円本

円本(えんぽん[1])とは、1926年大正15年)末から改造社が刊行を始めた『現代日本文学全集』を口火に、各出版社から続々と出版された1冊1の全集類の俗称、総称である[2]庶民読書にこたえ、日本出版能力を整えただけでなく、執筆者たちをうるおした[3]

概略[編集]

関東大震災出版業界にも深い傷を残し[4]、その傷の中で倒産寸前だった改造社の社長山本実彦が、1926年大正15年)11月、1冊1円、薄利多売、全巻予約制、月1冊配本の『現代日本文学全集』の刊行に社運を賭け、翌月『尾崎紅葉集』を配本した。自己資金を持たぬ自転車操業的企画であったが、期待を遙かに上回る23万人の応募者の予約金23万円が出版資金となり、がぜん頽勢を挽回した[5]

「円本」の呼び名は出版社側の命名でなく[6]1925年(大正14年)の大阪市1927年昭和2年)の東京市に登場した市内1円均一の「円タク」から、たまたま派生したと言われる。当時の1円は大学出初任給の約2%に相当した[7]。円本がその1円を廉価と謳えたほどに、それまでの本は高価な物であった。

1927年(昭和2年)前後から月に1冊ずつ配本したが、円本自体が急速に飽きられていき、1930年(昭和5年)過ぎにブームが鎮静化した[8]。解約者も出て売れ残りが投売りされ、余裕のない階層も「円本」を買えるようになった[9]

第二次世界大戦後の一時期にも円本ブームが再燃したが、この時期は既にインフレーションで通貨価値が目減りしており、1ページあたりの価格競争であった。1949年(昭和24年)5月に河出書房が1ページあたり53銭で『現代日本小説大系』を廉価版(定価180円)として出版すると、春陽堂が1ページあたり35銭で『現代長編小説全集』を出版。以後、各社が競って小説集を出版した。最終的には講談社が1ページあたり20銭8厘という廉価版を出版して出版合戦に終止符を打った。資本力で対抗できない中・小出版社は返本の山を築いた[10]

おもな「円本」全集[編集]

各出版社が出版した、おもな「円本」全集を列記する。右端の万の数字は、大約の発行点数である。

おもな「円本」全集
全集名 巻数 出版社 発行期間 発行点数
現代日本文学全集 63巻 改造社 1926年12月 - 1931年 25万
世界文学全集 57巻 新潮社 1927年3月 - 1930年 40万
世界大思想全集 126巻 春秋社 1927年 - 1933年 10万
明治大正文学全集 60巻 春陽堂 1927年6月 - 1932年 15万
日本戯曲全集 50巻 春陽堂 1928年 - 1931年
現代大衆文学全集 40巻 平凡社 1927年5月 - 1932年
世界美術全集 36巻 平凡社 1927年 - 1932年
新興文学全集 24巻 平凡社 1928年 - 1930年
近代劇全集 43巻 第一書房 1927年6月 - 1930年
日本児童文庫 76巻 アルス 1927年5月 - 1930年 30万
小学生全集 88巻 興文社 1927年5月 - 1929年 30万
マルクス・エンゲルス全集 20巻 改造社 1928年 - 1930年

価格の例外としては1冊50銭の『日本児童文庫』(アルス)と35銭の『小学生全集』(興文社)が挙げられる。改造社の『現代日本文学全集』に関しても、並製は1冊1円であったが、上製は1冊1円40銭であった[11]。似た趣向の、たとえば『現代日本文学全集』(改造社)と『明治大正文学全集』(春陽堂)や、『日本児童文庫』(アルス)と『小学生全集』(興文社)の宣伝合戦は泥仕合的に激しかった[12]

上述の円本のほか、『経済学全集』(改造社)、『現代法学全集』(日本評論社)、『漱石全集普及版』(岩波書店)、『石川啄木全集』(改造社)、『蘆花全集』(新潮社)、『菊池寛全集』(平凡社)、『日本地理大系』(改造社)などの全集・叢書の類もこの時期に刊行されており、これらの本の総発行点数は300万冊以上と推定される[13]

