伊藤典夫

伊藤 典夫(いとう のりお、1942年10月5日 - )は、日本翻訳家、SF研究家、アンソロジスト。

静岡県浜松市出身。早稲田大学第一文学部仏文科中退。日本SF作家クラブ名誉会員。

10代で商業誌に翻訳を載せた早熟の翻訳家である。1960年代に『SFマガジン』誌に連載した「SFスキャナー」などを通じて海外SFを精力的に日本に紹介するとともに、今日にいたるまで多数の名作を翻訳して、戦後の日本におけるSFの発展に尽力した。

経歴[編集]

高校時代に、大阪出身で浜松で就職していた浅倉久志とSFファン活動を通して知り合う。のち、SF翻訳家として先んじてデビューした伊藤の紹介により、浅倉もSF翻訳家となる。

SFに熱中するあまり大学受験に失敗し、浪人して横浜国立大学早稲田大学に合格したが「横浜より東京の方が洋書専門店が多い」という理由で早稲田に進学した[1]ワセダミステリクラブにて、のちのミステリ翻訳家大井良純や編集者戸川安宣(戸川は立教ミステリ・クラブ)らと交流[2]。1962年、リチャード・マシスン「男と女から生まれたもの」の翻訳が「S-Fマガジン」に掲載され翻訳家デビュー[3]

早稲田大学在学中、19歳のとき『宇宙塵』誌上で三島由紀夫のSF小説『美しい星』を酷評し、三島を激怒させたことがある[4]。なお、このとき伊藤の批評を三島に知らせた北杜夫によると、伊藤に憤慨した三島は、かつて『宇宙塵』第71号に随想「一S・Fファンのわがままな希望」を寄せたことを悔やんで「あんな雑誌、書かなきゃよかったな」と発言したという[5]

また、大学時代は神保町の古本街で、SFの原書を探し回るのを野田昌宏と競いあい、「どうもライバルがいるらしい」ということで知り合いになった。

一の日会」などSFファンダムでも活動。また、1966年2月から、筒井康隆平井和正豊田有恒大伴昌司と共同で[6]、SFプロ作家の評論を掲載する同人誌『SF新聞』を刊行したが、数号で休刊となった[7]野田昌宏と、SF書誌を研究する会「SFセミナー」を結成していたこともある[8]。1970年の第9回日本SF大会TOKON5では実行委員長を、1980年の第19回日本SF大会TOKON7では名誉実行委員長をつとめた。

本業の翻訳以外では、パロディ的なギャグ文を得意とし、1960年代には水野良太郎豊田有恒広瀬正小鷹信光片岡義男(テディ片岡)、しとうきねおらとユニット「パロディ・ギャング」を組んで活動した。また、筒井康隆編集の雑誌「面白半分」に、「世界文学名作メチャクチャ翻訳」を連載した。ハーラン・エリスン編のアンソロジー『危険なヴィジョン』の訳者あとがきでは、新井素子の文体模写を行った。また、筒井康隆のドタバタSF『色眼鏡の狂詩曲』(1968)では、ほぼ本人そのままの設定で(名前は江藤典磨)主要登場人物となっている。筒井とは仲が良く、1971年には『SF教室』を共著した。

映画『スター・ウォーズ』に熱狂したことでも知られ、「スター・ウォーズ過激派」と自称し、日本公開前の同作品を観るだけのために渡米し、「俺はもう○回観た」と過激派仲間と自慢しあった。

批評家としての伊藤の業績を評価する上で欠かせないのが、かつて『SFマガジン』誌上で連載された名物コラム「SFスキャナー」である。このコラムは、『SFマガジン』1964年1月号から「マガジン走査線」の表題で連載がスタートし、翌1965年の2月号から「SFスキャナー」へと名称を変更[注 1]、以後1970年10月号まで伊藤が執筆を担当し続けた。

1970年代以降、SF文化が「浸透と拡散」(筒井康隆)をとげ、さらにインターネットを通じて情報・商品が容易に入手できるようになった昨今ではもはや想像だに困難であるが、第二次大戦後、国内でのSFの商業出版がようやく軌道にのりはじめた1960年代にあっては、平均的なSF読者にとって、伊藤の手がけた「SFスキャナー」こそが最新の英米SF事情を知るための主要な情報源であった。

この連載がいかに多くの労を執筆者に強いるかについては、のちに伊藤の後を受けて連載を引きついだ一人である浅倉久志が、次のような率直な証言を残している。

SFマガジンの初期、伊藤典夫さんの海外SF紹介コラム〈SFスキャナー〉を愛読したSFファンは数多い。この人気コラムは、〈マガジン走査線〉という題名だったころから数えると、一九六四年から七〇年までつづいたが、伊藤さんが新しい連載SF評論にとりかかるため、ついに選手交代ということになった。当時の編集長の森優(南山宏)さんのお声がかかったのは、岡田英明(鏡明)さんと団精二(荒俣宏)さん、それにぼくの三人。輪番制で三ヵ月に一度コラムを担当することになったが、なにしろ一回分が十六枚という、当時のぼくにとっては未曾有の長さ。しかも、せっかく読んだ新刊が、つまらなくて紹介不能というケースも多々あり、この仕事を毎月[原文傍点強調]七年間もつづけていた前任者の偉大さに驚嘆するばかり。十一回で息が切れてお役御免にしてもらい、あとは風見潤さんが引き受けてくれることになった。[9]

