加賀型戦艦

加賀型戦艦
基本情報
種別 戦艦[1]
運用者  大日本帝国海軍
建造数 2隻
要目 (計画)
常備排水量 1918年要領書:約39,900英トン[2]
1920年9月時:39,979英トン[3]
加賀計画値:39,930英トン[4]、または39,967.0英トン[5]
全長 768 ftin (234.086 m)[6]
水線長 760 ft 0 in (231.648 m)[6]
垂線間長 715 ft 0 in (217.932 m)[6]
最大幅 水線上:約106.20 ft (32.370 m)[2]
水線下:約102 ft 10 in (31.344 m)[2][7][注釈 1]
水線幅 100 ft 0 in (30.480 m)[6]
深さ 約50.62 ft 0 in (15.429 m)[2][6]
または 51 ft 10 in (15.799 m)[7]
吃水 30 ft 9 in (9.373 m)[6]
ボイラー ロ号艦本式缶 重油専焼8基、同混焼4基[6]
主機 加賀:ブラウン・カーチス式(高低圧[6])ギアード・タービン4基[8]
土佐:三菱パーソンズ式(高低圧[6])ギアード・タービン4基[8]
推進器 4軸 x 210rpm[6]
出力 91,000馬力[6]
速力 26.5ノット[6] または28.3ノット[9]
航続距離 8,000カイリ / 14ノット[6]
燃料 重油:約3,600英トン[2]
石炭:約1,700英トン[2]
乗員 1,370名[10]
兵装 45口径三年式41cm連装砲5基[8]
50口径三年式14cm単装砲20基[8]
40口径三年式8cm単装高角砲4基[8]
(45口径十年式12cm高角砲4基に変更)[8]
61センチ魚雷発射管 水上4門、水中4門[11]
(または61センチ水上発射管 8門[8])
装甲 舷側:11インチVC鋼(傾斜15度)[6]
甲板:2.5インチNVNC鋼+1.5インチHT鋼[6]
隔壁:11インチから9インチ[7]
砲塔:12インチから9インチ[7]
司令塔:14インチ[7]
搭載艇 12隻[10]
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加賀型戦艦(かががたせんかん)は[12][13][注釈 2]日本海軍八八艦隊計画で考案した戦艦[15][16]長門型戦艦の拡大改良型である[17][18]。時代的にはアメリカ海軍サウスダコタ級戦艦ダニエルズ・プラン)に相当し[19]、同級に対抗できる超弩級戦艦であった[20]

なお計画時の番号は「加賀」が第7号戦艦[21]、「土佐」が第8号戦艦だが[22]土佐型戦艦[23]、もしくは土佐級戦艦と呼称した事例がある[24][25][注釈 3]

加賀(八八艦隊第3番艦、神戸川崎造船所)と土佐(八八艦隊第4番艦、三菱長崎造船所)とも[注釈 4]ワシントン海軍軍縮条約により他の八八艦隊各艦と共に建造中止となった[注釈 5][注釈 6][注釈 7]。 加賀型2隻は標的艦として実験に使用したあと処分する予定だったが[31][32]横須賀海軍工廠で空母改造工事中の天城型巡洋戦艦「天城」が関東大震災で損傷・廃棄されたため[注釈 8]、代艦として「加賀」は横須賀で航空母艦改装された[33][34]。 同型艦「土佐」は進水後に予定どおり標的艦として使用され[注釈 9]1925年(大正14年)2月9日に自沈処分となった[36][37]

概要[編集]

加賀型戦艦(加賀級戦艦)は、八四艦隊案[38](その後、八六艦隊案[39]八八艦隊と発展)によって2隻が建造された超弩級戦艦である[40][注釈 10]。 長門型戦艦(長門級戦艦)と同じく高速戦艦とも呼ぶべき戦艦であり[42]、八八艦隊計画の長門型に次ぐ第3番艦(加賀)、第4番艦(土佐)として計画された[注釈 11][注釈 12]。 先行の長門型2隻では完全に取り入れる事が出来無かったユトランド沖海戦など第一次世界大戦の戦訓を徹底して取り入れており[44]、長門型で採用された集中防御方式をさらに強化している[45]

長門型では舷側の装甲帯の上部装甲はより薄くなっており、またその装甲は舷側に垂直に取り付けられていた。これに対し加賀型では舷側の装甲帯の装甲厚(10-11吋/インチ[3])は上部〜下部ともに完全に同一になっている[46]。また、一部の装甲を傾斜式にするなどして更なる防御力の強化を図っている[46]。この時点で、日本海軍の防御設計は従来の英国式のものから完全に脱却した[46]。さらに、日本海軍の戦艦で初めて煙路防御を施している[42]。砲塔12インチ・砲塔天井6インチ[3]、遠距離砲戦で重要となる水平防御の為に甲板に張られた装甲は4インチもあり、建造時は世界最強の防御を持っていた[42]。ちなみに当時のアメリカの最新鋭戦艦の水平防御装甲厚は3.5インチである[42]。水線下には、日本海軍艦艇初のバルジを装着した[42]

