蕩せずに功を急いで京を攻め上ろうとするな」と、意気盛んかつ慎重な指令を発している。一方『吾妻鏡』では義時邸に雷が落ちたことを不安がり、朝廷に逆らったことによる滅亡の前兆ではないかと不安がる義時の姿が描写されている。幕府軍が鎌倉を発った後の6月8日、義時の邸に雷が落ち、下働きの男が1人死亡した。これを恐れた義時は大江広元に「朝廷を倒すための上洛でこのような怪異が起きた。幕府の運命もこれまでという前兆だろうか」と尋ね、広元は「君臣の運命は天地が定めるものであり、何も恐れる事はない。かつて勝利を収めた奥州合戦では落雷があった。幕府にとって落雷は吉兆である」と返答して狼狽する義時を宥めた。そして陰陽師を呼び占わせたところ、結果は最吉と出た、という話が描かれている。この話は、義時が神の末裔である皇族に弓矢を引くことに恐怖を感じていたこと、天皇を絶対的な権威とする当時の「常識」を、義時もまた持っていた証であると指摘されている[68][69]

5月21日に鎌倉を発した幕府軍は木曽川宇治川の京都防衛線を突破して、6月15日には京都を制圧した。義時追討の宣旨発布からわずか1か月後の幕府軍の完勝であった。軍記物語である『承久記』では、勝利の報を受け取った義時は「今ハ義時思フ事ナシ。義時ハ果報ハ王ノ果報ニハ猶マサリマイラセタリケレ。義時ガ昔報行、今一足ラズシテ、下臈ノ報ト生レタリケル(今は自分に思い残す事はない。この義時の前世からの果報は王の果報に勝っていたのだ。この世に報われる善行が一つ足りなかったために、卑しい身分に生まれたに違いない)」と述べたとされている。

敗北した後鳥羽上皇は宣旨を撤回した上で、倒幕計画は自分の考えではなく近臣が勝手に起こしたものであると弁明したが、幕府は乱の首謀者たる後鳥羽上皇以下に対して極めて厳しい態度を取り、後鳥羽上皇は隠岐島順徳上皇佐渡島に配流された[70]。倒幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された(後に阿波国へ移される)。後鳥羽上皇の皇子の雅成親王頼仁親王もそれぞれ但馬国備前国へ配流となった。在位70日余りの懐成親王(九条廃帝。明治時代に仲恭天皇)は廃されて新たに後堀河天皇が立てられ、親幕府派の公家・西園寺公経らを中心として朝廷の再編成が行われた。上皇側に与した武士の処分は最も厳しく大半が斬罪され、貴族も処刑・流罪・解官となった。後鳥羽上皇の莫大な荘園は没収され、後高倉院寄進されたが最終的支配権は幕府が握っていた。公家政権の監視にあたる出先機関として京都守護にかえて六波羅探題が新たに京都に設置された。京方の貴族・武士たちの所領3,000か所はすべて幕府に没収され、新たに東国武士たちが恩賞として地頭に任命された。

この勝利により、朝廷と幕府の力関係は逆転し、幕府の影響力は日本全体に及ぶこととなった。一方で幕府には公家や寺社、非御家人、そして朝廷からの利害調整の要望に対応する必要が生まれ、御家人の保護組織に過ぎなかった幕府が武家政権として成熟していくこととなる[71]

最期

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同年11月23日には継室の伊賀の方が女子を[72]、翌貞応元年(1222年)12月12日には男子を[73][注釈 20]それぞれ出産している。また同年には陸奥守と右京権大夫を辞職し、無官となっている。

貞応2年(1223年)、将軍御所であった大倉幕府が手狭であることから拡張することが議論となっている。承久元年12月に発生した火災で、三寅の邸宅とされた大倉御所と政子の邸宅である亡き実朝の私邸が共に焼失したため、三寅・政子共に大倉御所の東隣の義時邸で生活し、義時は大倉御所の西の大路を挟んだ反対側にある在京中の泰時に譲った邸宅(三浦義村邸の南隣でもある)に住んでいた(貞応2年当時、大倉御所に建物が再建されていたかどうかには議論がある)。義時はこの計画自体に賛同して、政子を勝長寿院内に建てた御所に移しながら、最終的には陰陽師の判断を理由に計画を先送りにした。これは、政子と三寅を引き離すことにより自らの三寅への影響力を強めると共に、移転計画を利用して発言力を強めようとした三浦義村への牽制を意図していたとする見解もある[注釈 21][75]