戦後のわが国への英米SFの翻訳紹介において、伊藤典夫の功績は浅倉久志のそれとならんで双璧をなすとの評価がある。だが、この2人の仕事ぶりは、一面において対照的ともいえる。つまり、浅倉が翻訳者としての全キャリアを通じて締め切りの約束を律儀に遵守しながらコンスタントに翻訳の仕事を続けていったのに対して、伊藤は、翻訳対象が自身にとって関心の深い作品であればあるほど、出版期限を度外視してでも、得心のゆくまでとことん読解に時間をかけることで知られている。

一例を挙げれば、サミュエル・R・ディレイニー『ノヴァ』の翻訳は、1970年代にすでに出版が予告されていながら、じっさいに刊行されたのは1988年になってであった。同様に、1996年に翻訳出版された同著者の『アインシュタイン交点』も、じつに「20年がかりの仕事」(加藤弘一)となった。

翻訳作業の前提条件として、対象作品に対する読み込みの深さと正確さとを真摯に追求する、もはや学究的ともいえるこの熱意は、幾多の名訳を生み出す原動力となる一方で、伊藤が翻訳を担当した作品は予定の期日をすぎても一向に出版されないという弊害を生んだ。

翻訳作品の出版とはいささか事情が異なるが、前述のように伊藤は1960年代以降、英米SFのレヴューアーとして活躍し、海外作品の発掘・紹介に卓越した手腕を発揮した。その活動のエッセンスを示すものとして『伊藤典夫評論集』の刊行がすでに長期にわたり予告(当初は東京創元社、のち国書刊行会)されているものの、いまだ日の目を見るにはいたっていない[注 2]

日本SF作家クラブ会員だったが、2013年、他のベテランSF作家らとともに名誉会員に[10]

共著[編集]

責任編集[編集]

  • 世界のSF文学・総解説(石川喬司と共同で責任編集、後の新版は伊藤単独責任編集) 自由国民社 1978年
  • SFベスト201 (編) 新書館 2005年

翻訳[編集]

アンソロジー編集[編集]

  • 世界SF全集32 世界のSF 現代篇 (福島正実と共編) 早川書房 1969年
  • 世界SF全集31〈世界のSF〉古典編 福島正実野田昌宏と共編 早川書房 1971年
  • 吸血鬼は夜恋をする (マシスン他、編訳) 文化出版局 1975年
  • 夢の中の女―ロマンSF傑作選 (石川喬司と共編)ベストブック社 1976 のち旺文社文庫
  • ファンタジーへの誘い (編) 講談社文庫 1977年
  • 冷たい方程式 SFマガジン・ベスト1 (トム・ゴドウィン他、浅倉久志と共編) ハヤカワ文庫 1980年
  • 空は船でいっぱい SFマガジン・ベスト2 (シオドア・スタージョン他、浅倉久志と共編) ハヤカワ文庫 1980年
  • スペースマン 宇宙SFコレクション1 (浅倉久志と共編) 新潮文庫 1985年
  • スターシップ 宇宙SFコレクション2 (浅倉久志と共編) 新潮文庫 1985年
  • タイム・トラベラー 時間SFコレクション (浅倉久志と共編) 新潮文庫 1987年
  • 冷たい方程式 (トム・ゴドウィン他、上記同題アンソロジーとは別編集、編訳) ハヤカワ文庫 2011年
  • 海の鎖 ガードナー・R・ドゾワ他 編訳 国書刊行会(未来の文学) 2021年

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ちなみに、この「新連載」第1回目でとりあげられたのは、カート・ヴォネガット・ジュニアタイタンの妖女』であった。
  2. ^ なお、1970年代後半の奇想天外社の刊行予告では、伊藤典夫著『SFファンサイクロペディア(仮題)』が予告されていた。

出典[編集]

  1. ^ 豊田有恒『あなたもSF作家になれるわけではない』p.192(徳間文庫1986年
  2. ^ [1]2013年9月21日閲覧
  3. ^ 『なぜSFなのか?』(奇想天外社)P.200
  4. ^ 最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』p.316(新潮社、2007年) ISBN 9784104598021
  5. ^ 北杜夫『人間とマンボウ』(中公文庫)所収「表面的な思い出など─三島由紀夫氏」
  6. ^ 『THE 筒井康隆』(有楽出版社)P.60
  7. ^ 『柴野拓美SF評論集』(東京創元社)巻末の牧眞司の解説P.572
  8. ^ 『柴野拓美SF評論集』(東京創元社)P.572
  9. ^ 浅倉久志『ぼくがカンガルーに出会ったころ』p.250(国書刊行会、2006年) ISBN 4336047766
  10. ^ 『日本SF短篇50(1)』早川書房