攻撃力の面では、長門型が41センチ砲4基8門であったのに対して[47]、加賀型は1基砲塔数が増加して5基10門となり、世界最大の主砲を10門搭載する重武装となっている[注釈 13]。長門型の砲塔と形状が若干異なり、仰角は増しているが(長門型は仰角30度俯角5度、加賀型は仰角35度俯角3度)、砲塔の側面装甲は若干減らされている[49]

速力の面では、従来の戦艦よりも高速化を図った。第一次世界大戦終結直後、15インチ砲8門を搭載して32ノットを発揮しつつ防御力を備えたイギリス海軍アドミラル級巡洋戦艦フッド型)が出現し[50]、ユトランド沖海戦の戦訓もあわせて、列強各国は戦艦の高速化を意識するようになった[51]。 本型は、長門型より新式で91,000馬力を発揮する新式機関を搭載した[42]。これにより長門型より船体規模、排水量が大幅に増加して39,979トンになったにもかかわらず、長門型の21基より少ない12基で26.5ktの高速を維持できる見込みであった[3]。缶数が減少した事により、煙突は長門型の2本から1本になった[42]

艦歴[編集]

加賀[編集]

1917年(大正6年)6月21日特別召集の第39回帝国議会で、戦艦3隻(陸奥、加賀、土佐)と巡洋戦艦2隻(天城、赤城)の予算が承認された(7月20日交付)[46]1918年(大正7年)5月15日、日本海軍は八八艦隊第3番艦(仮称第七号戦艦)を加賀と命名する(土佐と同日付)[16][52]。同日付で2隻は『戦艦』として艦艇類別等級表に登録された[1][53]1920年(大正9年)7月19日、「加賀」は神戸川崎造船所(現・川崎重工業神戸工場)で起工[54][55][注釈 14]

1921年(大正10年)11月17日午前8時30分、進水[56][57]。進水式には大正天皇名代として伏見宮博恭王が臨席した[58]。また東宮武官及川古志郎も派遣された[59]。加賀進水式から数日後の11月22日、神戸川崎造船所では天城型巡洋戦艦「愛宕」が起工したが[60][61]、12月中旬に建造を見合わせた[62]

1922年(大正11年)初頭、ワシントン会議で日本側は加賀型戦艦2隻(加賀、土佐)の空母改造を提案している[注釈 15]。 加賀型2隻の空母改造了承との報道もあったが[注釈 16]、結局、空母に改造する未完成艦は天城型巡洋戦艦2隻に決定した[65][66][注釈 17]ワシントン海軍軍縮条約により加賀型は姉妹艦2隻とも廃艦となり、各種兵器の実験の実験に使用され[68]、その後は処分される予定だった[69][注釈 18]。 また「加賀」の主砲砲身が余ったため、主砲の装填動作不良に悩まされていた「長門」に丸ごと流用された[71]。 同年7月8日、「加賀」は川崎造船所から海軍に引き渡される[72]。7月11日、特務艦富士」に曳航され、護衛の装甲巡洋艦「八雲」と共に神戸を出発する[73]。 7月14日、横須賀に到着した[21][74]。本艦は、そのまま横須賀で放置された[60]。「土佐」の実験予備艦であったという[60]

近代化大改装後の加賀

1923年(大正12年)9月1日[75]、横須賀海軍工廠で巡洋戦艦から航空母艦に改造中だった「天城」が関東大震災で損傷した[76]。修理不能の損傷を受け[34]、日本海軍は廃棄と解体を決定する[77][注釈 19]。 その代艦として[79]、横須賀に繋留されていた「加賀」が[80]航空母艦に改造されることになった[81]

1923年(大正12年)11月19日付で2隻(加賀、赤城)は、それぞれ戦艦と巡洋戦艦から空母に類別変更される[81][82]12月13日、横須賀海軍工廠で「加賀」の工事が再開する[21]。試行錯誤の末に[83]、1928年(昭和3年)3月[84]、航空母艦として竣工した[85]。実際には飛行甲板や格納庫の艤装工事が完成しておらず[86]、翌年になっても工事を続けていた[87]