元仁元年(1224年)に入ると、義時は自身の健康長寿などを願って3月19日から100日間の泰山府君祭を開始した一方で、同じ日には甘縄山麓の南側で大火があり、千葉胤綱邸まで類焼している。また、4月27日には九条道家の要望を受けて、三寅の手習始の儀が行われて、義時は娘婿の一条実雅と共に中心的な役割を果たしている[75]

だが6月13日、義時は62歳で死去した。『吾妻鏡』では脚気と暑気あたりのためで、かねてより体調不良に苦しんでいたとされる[76]。一方で『百錬抄』や『明恵上人伝記』では譲り状を書く間もないまま頓死したとしており、急死であったとしている[77]

義時の死をうけて鶴岡八幡宮では神事を延期したが、これは将軍以外の死を原因としたものでは前例のないものだった[78]。また京都の朝廷も天下触穢を発し、洛中は30日間の触穢となった。これは頼朝以来の出来事であった[78]。義時の没後まもなく伊賀氏事件と呼ばれる政変が起こり、継室の伊賀の方やその一族の伊賀氏、娘婿の一条実雅が排除される事態が発生している。

死因

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義時の死は自然死ではなく、妻の伊賀の方が毒殺したという説もある。藤原定家の日記『明月記安貞元年(1227年)6月11日条では、承久の乱の京方首謀者の一人で、一条実雅の異母兄であった尊長が捕らえられ、尋問された際のことを記述している。六波羅探題北条時氏時盛の前に引き出された尊長は「只早頸きれ、若不然ハ、又義時妻義時にくれけむ薬まれ、こひてくハせて、早ころせ(ただ早く首を斬れ。できないのであれば、義時の妻が義時に与えた薬を飲ませて早く殺せ)」と叫んで周囲を驚かせたという[79]。この発言に注目した平泉澄は『吾妻鏡』の病状悪化の記述は粉飾されたものであり、義時が毒殺されたとみた[79]。また石井進上横手雅敬といった研究者も尊長の言葉に真実を伝えるものがあるとみている[79]

一方、山本みなみは『湛睿説草』に収録された義時四十九日法要の際の表白で、義時が日頃から脚気と暑気あたりによって衰弱していたと記されていることを指摘し、義時の死因は病死であるとしたうえで[76]、尊長と実雅は承久の乱では敵味方に分かれており、また伊賀の方の兄弟伊賀光季は京方に討たれているため、実雅や伊賀の方と尊長が連絡を取り合ったとは考え難い。尊長の発言は自暴自棄になったための発言であるため信憑性は薄く[80]、死を前にした虚言であるとしている[81]

また『保暦間記』には近習の小侍に殺害されたという記述もあるが、石井清文は毒殺説との関連で、命令を受けた小侍が毒を盛ったとする解釈もできるとしている[82]。一方で、三浦周行は義時が最期を全うしないことを望んだものによる「小説」であるとし、山本もそれを支持している[79]呉座勇一も毒殺説に触れたうえで、義時の62歳という没年齢は当時としては長寿であり、とりたてて疑うこともないとしている[83]

墓所

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『吾妻鏡』に「頼朝の法華堂の東の山をもって墳墓となす」とあり、近年北条義時法華堂跡の発掘調査が行われた[84]。なおこの時代に義時クラスの者がやぐらに葬られた記録はない。

義時の墓は臨済宗建長寺派の北條寺境内にあり、泰時が建てたものと伝えられている。

系譜

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経歴

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和暦 西暦 月日
旧暦
内容
元久元年 1204年 3月6日 従五位下に叙し、相模守に任官。
元久2年 1205年 閏7月20日 鎌倉幕府第二代執権就任。
承元元年 1207年 1月5日 従五位上に昇叙し、相模守如元。
建暦3年 1213年 2月27日 正五位下に昇叙し、相模守如元。
建保4年 1216年 1月13日 従四位下に昇叙し、相模守如元。
建保5年 1217年 1月18日 右京権大夫に転任。
建保5年 1217年 12月13日 陸奥守を兼任。
貞応元年 1222年 8月16日 陸奥守辞任。
貞応元年 1222年 10月16日 右京権大夫辞任。