影響[編集]

1927年(昭和2年)の岩波文庫の発売が円本に触発されたことは、同文庫巻末の岩波茂雄名の『読書子に寄す』に明らかである[14][15]。また、同年の末頃から、印税で「円本成金」になった文士たちが相次いで海外旅行に出掛けたともいう[5]昭和初期に文字を覚えた世代、したがってのちに十五年戦争に巻き込まれた世代日本人の大勢は、円本と文庫本によって内外の文芸・芸術・文物に親しんだ。

円本に押されて、雑誌単行本の発行部数が一時的に減った[16]が、円本のブームの影響を受けて、出版業界における製本から販売までのマスプロ体制が確立された一面もある。

そのほかの意味[編集]

1971年(昭和46年)のニクソン・ショックを発端とする円の切り上げに関する問題を解説した本を指して「円本」と呼ぶこともある[17]

脚注[編集]

  1. ^ 松原一枝『改造社と山本実彦』南方新社、2000年4月、p. 139頁。ISBN 4-931376-31-2 
  2. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)、百科事典マイペディア、精選版 日本国語大辞典、ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、旺文社日本史事典 三訂版、デジタル大辞泉、世界大百科事典 第2版. “円本”. コトバンク. 2021年8月14日閲覧。
  3. ^ 谷崎潤一郎「私の貧乏物語」『昭和大雑誌 復録版 戦前篇』流動出版、1978年7月、p. 266頁。 
  4. ^ 日本書籍出版協会編 編『日本出版百年史年表』日本書籍出版協会、1968年。 pp371-374
  5. ^ a b 巌谷大四『懐しき文士たち 昭和篇』文藝春秋〈文春文庫〉、1985年7月、p. 45頁。ISBN 4-16-739101-5 
  6. ^ 横関愛三北原正雄 著「円本時代来たる」、テレビ東京編 編『証言・私の昭和史』 1巻、旺文社〈旺文社文庫〉、1984年11月、p. 56頁。ISBN 4-01-064301-3 
  7. ^ 週刊朝日編 編『値段の明治・大正・昭和風俗史』 上、朝日新聞社〈朝日文庫〉、1987年3月、p. 601頁。ISBN 4-02-260425-5 
  8. ^ 世界大百科事典. “日本児童文庫”. コトバンク. 2021年8月14日閲覧。
  9. ^ 永嶺重敏 著「円本ブームと読者」、青木保ほか編 編『大衆文化とマスメディア』岩波書店〈近代日本文化論 7〉、1999年11月、p. 202頁。ISBN 4-00-026337-4 
  10. ^ 世相風俗観察会『増補新版 現代世相風俗史年表 昭和20年(1945)-平成20年(2008)』河出書房新社、2003年11月7日、36頁。ISBN 9784309225043 
  11. ^ 庄司淺水「日本の出版文化(二)」『本の五千年史 人間とのかかわりの中で』東京書籍、1989年4月、p. 191頁。ISBN 4-487-72215-2 
  12. ^ 高畠素之「出版戦、弱肉強食の弁」『昭和大雑誌 復録版 戦前篇』流動出版、1978年7月、p. 258頁。 
  13. ^ 牧野武夫『雲か山か 出版うらばなし』中央公論社、1976年、p. 24頁。 
  14. ^ 『読書子に寄す』:新字新仮名 - 青空文庫
  15. ^ 改造社の円本と岩波文庫創刊、知の狩人 知の旅人(近藤節夫ウェブサイト)、2009年5月29日。
  16. ^ 橋本由起子読書する〈大衆〉――円本ブームに現れた「大衆」のイメージ東京都江戸東京博物館〈東京都江戸東京博物館研究報告9号〉、2003年、p. 41頁http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/about/laboratory/page01.html 
  17. ^ 戦後60年に去来したブームたち 文芸・出版のブーム、月刊基礎知識 2005年2月号、自由国民社

関連項目[編集]

外部リンク[編集]