北京議定書

北京議定書
北清事変に関する最終議定書
種類不平等条約
署名1901年9月7日 (1901-09-07)光緒27年7月25日
署名場所在清北京スペイン大使館
署名国 李鴻章慶親王奕劻
イギリスの旗 アーネスト・サトウ
ロシア帝国の旗 ミハイル・ニコラエヴィチ・フォン・ギルス英語版
大日本帝国の旗 小村壽太郎
フランス第三共和政の旗 ポール・ボー
アメリカ合衆国の旗 ウィリアム・ウッドヴィル・ロックヒル
ドイツの旗 アルフォンス・ムン・フォン・シュヴァルツェンシュタイン英語版
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 モーリッツ・チカン・フォン・ヴァールボルンチェコ語版
イタリア王国の旗 ジュゼッペ・サルヴァーゴ・ラッジ英語版
ベルナルド・コロガン・イ・コロガンスペイン語版
オランダの旗 フリドリン・マリヌス・クノーベル英語版
ベルギーの旗 モーリス・ヨーステンス英語版
締約国
イギリスの旗 イギリス連合王国
ロシア帝国の旗 ロシア帝国
大日本帝国の旗 大日本帝国
フランスの旗 フランス共和国
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ドイツの旗 ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
イタリア王国の旗 イタリア王国
スペイン王国
オランダの旗 オランダ王国
ベルギーの旗 ベルギー王国
寄託者中華民国の旗 中華民国 台北市 国立故宮博物院
言語フランス語中国語
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北京議定書(ペキンぎていしょ)は、1901年9月7日北京で調印された、義和団の乱における八カ国連合軍・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書

日本の外交文書における正式名称は、北清事変に関する最終議定書である。また、中国ではその年をとって辛丑条約(しんちゅうじょうやく)、辛丑和約(しんちゅうわやく)ともいう。英語圏ではBoxer Protocolの呼び名が一般的である。

なお、1900年10月から始まった和議交渉から、その内容ごとに逐次列強国と清国間で協定を締結し、一部は既に施行されていた。本議定書はその条件履行の最終確認として、双方全権出席の下、調印されたものである。

調印国と全権[編集]

列強国側[編集]

仲介[編集]

清国側[編集]

内容(一部略)[編集]

北京議定書により公使館区域全体が大幅に拡大されたため、日本政府は陸軍歩兵隊兵営と新公使館本館(上写真、1908年竣工、元文部省技師・眞水英夫設計)及び付属官舎を設置した[1]
1912年の公使館区域。各国が公使館とともに兵営を設けている
  • 義和団に殺害されたドイツ公使と日本書記官に対する清朝要路者の弔問(ドイツ公使には皇弟醇親王載灃、日本書記官には戸部待郎那桐)と十分な賠償、さらに光緒帝本人の哀悼の意の表明。ドイツ公使に対する記念碑の建設。
  • 外国人殺害のあった市府は5年間科挙の受験を禁止する。
  • 清国の武器弾薬及び武器弾薬の原料の輸入を禁止する。
  • 清国は、賠償金として4億5000万を銀で列国に支払う。この賠償金は年利4%とし、39年間の分割払いとする。
  • 各国公使館所在の区域を特に公使館の使用のみに充てる。この区域は、各国公使館の警察権下に属する。また、この区域内における清国人の居住を認めず、兵営を設置することを許可し、公使館を防御できる状況におく。
  • 大沽砲台および、海岸から北京までの自由交通の妨げとなる砲台をすべて撤去する。
  • 清国は、列国の海岸から北京までの自由交通を阻害しないために、列国が同間の各地点を占領する権利を認める。その地点は、黄村楊村廊坊天津軍糧城塘沽蘆台唐山灤州昌黎秦皇島及び山海関とする。
  • 清国政府は、以下の上諭を各市府に向けて公布すること。
    1. 排外的団体に加入することを禁止する。禁を犯すものは死刑
    2. 地方長官及びその配下の官吏は、自らの地域の秩序に責任があり。もし排外的紛争の再発その他の条約違反が発生し、その鎮圧をしなかったり犯罪者を処罰しなかったら、その官吏を罷免する。また、再雇用も恩典もその後受けることはできない。
  • 清国政府は、列国が有用と認める通商及び航海条約の修正ならびに、通商上の関係を便利にするための通商条項の内容の変更について今後検討する。
  • 総理各国事務衙門を廃止し、外務部中国語版を新設する。なおその際、外務部を六部の上位とすること。
  • ロシアドイツオーストリア=ハンガリーイタリアベルギー天津租界の設定。

大きかった代償と列強の駐兵[編集]

この議定書は、列強国協議のもとで清朝に拒否を一切認めない形で認められ、首都北京を占領された清朝(西太后・李鴻章)はこれを呑まざるを得なかった。そのうちでも公使館周辺区域の警察権を列強国に引き渡したり、海岸から北京までの諸拠点に列強国の駐兵権を認めるといったものは、清朝領域内でその国権が否定され、列強国が統治する地域が生ずるものに他ならなかった。この状況は第二次世界大戦の終了まで事実上維持された。

義和団の乱の再発を列強国が恐れたための内容であるともいえる。清朝国内での警察権・駐兵権にとどまらず、排外団体結成禁止、地方官吏への排外団体取締りの厳命、それに背いた場合の罰則なども盛り込まれている。また、外国人殺害のあった市府の科挙受験禁止などは中国ならではの厳しい見せしめ政策であったといえよう。

賠償金4億5000万両のその後[編集]

北京議定書で清朝に定められた賠償金4億5000万両(利払いを含めると8億5000万両になる)という額は、年間予算1億両足らずであった当時の清朝には、まさに天文学的な要求であった。さらにその賠償金の支払い源も海関税など確実な収入を得られるものを差し押さえる形で規定されていた。

その後、清朝はこの支払いを履行したが、莫大な拠出はその後の改革(光緒新政)の施策を限定せざるを得ないこととなり、かつ侵略を防ぐためとして投資対象が軍備優先となったために、北洋軍の総帥である袁世凱の権勢をさらに増大させることとなった。また、改革遂行のためにさらに列強国や外国資本銀行の借款に頼り、外国への依存を更に強めることとなった。民衆へは税の増額という形で負担がのしかかり、さらに困窮にあえぐこととなり、清朝への不満が高まった。賠償金は1912年に清朝が滅亡した後も、清朝を引き継いだ国家とみなされた中華民国にそのまま負わされ、中央政権が軟弱な基盤しか持ちえなかった理由の一つとなった。

列強国も清朝や中華民国が賠償によって苦しむ姿を見て、国際社会の批判や自国の中国権益減少を恐れ、第一次世界大戦前後から賠償金の緩和をたびたび行った。特に20世紀初頭に中国接近の度を強めていたアメリカは、1908年に条件付きの減額に応じ、その減額分を米国に向けた留学生援助として、北京での留学予備校の設置と経営に充当させた。これが現在も北京にある清華大学である。

結局1938年までに6億5千万両が列強国に支払われ、ようやく賠償は終了した。

脚注[編集]

  1. ^ 明治・大正期における在北京日本公使館の建築 : 眞水英夫設計四代目北京公使館を中心として川原聡史、日本建築学会関東支部研究報告集 85(II), 609-612, 2015-03-01一般社団法人日本建築学会

関連項目[編集]

外部リンク[編集]