評価

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北条氏の後裔たちは承久の乱勝利などの実績をふまえ、義時を事実上の始祖として扱った[91]。『古今著聞集』には、ある人物が見た夢の中で、義時が武内宿禰の転生した姿であることを知った、という伝説が書かれている。また、平政連北条貞時を戒めるために奏上した『平政連諫草』にも、同様の記述がある。これらの情報から、鎌倉時代末期には、転生の伝説がある程度知られており、また、『古今著聞集』の成立年代も考慮すると、義時が没してほどない頃から語り草になっていたのではないかと推測されている[92]。また日蓮は義時は頼朝とともに「不妄語(嘘をつかない)」の人であり、「名は臣下、身は大王」と極めて高く評価している[93]室町時代でも、足利尊氏が制定した建武式目では、義時・泰時の「行状」は「近代の師」であった[94]と記し、公家の北畠親房が著した『神皇正統記』でも義時は人望に背くことはなかった[95]と記して肯定的に評価していた。

しかし時代が下って江戸時代になると、主君に対する忠誠を武士道とするため、源氏将軍を滅ぼし、あるいは傀儡にして将軍から実権を奪い取ったことから、不忠の臣・陰険な策謀家として描かれた[96]。さらに明治時代になると、承久の乱における幕府軍の総大将であり、戦後に後鳥羽上皇ら3人の上皇を配流し、懐成親王(九条廃帝。明治時代に仲恭天皇と諡)の皇位を廃したことから、尊皇の視点から同情の余地の無い逆臣で不遜の人として多くの筆誅が加えられた[97]。もともと北条氏の歴代当主は、彼の嫡男・泰時や曾孫の時頼、玄孫の時宗を除いて、大半が陰険・悪辣・暴君・愚君とされているが、義時はその代表として常に名が挙げられる。これは源氏将軍暗殺に限らず、実父の時政まで追放して執権になるなどの不義によって強調されることとなった。実際、最終的に彼が利益を得ていることから、彼の関与が考えられている事件も少なくない[98]

細川重男は、「義時の生涯は降りかかる災難に振り回され続けた一生であった、その中で自分の身と親族を守る為に戦い続けた結果、最高権力者になってしまった」「頼朝の挙兵がなければ、一介の東国武士として一生を終えたであろう」と評している[99]