艦型としては「赤城」を姉妹艦として扱い[注釈 20]、「赤城型航空母艦」や[89]、「赤城級航空母艦」と呼称した事例がある[90][注釈 8][注釈 21]。 戦間期において、アメリカ海軍のレキシントン級航空母艦、イギリス海軍のグローリアス級航空母艦と並ぶ有力な航空母艦であった[注釈 22]。「加賀」は日本海軍航空隊の主力空母として活躍し、1934年(昭和9年)6月から1935年(昭和10年)6月の大改装で第一線級の能力を保持しつづけた[93]1942年(昭和17年)6月5日のミッドウェー海戦で沈没した[94]

土佐[編集]

タグボートに曳かれて長崎港を出港し、呉へ向かう「土佐」。1922年(大正11年)8月1日撮影。

土佐』の艦名は、旅順攻囲戦で日本軍が鹵獲したロシア海軍戦艦「レトヴィザン」を改称する際、改名候補の一つに挙げられていた(実際は肥前と命名)[95][96]

八八艦隊計画における本艦(仮称第八号戦艦)は[22][97]1918年(大正7年)5月15日付で土佐と命名される(加賀と同日付)[16][52]。同日付で『戦艦』として艦艇類別等級表に登録[53][16]1919年(大正8年)1月、三菱造船長崎造船所(現・三菱重工長崎造船所)建造契約を締結[98]1920年(大正9年)2月16日鎮西大社諏訪神社宮司により祓清の儀式をおこない[99]、三菱長崎造船所で起工した[100][注釈 23]

4月2日皇太子時代の昭和天皇と随行の東郷平八郎海軍大将が[101]、香取型戦艦「香取」に乗艦して長崎港に到着した[102][103][104]。 同日午後、皇太子は三菱長崎造船所に移動すると、建造中の峯風型駆逐艦「矢風」(4月10日進水)を見学した[102][105]。続いて第一船台の「土佐」において[22]、皇太子が最初のリベットを締める[106][107]。その後、皇太子は艤装工事中の球磨型軽巡洋艦「多摩」(長崎造船所で同年2月10日進水)[108]を見学し、「香取」に戻った[102][104]。 同年5月、技術供与の見返りとして、イギリスに本艦機関図面の一部を提供する[109]

1921年(大正10年)12月18日午前10時30分、「土佐」は進水した[110][111]。進水命名式には大正天皇の名代として[112]伏見宮博恭王が臨席した[113][114]加藤友三郎海軍大臣の代理として、財部彪大将が命名書を読み上げた[115]。造船所側では「土佐」の最後を飾るため出来るだけ盛大な進水式とし、海軍も航空機を飛ばして景気を添えた[116]。しかし、進水の際にくす玉が割れないというアクシデントが発生し、縁起の悪さが囁かれた[117][118]。 進水式後の翌19日[116]、三菱長崎造船所では天城型巡洋戦艦「高雄」の建造が始まった[119]

ワシントン軍縮会議では「加賀」と「土佐」の空母改造決定との報道もあったが[注釈 16]、最終的に空母改造対象は天城型巡洋戦艦2隻に決定した[65][66]。ワシントン海軍軍縮条約の締結により、1922年(大正11年)2月5日付で日本海軍は「土佐」の建造中止を発令する[42]。同年7月31日、未完成のまま海軍に引き渡され、軍艦旗が掲げられた[注釈 24]。この時点で最上甲板以下の船体はほぼ完成しており、砲塔や煙突なども別に製作が進められていた[118]。その後、各艦(肥前石見、土佐、安芸薩摩)は標的艦として処分されることになった[77][121]。建造に携わった造船関係者は「前途を祝福されたはずの土佐がドザ(土左衛門)になった」と自嘲したという[107]。授受式で、造船所所長は「土佐は世界の軍艦中全ての点において最も優ってていると信ずるが、近く廃艦同様の運命に陥るのは関係者として肉親に別るる以上大きな悲しみである」と語り、海軍側は「土佐の運命は偉人が短かい運命であったたと同様である」と答えた[注釈 24]。 艦上では、作業員の仮居住施設や被曳航装置の設置が行われる[118]。同年8月1日から8月4日にかけて運用術練習艦「富士」に曳航されて、装甲巡洋艦「八雲」護衛下で出港、豊後水道経由でへと回航された[22](当時、呉海軍工廠では天城型2番艦赤城建造中)[122][123]。その後、呉軍港沖合に繋留された[注釈 9]。姉妹艦と同様に、新兵器実験を行ったあと処分する予定であった[注釈 18]

1924年(大正13年)4月14日、天城型巡洋戦艦3隻、加賀型2番艦「土佐」、紀伊型戦艦2隻の建造取り止めの令が通達される[124]。同日付で6隻は戦艦・巡洋戦艦のそれぞれから削除・除籍された[125][126]

