伊号第三十潜水艦

伊号第三十潜水艦
伊30がロリアンに入港した際の様子
基本情報
建造所 呉海軍工廠
運用者  大日本帝国海軍
艦種 一等潜水艦
級名 伊十五型潜水艦
建造費 14,190,000円(予算成立時の価格)
艦歴
計画 第四次海軍軍備補充計画(④計画
起工 1939年6月7日
進水 1940年9月17日
竣工 1942年2月28日
最期 1942年10月13日触雷沈没
除籍 1944年4月15日
その後 1959年8月浮揚
1960年2月解体
要目
基準排水量 2,198トン
常備排水量 2,584トン[1]
水中排水量 3,654トン
全長 108.7m
最大幅 9.30m
吃水 5.14m
機関 艦本式2号10型ディーゼルx2基
推進 2軸
出力 水上:12,400馬力
水中:2,000馬力
速力 水上:23.6kt
水中:8.0kt
燃料 重油:774トン[2]
航続距離 水上:16ktで14,000海里
水中:3ktで96海里
潜航深度 安全潜航深度:100m
乗員 94名[3]
兵装 40口径十一年式14cm単装砲x1門
九六式25mm連装機銃x1基2挺
九五式53cm魚雷発射管x6門(艦首6門)/九五式魚雷x17本
搭載機 零式小型水上偵察機x1機
呉式1号4型射出機x1基
ソナー 九三式探信儀x1基
九三式水中聴音機x1基
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伊号第三十潜水艦(いごうだいさんじゅうせんすいかん、旧字体:伊號第三十潜水艦)は、大日本帝国海軍伊十五型潜水艦(巡潜乙型)11番艦。第一次遣独潜水艦として有名。

当初は伊号第三十五潜水艦と命名されていたが、1941年昭和16年)11月1日に伊号第三十潜水艦と改名されている[4]

艦歴[編集]

1939年昭和14年)の第四次海軍軍備補充計画(④計画)により、1939年6月7日に呉海軍工廠で起工。1940年(昭和15年)9月17日に進水し、1942年(昭和17年)2月28日に竣工した。竣工と同時に呉鎮守府籍となり、第14潜水隊に編入された。

3月10日、第14潜水隊は第8潜水戦隊に編入。

4月11日、伊30はを出港。16日、伊10、第1潜水隊と共に甲先遣隊を編成。20日にペナンに到着し、22日にペナンを出港。5月7日早朝、アデンを航空偵察。8日夜にはジブチを航空偵察するが、搭載機が発見されて対空砲火を受けた。19日にはザンジバルダルエスサラームを飛行偵察し、停泊中の輸送船1隻、出港中の4,000トン級輸送船を報告。着水時に搭載機のフロート1つが破損するも、機はそのまま収容された。20日、モンバサを潜望鏡偵察。24日夜にはディエゴ・スアレスを潜望鏡偵察。6月17日、特設巡洋艦報国丸(大阪商船、10,438トン)、愛国丸(大阪商船、10,437トン)と合流し、燃料補給を受け、第1次訪独潜水艦として、零式水上偵察機九一式航空魚雷の設計図、八九式空気魚雷14本、零式水上偵察機シェラック660キロ、雲母840キロを積んで枢軸国の友邦であるドイツへ向かった。「伊30潜」の暗号名は「モミ」であった[5]

大西洋へ向かう際に通過した吠える40度と呼ばれる海域では排気口からの海水の流入によるエンジン故障が発生[6]。6月30日には南アフリカ空軍の偵察機に発見されるも、被害を受けることなく離脱することに成功[要出典]。アゾレス諸島近海では8月2日に敵機の攻撃を受けるも甲板の板がはがれる程度で済んだ[7]。8月6日、ロリアンに到着[8]。同地でUボートと同じ灰色迷彩塗装が施された[要出典]。また、96式連装対空機銃が取り外され、かわりに電波探知機「メトックス」、エリコン20ミリ四連装機銃が装備された[要出典]

「伊30潜」は電子兵器(ウルツブルクレーダーなど)4、エニグマ暗号機50台、魚雷発射誘導装置1、魚雷用爆薬50kg、輸送品67箱を積み、魚雷3本、零式水上偵察機1機、航空魚雷の設計図等をドイツ側に引き渡した[9]

8月22日、ロリアン発[10]。10月8日、ペナンに到着[10]。エニグマ暗号機10機のシンガポールへの陸揚げを命じられ、10月10日にペナンを発して10月13日にシンガポールに到着[11]。エニグマ暗号機を陸揚げした「伊30潜」は、同日出港直後に触雷して沈没した[12]。死者14名[12]

この触雷の原因は、機雷を除去した安全な航路が変更されていたにもかかわらず、遣独作戦中に変更された暗号による暗号文でこの航路変更が伝えられていたため、イ30がこのことを把握していなかったことによるという[13]

海軍は搭載物の引き揚げを図り、20ミリ機銃弾のほとんどと魚雷発射誘導装置、ウルツブルク射撃管制レーダーの設計図等を回収したが、多くの荷物は破壊され、最も重要な積荷であったウルツブルク射撃管制レーダーも破損してしまった。

1944年(昭和19年)4月15日に除籍された。

戦後の1959年(昭和34年)8月に北星船舶工業により浮揚され、設計図なども有効に活用された。その後、1960年(昭和35年)2月にかけて解体された。

犠牲者数[編集]

  • 『消えた潜水艦イ52』では14人。 P108
  • 『海軍技術研究所』では13人。 P128
  • 『深海の使者』では13人。 P50

歴代艦長[編集]

※『艦長たちの軍艦史』408頁による。

艤装員長[編集]

  • 河野昌通 少佐:1941年10月31日[14] - 1942年2月25日[15]

艦長[編集]

  • 河野昌通 少佐:1942年2月25日[15] -
  • 遠藤忍 中佐:1942年2月28日 -

脚注[編集]

  1. ^ 常備排水量:2,589トンとする資料もある。
  2. ^ 燃料搭載量は『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』より。752.6トンとする資料もある。
  3. ^ 乗員数は『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』より。
  4. ^ 昭和16年11月1日付 海軍達 第333号。「昭和16年7月~12月 達(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C12070111100 
  5. ^ 消えた潜水艦イ52、101ページ
  6. ^ 消えた潜水艦イ52、102-103ページ
  7. ^ 消えた潜水艦イ52、103-104ページ
  8. ^ 消えた潜水艦イ52、104ページ
  9. ^ 消えた潜水艦イ52、104-106ページ
  10. ^ a b 消えた潜水艦イ52、106ページ
  11. ^ 消えた潜水艦イ52、106-107ページ
  12. ^ a b 消えた潜水艦イ52、108ページ
  13. ^ 『消えた潜水艦イ52』107頁
  14. ^ 海軍辞令公報(部内限)第737号 昭和16年10月31日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082900 。伊号第三十五潜水艦艤装員長。
  15. ^ a b 海軍辞令公報(部内限)第818号 昭和17年2月28日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072084300 

参考文献[編集]

  • 新延明/佐藤仁志(著)『消えた潜水艦イ52』、日本放送出版協会、1997年、ISBN 4-14-080307-X
  • 中川靖造(著)、『ドキュメント海軍技術研究所』、日本経済新聞社 1987年6月
  • 吉村昭(著)、『深海の使者』、文春文庫 1976年4月、ISBN 978-4-16-716901-5
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第12巻 潜水艦』光人社、1990年。ISBN 4-7698-0462-8
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • 福井静夫『写真日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1

関連項目[編集]