偏諱を与えた人物

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関連作品

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合巻
戯曲
小説
映画
テレビドラマ
漫画

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 生没年、出自など詳細は不詳。同時代に同名の阿波局(義時の姉妹)がいるため名前も誤伝とする見方がある[3]。また坂井孝一は「推論に推論を重ねることを承知の上で、いささか想像をめぐらしてみたい」「単なる推論、憶測と退けられるかもしれないが」「不明な点、論証できない点は少なくないが」と断った上で、源頼朝の最初の妻であった八重姫と同一人物ではないかとの仮説を提示している。また、この縁組の背景として、義時が江馬次郎(小四郎)に代わって江間を領有したことがあるのではないかとしている[4]。しかし、この仮説について渡邊大門は、史料的な裏付けがない上に首肯できない点が多々あり、そもそも八重の実在そのものが疑わしく、八重が義時と結ばれたというのはかなりの無理筋だとしている[5]
  2. ^ 義時の生母は伊東祐親の娘もしくは妹とされているが、三浦義澄の室(義村の母)も祐親の娘と伝えられている。つまり、義時が祐親の娘の子とした場合、三浦義村は母方の従兄弟にあたることになる。
  3. ^ 元暦元年(1184年)6月に源氏一門の源範頼源広綱平賀義信が、文治元年(1185年)8月にやはり源氏一門の山名義範大内惟義足利義兼加賀美遠光安田義資源義経がそれぞれ国司となっており、建久元年(1190年)12月には千葉常秀(祖父常胤譲り)・梶原景茂(父景時譲り)・八田知重(父知家譲り)が左兵衛尉に、三浦義村(父義澄譲り)・葛西清重右兵衛尉に、和田義盛佐原義連足立遠元左衛門尉に、小山朝政比企能員右衛門尉にそれぞれ任官している。
  4. ^ 『吾妻鏡』によると時政も安房に逃れ、そこで頼朝と合流し、9月8日頼朝が時政を甲斐国に使者として送ったとある。義時も時政と行動を共にしていた。また上総広常を味方につけた頼朝は、9月20日に土屋宗遠を第2の使者として甲斐に送り、24日に宗遠の来訪を受けた甲斐源氏は一族を集めて、頼朝と駿河国で参会すべきか評議を重ねている。『平家物語』延慶本では、「時政は敗戦後に頼朝とはぐれてそのまま甲斐に逃れた」「頼朝は時政の生死を知らずに、宗遠を甲斐に使者として送った」としている。時政・義時は単純に甲斐に亡命していただけという解釈も成り立ち、甲斐源氏懐柔のため奔走したという逸話は『吾妻鏡』編者による北条氏顕彰のための曲筆の可能性もある。[要出典]
  5. ^ 『吾妻鏡』養和元年4月7日条 他の10名は、下河辺行平結城朝光和田義茂梶原景季宇佐美実政榛谷重朝葛西清重三浦義連千葉胤正八田知重。主に有力御家人の2世世代であり、将来を担う人材の育成という面もあったと見られる。文治5年(1189年)2月28日、頼朝が彗星を見るために寝所から庭に出た際は、御前を三浦義連・結城朝光、御後を梶原景季・八田知重が警護している。
  6. ^ 他の6名は小山朝政和田義盛梶原景時土肥実平比企能員畠山重忠
  7. ^ 坂井孝一は、時政・政子が比企氏に対抗するために義時をメンバーに押し込んだのではないかとしている[25]。一方で細川重男は、時政は頼家の外戚として、義時は頼朝の家子を代表した立場で参加した可能性を指摘して、両者の立場は一応切り離す立場を取る[26]
  8. ^ 武家年代記』には「元久三六任相模守」とあり元久3年(1206年)6月とも読めるが、『鎌倉年代記』『系図纂要』『北条九代記』『将軍執権次第』はいずれも元久元年(1204年)3月6日であり、「元年」の語句が欠落していると思われる。
  9. ^ 古活字本『承久記』や『梅松論』では時政の送った手勢としている。
  10. ^ 正確な時期は不明だが、源具親と再婚した姫の前が産んだ輔通は元久元年(1204年)生まれのため、それ以前であることは確実である。なお正治2年(1200年)5月25日には義時のである伊佐朝政の娘が有時を産んでおり、その際に加持のために鶴岡若宮別当尊暁が前夜から義時の大蔵亭に詰め、出産の際には頼家から馬が、政子から産衣が下されているため、姫の前が大蔵亭に同居していたらこの扱いは難しかったのではないかとして、それ以前に義時と姫の前が離縁していた可能性を指摘する見解もある[27]