建造中止になった「土佐」を含む八八艦隊の各艦の資材は、横須賀海軍工廠の「天城」(のち加賀)や、呉海軍工廠の「赤城」、建造中の迅鯨型潜水母艦などに流用された[127][128]。「土佐」の場合、具体的には混燃罐が潜水母艦「長鯨」(長崎造船所)に、石油専燃ボイラーが扶桑型戦艦の改装用と記録されている[128]。 機関に関しては[129]東洋汽船天洋丸級貨客船の改造に際し「加賀」と「土佐」の石油専燃ボイラーの譲り受けを希望し[130]、海軍省とも交渉が進んでいたという[131]。だが諸事情により実現しなかった[132]

「土佐」のために製造されたスクリュー(推進器)4個は、「加賀」部品として横須賀海軍工廠に送られた[133][134]三ツ子島に保管されていた「土佐」の推進器も、同様に「加賀」の部品として呉工廠から横須賀工廠へ送られたという[注釈 25]

また1923年(大正12年)の段階で加賀型の主砲塔は10基が完成し、天城型の主砲塔は4基が完成または完成間近だった[136]。「土佐」の主砲塔のうち2基は陸軍特殊起重機船蜻州丸[137]により運搬され、対馬要塞豊砲台に1基(土佐1番砲塔、1932年(昭和7年)完成)、釜山要塞張子嶝砲台に1基(土佐2番砲塔、1930年(昭和5年)完成)が運搬されて、現地で要塞砲として活用された[136]横須賀海軍工廠で保管されていた三番砲塔は、後日1933年(昭和8年)に特務艦「知床」によって呉工廠へ運ばれ、戦艦「長門」の改装に利用されたという[138]。加賀型の41㎝砲塔は8基残っていたが、この3番砲塔をふくめ「長門」と「陸奥」の近代化改修にもちいられた[139]

「土佐」は1924年(大正13年)6月から数ヶ月に渡る実験に従事した[140][141]。実験内容は、亀ヶ首試射場(呉港外)からの砲撃や、船体に固定した爆薬を用いた[142]。砲弾や魚雷などに対する防御力強化や[143][144]新型砲弾(後の九一式徹甲弾)の効果の研究であり、これによって得られたデータは建造予定の1万トン級巡洋艦や、後の大和型戦艦の設計にも活かされた[140][145][141]。特に四〇cm徹甲弾(距離20000m)に対する射撃では、落下角度約17度・舷側25m地点に弾着した弾頭が水中弾となって水線下約3m部分に命中、水雷防御 を貫通して機械室で炸裂、浸水3000トン・傾斜5度の被害を生じた[146][145]

1925年(大正14年)2月2日、「土佐」は標的艦摂津[77]に曳航されて呉を出港する[147][148]。翌日佐伯港に入港[149]。仮搭載物の撤去や自沈用発火装置の取り付けを行った[148]。2月6日の自沈予定は悪天候のため中止[148]2月8日午前9時、2隻(摂津、土佐)は佐伯を出発する[150][注釈 26]。同年2月9日、「土佐」は艦名の由来となった高知県沖の島西方約10海里地点にて自沈した(豊後水道南方海面)[141]。自沈開始は午前1時以降、全没は午前7時頃[注釈 26]。自沈地点の水深は350フィート[148]

