勝浦将元

勝浦 将元
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府
生年月日 (1937-09-13) 1937年9月13日
身長
体重
173 cm
69 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手
プロ入り 1956年
初出場 1956年
最終出場 1958年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

勝浦 将元(かつうら まさもと、1937年9月13日 - )は、大阪府出身[1][2]の元プロ野球選手内野手)。

来歴・人物[編集]

浪華商業高等学校では、1955年春夏の甲子園に三塁手・三番打者として出場。春の選抜では、谷本隆路・広島尚保両投手の好投もあって勝ち進む。1回戦では谷本・広島の継投で立教高を相手にノーヒットノーランを達成。決勝では桐生高を降し優勝を飾る。この大会で勝浦は19打数4安打(打率.211)の成績を残した[3]。同年夏の選手権は、1回戦でエース前岡勤也を擁する新宮高に敗れた。チームメートに山本八郎坂崎一彦がおり、同年8月には山本・坂崎らとともに全日本高校選抜チームとして初のハワイ遠征を果たす。

夏の甲子園が終わると、大洋ホエールズがいち早く交渉に乗り出し、勝浦本人の同意を得て、同席の上で署名捺印して正式に契約する。しかし、浪華商業と関係が深い東映フライヤーズが強引に巻き返しを図り、勝浦が普段から威圧を感じていた関係者を介して、東映と契約するように圧力をかける。ここで、勝浦が関係者の勧めに明確に反対できず、契約の話が進んでしまい、10月9日に契約を行うことになる。結局、東映との契約に気が進まなかったため、勝浦はこれを欠席し、代わりに勝浦の父親が東映との契約書に捺印した。11月25日には、大洋が東映と勝浦の契約無効を提訴、一方の東映も二重契約を提訴し、両球団による提訴合戦へと発展。翌1956年2月13日にコミッショナーの裁定により大洋との契約が有効とされた[4]。しかし、勝浦は在籍3年間でわずか1安打しか打てず、1958年限りで引退。

その後は富士火災に入社して営業部長を務めた[1][3]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1956 大洋 4 4 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .000 .000 .000 .000
1957 8 8 7 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 3 0 .143 .143 .143 .286
1958 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
通算:3年 13 13 12 0 1 0 0 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 6 0 .083 .083 .083 .167

背番号[編集]

  • 9(1956年 - 1958年)

脚注[編集]

  1. ^ a b 森岡浩 『プロ野球人名事典 2003』 日外アソシエーツ、2003年、147頁。
  2. ^ B.B.MOOK 『ホエールズ&ベイスターズ 60年の軌跡』 ベースボール・マガジン社、2009年、81頁。
  3. ^ a b 恒川[2005: 179]
  4. ^ 『日本プロ野球「事件史」』84頁,115頁

参考文献[編集]

  • 恒川直俊 『出身地別 懐かしの甲子園球児たち』 東京堂出版、2005年。
  • 『ベースボールマガジン2002年秋季号 日本プロ野球「事件史」』ベースボール・マガジン社、2002年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]