伊藤正己

伊藤 正己
いとう まさみ
日本学士院により
公表された肖像写真
生年月日 (1919-09-21) 1919年9月21日
出生地 日本の旗 兵庫県[1]
没年月日 (2010-12-27) 2010年12月27日(91歳没)
死没地 日本の旗 東京都
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京帝国大学法学部卒業

任期 1980年1月19日 - 1989年9月20日
テンプレートを表示
いとう まさみ
伊藤 正己
生誕 (1919-09-21) 1919年9月21日
日本の旗 兵庫県[1]
死没 (2010-12-27) 2010年12月27日(91歳没)
日本の旗 東京都
居住 日本の旗 日本
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
国籍 日本の旗 日本
研究分野 法学
研究機関 専修大学
東京大学
コロンビア大学
出身校 東京帝国大学法学部卒業
主な業績 言論・出版の自由
関する研究
主な受賞歴 日本学士院賞1960年
プロジェクト:人物伝
テンプレートを表示

伊藤 正己(いとう まさみ、1919年9月21日 - 2010年12月27日)は、日本法学者英米法憲法)、裁判官位階正三位勲等勲一等学位法学博士東京大学1960年)。東京大学名誉教授文化功労者の表記は「正」であり、「正」や「正」は誤り。専門書でも誤記されることがある[2]司法省調査課嘱託専修大学法学部非常勤講師法務庁調査意見局調査員、東京大学法学部教授、東京大学法学部学部長最高裁判所判事日本育英会会長財団法人国際科学技術財団会長などを歴任した。末延三次門下。弟子に、樋口範雄など。

概要[編集]

兵庫県出身[1]法学者である。専門は英米法憲法で、とりわけ表現の自由プライバシーの関係性を研究した。司法省の調査課に嘱託として勤務したのち、専修大学で教鞭を執った。その後、法務庁の調査意見局にて調査員として勤務したのち、東京大学で教鞭を執り、法学部学部長や、総長特別補佐など、要職を歴任した。1980年には最高裁判所判事に就任した。晩年には日本学士院の会員に選任され、第一部の部長幹事を務めた。2010年12月27日[3]

来歴[編集]

生い立ち[編集]

兵庫県出身。神戸一中[4]一高東京帝国大学法学部卒業。戦時中は特別研究生に選ばれ、徴兵を免れたほどであった。1954年から米ハーバード大学スタンフォード大学に留学。

裁判官として[編集]

最高裁判事としては、吉祥寺駅ビラ配布事件判決において、補足意見の中で示した「パブリックフォーラム論(公共場所を表現活動に利用する場合の利害調整)」など自己の専門分野を生かし、ハードコア・ポルノは憲法上の保護を受けないとする補足意見、囚われの聴衆事件では電車内の商業宣伝放送を聞かされることがプライバシー侵害になる可能性を示した補足意見などを記した。

大阪空港訴訟では、夜間離着陸の差し止めを認めず、過去の騒音損害のみ賠償を認めた法廷意見に「行政事件の公権力行使として、抗告訴訟で救済を求めるべき」とする補足意見を付した。サラリーマン税金訴訟では、「サラリーマンにも必要経費はあるが、給与所得控除の中に概算的に含まれており、事業所得者と比べ不公平ではない」とする法廷意見に「サラリーマンの実際の経費が給与所得控除を超えた場合、その制度で課税するのは合理性を欠き違憲」とする補足意見を付した。

殉職自衛官の護国神社合祀を合憲とした自衛官護国神社合祀事件の多数意見に対し「司法が精神的自由を考える場合は少数者保護の視点が必要であり、宗教上の心の静穏を要求することも法的保護に値する。自衛隊の行為は違憲」とする反対意見。北方ジャーナル事件(中傷表現を含む出版物の事前差し止め)で、本件は例外的差し止め要件に該当して合憲とした法廷意見に「例外にこのような厳格な要件を求めると、事前差し止めが著しく制限される。公的人物(立候補者)の場合は原則として事後制裁とするほかない」とする補足意見を付した。

表現の自由などの精神的自由権は尊重する姿勢を通していたが、堀木訴訟では多数意見に立った。

退官のとき「先輩には、補足意見は無駄な独り言だと言われもしたが、学者として言っておきたいことがあった」と語った。

2010年12月27日、呼吸不全のため東京都新宿区の病院で死去[3]。91歳没。没後に日本政府から正三位を追叙された[5]

主要な判決[編集]

  • 自衛官護国神社合祀事件[6] - 1968年(昭和43年)1月、陸上自衛隊岩手地方連絡部の二等陸尉Aが釜石市で公務中、交通事故に遭い、殉職した。クリスチャンの妻Bが遺骨を教会に納骨したところ、自衛隊の隊員が山口県護国神社に合祀するので、書類を渡して欲しいと求めたが、Bが拒否した。すると、隊友会山口県支部が申請者となって山口県護国神社に合祀した。そこで、Bが国家と隊友会山口県支部を相手どって慰謝料100万円の支払いを請求した。争点は国の合祀する行為が憲法20条が定める信教の自由に違反し、民事上の請求権として認めるかどうかという点にあった。最高裁判所は、15人中14人がBの請求を棄却する判断をした中、伊藤正己のみが請求を認めるべきだとの少数意見を述べた。

パブリック・フォーラム論[編集]

公園、広場、公会堂、道路などの公の施設は、それぞれ本来の目的をもっているが、同時に集会により一定の表現を行う場所としても有用である。これらを「パブリック・フォーラム」と呼ぶ。