長崎市端島は、「軍艦島」の愛称を持つが、これは島を横から見た姿が(未完成状態の)土佐のシルエットに似ていた事に由来すると言われる[152]。また、「土佐は自沈しておらず、どこかに秘匿されている」という噂が、当時の少年たちの間で囁かれていたという[153]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ #軍艦基本計画資料Sheet2では加賀の値として水線下102.9ft(31.364m)としている。
  2. ^ 1 戰艦廢止論(巡洋戰艦を含む)a 英國の主唱[14](中略)尚ほ進んで近く我が國にも加賀級の三萬九千噸、天城級の四萬一千噸も起工中であつて、他の國でも五萬噸の戰艦を計畫してゐたのである。/然るに華府會議に於て、其の最上限度を三萬五千噸に制限し得たのであるから、他の巡洋艦を制限した如く、各國が冷静であれば一層縮小型に協定出來ないことはない。(以下略)
  3. ^ 兵器、船體、機關竝其ノ局具ノ工作ニ要スル圖面等ニ關シ極秘(秘)書類トシテノ取扱區分[26] 大正十二年二月十九日(官房機密二〇一)二、船體關係(イ)極秘(中略)二、特殊ノ形状ヲ有スル艦艇(例ヘハ土佐級、愛宕級ノ如シ)ノ線圖、「ボデープラン」、排水量等計算表及同曲線圖(以下略)
  4. ^ 2.世界大戰以後の状況[27](中略)大正9年に八八艦隊主力戰艦の第三艦たる加賀及び第四艦土佐の建造に着手し、加賀は川崎造船所に於て、土佐は三菱長崎造船所に於て起工す。
    加賀級 長 715呎 幅 100呎 吃水 30.75呎 排水量 39,900噸 速力 23節 主砲 16吋砲10門
     又此年巡洋戰艦隊の建造に着手し、其の第一艦天城を横須賀工廠に、第二艦赤城を呉工廠に起工したり。長 770呎 幅 101呎 吃水 31呎 排水量 41,200噸 速力 28.5節 主砲 16吋砲10門
     然るに大正10年秋軍備縮小の爲に華府會議開催せられる爲め、此等八八艦隊に属する主力艦としては、大正9年9月呉に於て竣工したる長門が16吋砲を搭載する世界の第一艦となり、其翌年11月華府會議中に完成したる陸奥第二艦として現存するのみ、加賀、土佐は進水直後 天城、赤城は建造の初期に於て何れも廢棄せられたり。若し華府會議の調印なかりせば更に加賀級の二艦 紀伊、尾張は建造に着手すべく用意され居たり。
  5. ^ ◎故國勞働者二万七千失職す[28]東京一日發 朝日新聞の報道に依れば華府軍縮會議の結果四ヶ所の造船所にて建造中の八大主戰艦の事業中止を海軍省より命令された故に造船工二万七千は一時に失業の悲運に遭ふた。八大艦の中には竣工間際のものが多い。造船所と艦種を擧ぐれば戰艦土佐、大巡洋艦高雄は長崎の三菱造船所にて中止され、戰艦加賀、巡洋戰艦愛宕は神戸の川崎造船所、戰艦紀伊、巡洋戰艦赤城は呉海軍造船所戰艦尾張、巡洋戰艦天城は横須賀にて夫々中止の命を受けた。(記事おわり)
  6. ^ (中略)[29]長門、陸奥に次で加賀、土佐の二艦が建造に着手せられ共に昨年度末には進水しましたが完成を俟たずして廢棄せらるゝことになりましたので如何なる艦であるかと云ふことを委しく申上げ得ざるを遺憾と致しますが進水當時發表せられたる要目を申上ますれば次の通りでありまして長門、陸奥に比して又一層強力のものであります。(以下略)
  7. ^ (中略)[30]同會議當時は日英米共大艦を建造又は計畫中でありまして、我國では加賀、土佐を建造中であり、加賀は大正十一年に進水して居りますが、その後航空母艦に改造せられました。同艦は戰艦としては排水量39,900噸16吋砲10門速力23節で、防禦力も大いに増大した艦でありました。土佐は進水後廢棄せられました。八八艦隊の戰艦として尚4隻の計畫がありましたが實現せずに終りました。(以下略)
  8. ^ a b 3.華府會議後の状況[27](中略)次に元の戰艦加賀及び巡洋戰艦赤城の2隻を華府會議により何れも航空母艦に改造す(大正12年)。赤城は呉工廠に於て加賀は横須賀に於てす。元來横須賀にては元の巡洋戰艦天城を改造することに着手せるも其年9月大震災の爲破壊せられたる故、既に進水を了し居たる加賀に取換へられたるものなり。
    赤城級 長 770呎 幅 92呎 吃水 21.2呎 基準排水量 26,900噸 速力 28.5節 主砲 8吋砲10門(以下略)
