前田孝矩

前田 孝矩(まえだ たかのり、寛永4年(1627年) - 元禄6年1月7日1693年2月1日))は、江戸時代前期の旗本。苗木山前田家の祖。初名利房。通称亀次郎、帯刀、又兵衛。官位は従五位下、伊賀守、相模守、日向守。

前田利孝の次男。母は本多康俊の娘。兄に前田利意、弟妹に前田寄孝(三男、利世、加賀藩士となる前田監物家祖)、娘(浅野長賢正室)ら。

承応3年(1654年)12月27日、蔵米2000俵を給され寄合に列する。寛文3年(1663年)11月19日小姓組番士となり、寛文8年(1668年)9月5日、目付代となり肥前国島原に赴く。寛文9年(1669年)7月8日、書院番組頭となり、同年12月25日布衣を着ることを許される。天和2年(1682年)4月21日、上野国邑楽郡下野国新田郡で500石を加増される。天和3年(1683年)、書院番頭となり、従五位下伊賀守に叙任される。貞享元年(1684年)、土屋政直大坂城代に就任した時、彼の元に赴く。その後、再び書院番頭に復し、元禄3年(1690年)7月、職を辞し、元禄6年(1693年)、67歳で没する。