いわゆる「パブリック・フォーラム論」とは、パブリック・フォーラムにおいては、所有権やその本来の利用目的のための管理権に基づく制限を受けざるを得ないとしても、憲法21条の保障する集会の自由に可能な限り配慮する必要があるとする理論である[7]

伊藤正己の「パブリック・フォーラム論」は、アメリカで発展したそれと異なる次元の理論であるため注意を要する。

家族・親族[編集]

弟に伊藤正元住友商事社長。

略歴[編集]

  • 1919年 - 兵庫県生まれ[1]。後に兵庫県立第一神戸中学校を経て第一高等学校入学
  • 1943年 - 東京帝国大学法学部卒業、高等試験司法科合格、東京帝国大学特別研究生前期入学
  • 1945年 - 東京帝国大学特別研究生後期入学
  • 1946年 - 司法省調査課嘱託
  • 1947年 - 専修大学法学部兼任講師
  • 1948年 - 法務庁調査意見局調査員
  • 1948年 - 東京大学助教授就任
  • 1957年 - 東京大学教授昇格(1970年11月1日-1972年10月31日 東京大学法学部長併任、1973年東京大学総長特別補佐)
  • 1960年 - 東京大学で法学博士学位を取得 論文の題は「言論・出版の自由」[8]
  • 1967年 - コロンビア大学法科大学院客員教授
  • 1980年1月19日 - 最高裁判所判事に就任(第三小法廷)
  • 1989年9月20日 - 最高裁判所判事を定年退官
  • 1990年1月1日 - 日本育英会会長に就任
  • 1990年2月12日 - 日本学士院会員就任
  • 1993年1月1日 - 日本育英会会長に再任
  • 1993年4月29日 - 勲一等旭日大綬章受章
  • 1994年11月12日 - 国際科学技術財団会長(2004年11月12日まで)
  • 1995年12月31日 - 日本育英会会長任期満了
  • 1999年11月3日 - 文化勲章受章
  • 2010年12月27日 - 呼吸不全により死去[9][3]
  • 2011年2月2日 - 正三位追叙の官報告示(日付は逝去日の2010年12月27日)

役職[編集]

  • 社団法人国際商事法研究所特別顧問

著書[編集]

  • 『裁判所侮辱の諸問題 アメリカの立法と判例を中心として』有斐閣 1949
  • 『イギリス公法の原理』弘文堂(法原理叢書) 1954
  • 『法の支配』有斐閣 1954
  • 『言論・出版の自由 その制約と違憲審査の基準』岩波書店 1959
  • 『近代法の常識』有信堂(文化新書) 1960
  • 『言論の自由を守るために』有信堂(文化新書) 1961
  • 『アメリカ法入門』日本評論新社 1961
  • 『プライバシーの権利』岩波書店 1963
  • 『憲法の研究』有信堂 1965
  • 『憲法入門』1966 (有斐閣双書)
  • 『現代社会と言論の自由』有信堂 1974
  • 『イギリス法研究』東京大学出版会 1978
  • 『社会生活と法 社会あるところに法がある』旺文社(テレビ大学講座)1979
  • 『憲法』弘文堂(法律学講座双書)1982
  • 『裁判官と学者の間』(有斐閣、1993年、OD版2001年)

共編著[編集]

翻訳[編集]

  • 『米国連邦破産法』法務府法制意見第四局(法務資料)1950
  • P・G・ヴィノグラドフ『法における常識』末延三次共訳 岩波書店 1951 のち文庫
  • フィーフット『イギリス法 その背景』東京大学出版会 1952
  • K.C.ウィーア『現代の憲法』小堀憲助共訳 勁草書房 1954
  • ロード・アルフレッド・デニング『裁判と正義』児島武雄共訳 紀伊国屋書店 1957
  • デュルガ・ダス・ベイシュ『基本的人権の制限 とくにアメリカ,インド及び日本の憲法に関連させて』憲法調査会事務局 1959
  • A.V.ダイシー『憲法序説』田島裕共訳 学陽書房(社会科学古典選書) 1983

脚注[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 「伊藤正己先生略歴」『アメリカ法 2011 1号』p22によれば大阪府大阪市出身
  2. ^ 小山剛駒村圭吾編『論点探究憲法』弘文堂 2005年冒頭ix頁で「正」、佐藤幸治『日本国憲法論』 成文堂 2011年 509頁、 安西文雄ほか『憲法学の現代的論点』 有斐閣 2006年 267頁 註16(巻美矢紀執筆)、木下智史『人権総論の再検討』日本評論社 2007年 6頁 註14、樋口陽一編『講座憲法学3権利の保障【1】』日本評論社1994年 267、268頁(奥平康弘発言)で「正」など
  3. ^ a b c 伊藤正己氏死去 元最高裁判事 - 47NEWS(よんななニュース) - archive.today(2013年4月30日アーカイブ分)
  4. ^ 『日本近現代人物履歴事典』 秦郁彦 東京大学出版会 2002年 より
  5. ^ 勲記は逝去日の平成22年12月27日付。官報 平成23年2月2日付本紙9頁。
  6. ^ 最高裁昭和63年6月1日大法廷判決・民集42巻5号277頁
  7. ^ 伊藤正己『憲法 第3版』(弘文堂)P.297参照
  8. ^ 博士論文書誌データベース
  9. ^ 以上につき「伊藤正己先生略歴」『アメリカ法 2011 1号』日米法学会 p22以下

関連項目[編集]

外部リンク[編集]