  9. ^ a b ●十六吋砲の洗禮 近く解體される土佐に哀惜の海軍當局[35] 華府會議の結果遠からず我海軍各種武器の標的となつて解體さるべき巨艦土佐は呉軍港沖會に淋しく巨體を横たへて刻々迫る運命を待つののの如くであるが呉海軍當局は「土佐解體に先だつて伊豫灘方面に曳航され艦砲魚雷爆彈等の新鋭武器の標的となるが其中には例の十六吋の洗禮を受け又飛行機上より發射する魚雷の試驗にも供せられる筈であるがあの最新式巨艦を實驗に供するのかと思へば世界平和の爲めとは云へ惜しくてならぬ」と語つた(呉)
  10. ^ (中略)[41] 我國はに海軍力許可の必要を痛感し、大正の初頭以來八四艦隊案(戰艦八隻、巡洋戰艦四隻の整備)の成立となり、次でこれを更に強化した八八艦隊案(戰艦、巡洋戰艦各八隻)の整備に向つて邁進することゝなつたのであるが、此建艦案の内容は次のやうなものであつた。
    長門級戰艦 二隻 排水量 三三,八〇〇噸 主砲 一六吋砲 八門 速力 二三浬
    加賀級戰艦 二隻 排水量 三九,九〇〇噸 主砲 一六吋砲 一〇門 速力 二三浬
    紀伊級戰艦 二隻 排水量 四二,〇〇〇噸 主砲 一六吋砲 一二門 速力 二三浬
    未定級戰艦 二隻 排水量 未定 主砲數及口徑 未定 速力 未定
    赤城級巡洋戰艦 四隻 排水量 四一,二〇〇噸 主砲 一六吋砲 一〇門 速力 二八.五浬
    未定級巡洋戰艦 四隻 排水量 未定 主砲數及口徑 未定 速力 未定
     而して此の艦隊の整備維持(艦齢を八年とし恒に艦齢内新艦の規定數を維持する建前)には毎年六億圓以上の巨費を要するといふ厖大なものであつた。(以下略)
  11. ^ 第四章 艦船兵器/(一)主力艦 加賀級[13] 一九一八年即ち長門級計畫後十八箇月目に戰艦加賀及び土佐の設計が完了した。兩艦は八八艦隊計畫の第三第四番艦であつて、長門級の三三,八〇〇噸に對して三九,九〇〇噸で、その要目は次の通りである。 長さ(P.P)七一五呎-〇吋 最大幅(W.L)一〇〇呎-〇吋 吃水三〇呎-九吋 排水量三九,九〇〇噸 速力 二三節 兵装{主砲 十六吋-十門 副砲 五吋半-五十門 高角砲 三吋-四門 發射管 二十一吋-八門 此の外十分なるサイド・アーマーとデッキアーマーとを有し、其の上に有力なる水雷防禦装置を有して居るが故に、速力は長門級と相等しいけれども其の他は遙かに有力であつた。/ 近代式主力艦設計の見地より見て、艦の幅の増加が必要にして且つ有利であると云ことが重要な問題となつて來たのは、丁度此の級設計中のことであつた。而して本問題は豫想より遙かに實現され得る可能性があつたのである。/ 一體船渠や造船臺(ビルヂング・バース)を長くすることは困難なことではないが、幅を増加することは根本的の變革であつて、全く改造に等しいものである。本件は船體の寸法を増加する場合攻究すべき重要なる項目の一であつて、加賀設計當時我が海軍工廠の設備に就ても、至れり盡せりの考慮が拂はれたのである。/ 一九二〇年加賀は川崎造船所にて起工せられ、土佐は長崎三菱造船所に於て建造を開始せられた。/ 是等兩艦の建造準備時機は大戰の影響による商船建造の大好況時であつた爲に、材料及び勞力の供給を得ることに多大の困難を感じた。併し乍ら此の作業を豫定通り進捗せしむる爲に、海軍竝に民間兩當時者が苦痛を忍んで最善の努力を盡したことは一通りではなかつた。顧れば苟くも此の事業に關係せしものは何人を問はず、必ずや當時に於ける造船所の惡戰苦闘の状況を偲び、今も尚ほ昂奮を覺ゆるものがあらう。斯くの如き困難ありしにも拘らず、兩艦は華府會議開催中遂に進水した(一九二一年十一月及十二月) 斯くて周知の如く會議の結果兩艦は廢棄に決し、進水直後廢棄表に登録せられたのである。米國戰艦ワシントンも亦之と同様の運命を辿つたのである。
  12. ^ a 日本[43](中略)加賀、赤城はそれぞれ建造中だつた戰艦 巡洋戰艦を華府會議の結果航空母艦に改造したものである。/戰艦加賀、巡洋戰艦赤城が計畫通り出來上つたとすれば、左のやうなものであつたのである。加賀は戰艦土佐と共に、彼の八八艦隊計畫の戰艦として、第三番目 第四番目即ち長門、陸奥に次ぐものとして、又赤城は天城 摩耶 愛宕と共に巡洋戰艦として、いづれも我が海軍主力たるべきものであつた。(要目略)新に航空母艦として設計されたものには、曩に鳳翔があり、最近に龍驤がある。(以下略)