  11. ^ 細川重男は時政の名越邸を姫の前所生の義時次男・朝時が継いでいる事実に着目し、政範の死から牧氏事件までの9か月の間に時政・牧の方が朝時を政範に代わる北条宗家の後継者に迎え入れようとしたとしている。細川は朝時は自身を祖父時政の後継者と自負して、父義時や兄泰時の北条宗家継承の正統性を否定していたことが、父や兄との確執やその後の名越流と得宗家(江間流)との対立の一因であったとする可能性を指摘する[18]。ただし、朝時の名越邸継承の時期は不明であり、時政の真意は定かでない。一方、岡田清一は宗時が戦死した時点では政範・朝時ともに生まれていなかったことから、時政は宗時・義時の弟の時房を後継者に考えていたのではないかと推測している[30]。また呉座勇一は当時の慣例から義時が江間を称したとしても、それが北条宗家から自立して嫡流を継承する資格を喪ったことを意味しないとして、宗時の死後は義時が後継者となったとしている。呉座は亀の前騒動後に時政が一時的に失脚して義時が北条氏の当主になったものの、その後時政が復帰したために義時が北条氏の後継者であることを前提に便宜的に分家・江間家を創設したが、復帰した時政が後継者の変更を図ったために後継者問題が生じたとしている(呉座勇一 2021, p. 204・233-234)。
  12. ^ 時政が実朝後見役時代の2年間に発給した文書は、26通現存している。(呉座勇一 2021, p. 241)
  13. ^ 義時黒幕説は古くは新井白石が『読史余論』で唱えており、龍粛[41]安田元久[42]などが支持している。
  14. ^ 鎌倉御家人共謀説は、五味文彦が提唱したもので、実朝は北条氏の傀儡ではなく将軍親裁が機能しており、後鳥羽上皇との連携を目指した実朝に対し、義時と義村は手を結んで実朝および後鳥羽と実朝を結びつける後鳥羽の近臣源仲章の排除に乗り出したと主張しており[43]本郷和人が支持している[44]
  15. ^ 義村黒幕説は、永井路子が小説『炎環』で描いて以来注目され、石井進がその可能性を認めた[45]ことで浮上した。他に大山喬平[46]上横手雅敬[47]美川圭[48]などが支持している。
  16. ^ 後鳥羽黒幕説は、谷昇が提唱し、実朝暗殺と前後する1月22日から28日にかけて上皇が国家安泰とともに政敵の調伏を祈願する五壇法が実施され、実朝暗殺の報が届いた直後の2月6日に五壇法が再度行われた他、同日に他に4つ、10日も2つの修法が行われていることを指摘して、後鳥羽上皇が京都で育った公暁を利用した実朝暗殺に加担し、自らは京都にて暗殺事件を機に幕府が崩壊することもしくは宮将軍の擁立による幕府掌握を祈願していたと主張している[49]
  17. ^ 公暁単独犯行説を取っているのは、山本幸司[50]永井晋[51]坂井孝一[52]高橋秀樹[53]矢代仁[54]呉座勇一[55]山本みなみ[56]など。
  18. ^ 『愚管抄』には頼茂と藤原忠綱の間に怪しい共謀があったとし、忠綱は実朝暗殺後に九条基家を次期将軍にしようと画策したため、頼茂誅殺の翌8月に上皇に解官・所領没収されており、その赦免を願っていたのが卿二位だったと記している。そこから卿二位の推す頼仁親王の将軍就任が上皇によって拒絶され、卿二位の政敵西園寺公経の外孫三寅が有力な将軍候補となったため、卿二位が何らかの妨害を企み発覚したのが頼茂謀反の真相で、上皇は在京武士の訴えで頼茂捕縛を試みたが召喚に応じず討伐に至ったとして、承久の乱に至る公武対立の図式ではなく後鳥羽院政下における権力闘争の一コマとして位置付ける説もある[62][56]
  19. ^ 慈光寺本『承久記』による。古活字本『承久記』では流鏑馬揃え。
  20. ^ 北条時尚と推測する見方もある[74]
  21. ^ 当初の計画では大倉御所の敷地を西方に拡張する予定であったが、その場合には通りの反対側にある三浦義村・北条泰時(義時居住)両邸にも影響を与える計画であったが同時に義村としては三寅との関係性を誇示することにもなり、義時には不都合な側面もあった。また、政子の義時邸からの退去は引き続き義時邸を仮御所とする三寅のための空間拡張の敷地を確保すると共に、政子が三寅を擁することで得ていた義時に対する優位を解消することになった。
  22. ^ 吾妻鏡』で貞応元年(1222年)12月12日条に誕生したと記されている男子と同一人物と推測する見方もある[85]
  23. ^ 明月記嘉禄3年(1227年)2月8日条に「一条実雅の妻の妹」と記されている[86][87]
  24. ^ 承久3年(1221年)11月23日誕生[88]。生母不明とされる女子のいずれかの可能性もある。
  25. ^ 北条泰時の娘とする説もある[89]
  26. ^ 北条泰時の娘とする異本もある。
  27. ^ 今川記』による。

出典

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参考文献

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関連項目

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外部リンク

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