  13. ^ ◎建造中ノ艦船要目ニ關スル件 大正十年十一月四日(官房三七七七)[48]〔 (艦名)加賀|(艦種)戰艦|長(呎)715-0|幅(呎)100-0|吃水(呎)30-9|排水量(噸)39,900|速力(節)23|(乗員數)1,370|(短艇數)13|(製造所)神戸川崎造船所|(進水年月日)記載なし|主要兵装 (大砲)41c/m 10 14c/m 20|(機關砲)-|(發射管)8|(探照燈)11|機械(種類)タービン(數)4|罐(種類)艦本式(數)12|(推進器數)4|(備考) (一)本表以外ノ要目ハ秘トス/(二)速力及兵装欄ニハ特ニ注意ヲ要ス/(三)進水年月日未記入ノモノハ進水ヲ待テ記入ノコト/(四)日向以前ノ戰艦軸馬力ハ從前發表ノ通公表シ差支ナシ 〕
  14. ^ 神戸川崎造船所建造の主力艦としては、巡洋戦艦「榛名」、戦艦「伊勢」に続き3隻目である[21]
  15. ^ ○航空母艦 又日本ハ建造中ノ二艦加賀 土佐ヲ航空母艦ニ改造シタキ希望ヲ述ヘ、尚二艦ハ改造後ノ噸數二萬四千噸トナル見込ナリト附言シ、結局日本ノ希望通リ決定ス[63] 米國ハ右航空母艦問題ニ關シ米國建造中ノ巡洋戰艦「サラトガ」「レキシントン」ノ二隻ヲ航空母艦ニ改造スルノ希望ヲ有スルモ専門家ニ依レハ右二隻ハ改造後ノ噸數二萬七千噸ヲ超過スル恐アリ。爲ニ苦心ヲ重ネツツアリシト述ブ。之ニ對シ日英ハ同情的態度ニ出テ結局精確ナル調査ヲナスニ決ス
  16. ^ a b ▲加賀土佐を飛行母艦に改造[64] 日本は廢艦となるべき超弩級戰艦加賀及び土佐を飛行母艦に改造し米國は建造中の戰闘巡洋艦レエシントン、コンステレーション及びサラトガを飛行母艦に改造すとの了解成立せり(華府)
  17. ^ ●廢艦處分の内定 四隻丈けは流用[67] 海軍條約の成立によつて廢棄せらるべき主力艦の處分方法は(一)二隻は航空母艦 (二)一隻は標的艦 (三)一隻は砲術練習艦 に轉用し得るものなる模様で其他のものは全部沈没若くは解體することになるだろうと而して商船又は他の特務艦に流用する事は出來ない事に決定するらしい以上の結果日本に於ては目下建造中にある巡戰天城、赤城の二隻は航空母艦とし前弩級戰艦攝津安藝を標的艦若くは砲術練習艦にすることに内定して居ると(記事おわり)
  18. ^ a b 解體をやめて兩艦を爆沈 土佐と加賀[70] 解體に定つた軍艦は批准を待つて作業を始めることになつて居るが最近海軍當局ではその軍艦十三隻の中土佐、加賀の兩艦を近海に於て爆沈しようといふ説が現れた兩艦は我が 海上の 威力陸奥に次ぐ精鋭として計畫されたもので艦腹の鋼鐡板などには技術の精が究めてある從つてその威力を試さず其儘解體することは遺憾であるから此際未だ試みられない陸奥の威力十六吋砲の射撃力や飛行機上の爆彈投下力及び魚形水雷の攻撃力を實驗して進歩した我が製艦技術と海上の攻撃力の生きた参考資料を得ようと言ふのであつて既に呉軍港の近海に實驗の場所も選定されたと云ふ(中略)そのうち一艦を爆沈することになつた呉軍港の禁かいに場所を定めたのは引揚げ作業の便宜を考へた結果であつて實施の際には大規模の演習を計畫されるものと豫測されて居る解體の時期か批准後六箇月以内とあるから遲くとも今秋九月頃には十六吋砲の實射によつて製艦力が試されるであらう(記事おわり)
  19. ^ 大正十二年十一月一日 大臣 侍従長宛[78] 曩ニ横須賀海軍工廠ニ於テ建造中ナル軍艦天城ハ華府會議軍備制限條約ノ結果航空母艦ニ艦種ヲ変更工事継續ノコトニ執奏着々工事進捗略下甲板迄完成セル處去ル九月一日大震災ニ於テ天城ハ其ノ全支柱ヲ取外サレ盤木後方ニ倒レシタメ舩体ハ約四呎後退シ且ツ倒レタル盤木上ニ墜落シ之ヲ進水セシムルコト非常ニ困難トナリシノミナラズ其ノ舩体ハ全長ニ對シ約十九吋ノ屈曲ヲ生ジ工事ヲ續行スルモ舩体強度ニ著シキ弱点ヲ存スルニ至ルヲ以テ此ノ侭工事ヲ継續スルノ不利益ナル状態ニ陥リタリ然レトモ帝國海軍ノ現状ハ目下航空母艦ノ整備ヲ最モ緊要トスルヲ以テ天城今回ノ災害ニ依リ航空母艦ノ建造ヲ放棄スルコト能ハザル次第ニ有之候ニ付此ノ際天城ヲ廢棄シ其ノ代艦トシテ華府會議軍備制限條約ニ依リ廃棄スベキコトニ豫定セラレ建造工事中止中ノ戰艦加賀ヲ航空母艦(排水量二六,九〇〇トン)ニ変更シ横須賀海軍工廠ニ於テ工事再興竣工セシメ以テ帝國海軍航空母艦ノ勢力減損ヲ補填ノコトニ取計候條此ノ旨可然御執奏相成度此段申進候(終)
  20. ^ 加賀を中心に航空戰隊[88] 華府會議で航空母艦に變更建造された赤城姉妹艦加賀(二万六千九百トン)は近く呉軍港に回航し艤装を整え御大典觀艦式に雄姿を見せる筈であるが本年度の艦隊編成の際には輕巡洋艦數隻驅逐隊一隊を附属隊とした第二航空戰隊を編成することになつた(記事おわり)
  21. ^ 新航空戰隊の威力[91] 横須賀で艤装中の赤城型加賀が今秋御大典までに完成するので十二月一日の新艦隊編制から新に赤城、加賀の兩艦を以て第一航空戰隊を編成することになつた。實現の後は海軍の空中威力著しく増大するわけである。
  22. ^ 竣工を急ぐ二大航空母艦 廢棄さるべき赤城 加賀の二艦を改造[92](電通東京六日發)我海軍では華府會議の協定に基き廢棄さるべき赤城、加賀の二艦を航空母艦に轉用すべく兩艦の排水量を各二萬七千噸に低下し赤城は本年七月加賀は來年二月までに竣工せしめんとその工事を督励してゐる而してこの上の兩艦が竣工の曉は米國のレキシングトン英國のヒュツヤスと相並んで世界における四大航空母艦である(記事おわり)
  23. ^ 三菱造船所建造の主力艦としては、巡洋戦艦「霧島」、戦艦「日向」に続いて3隻目となる[22]
  24. ^ a b □軍艦土佐愈々曳航 佐世保から呉へ悲壮な授受式[120] 一日いよいよ呉に曳航される軍艦土佐は卅一日午前十時から土佐艦上斯波三菱造船所長並に幹部以下建艦從事員の重なる者二百餘名海軍から安住原兩大佐以下艤装廻航委員参列し最後の授受式があつた斯波所長は「土佐は世界の軍艦中總ての點において最も優つてゐると信ずるが近く廢艦同様の運命に陥るのは關係者として肉親に別るゝ以上大きな悲しみである」と挨拶を述べこれに對して原大佐は 土佐の運命は偉人が短かい運命であつたと同様であると答へ悲壮な式であつたが土佐艦上には軍艦旗高く檣頭に翻つて最後を飾つた一日は佐世保丸に曳かれて午前七時半に浮標を離れ多數見送りの裡に港外に出で 田沖で曳航作業を施して呉に回航の筈である(記事おわり)
  25. ^ 巨艦土佐の推進機 航空母艦加賀に備付く[135] ワシントン會議の結果廢棄處分に處せられた巨艦、土佐のかたみとして呉軍港外三子島に保管されてあつた大推進機四個は廣工廠造機部長、工學博士石川登喜治少将が心血を注いで造り上げたものでこれをこのまゝ土佐と共に葬り去るのを遺憾とし華府會議の結果赤城と共に航空母艦に改造と決し目下横須賀工廠で改造艤装中の加賀に備へ付けることゝなり去る八日三子島から一旦呉工廠に回送されたが近く特務艦で横須賀に送る筈(記事おわり)
  26. ^ a b ●沈み行く艦に暗然たる竹下長官 擧手の禮をなしつゝ廃艦「土佐」の最期[151] 風雨のため延期された廢艦「土佐」の水葬は天候恢復したので二月八日午前九時特務艦攝津に曳航されて佐伯を抜錨豊後水道を南下し水の子嶋燈臺沖に出で風浪の鎭まるを待ち漸く九日午前一時頃から乗組船員及び職工百餘名は凄愴なる探照燈を浴びつゝ一薺にキングストンブアルヴの解放作業を行つたがこれと共に艦底から海水瀧の如く奔入し艦體は刻々沈下し九日午前七時水煙を擧げると共に一面の大渦紋を殘しあはれ故郷の海深く葬り去られた特務艦攝津艦上に立つて從容たる偉人の大往生の如き刹那の光景を眺めた竹下呉鎭守府長官伍堂呉工廠長その他見學将校は何れも暗然として擧手の禮を行ひ悲壮を極めた(記事おわり)

出典[編集]

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参考文献[編集]

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  • 福井静夫 著、阿部安雄、戸高一成 編『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想第一巻 日本戦艦物語〔Ⅰ〕』光人社、1992年5月。ISBN 4-7698-0607-8 
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  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
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  • 歴史群像編集部編「第5章 八八艦隊計画の主力艦」『決定版日本の戦艦 日本海軍全戦艦ガイダンス』学習研究社〈歴史群像シリーズ 太平洋戦史スペシャル Vol.5〉、2010年10月。ISBN 978-4-05-606094-2 
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関連項目[編集]