上田耕夫

上田 耕夫(うえだ こうふ、1760年宝暦10年) - 1832年3月15日天保3年2月13日[1]))は、日本江戸時代後期の絵師円山応挙門人。応挙十哲には入っておらず、他の応挙門人と比べても知られているとは言い難いが、江戸後期から幕末期の京都から大坂を中心に活躍し、当時はかなり名の知られた絵師であった。

略伝[編集]

大坂池田出身。本姓は坂上氏、姓は上田。名は莘。字は清茱[2]、号は清水、耕夫。別号に清来、莘野、撲守など[3]。池田の北ノ口、現在の池田市木部から新町にあたる豪農の出だと言われる。

田能村竹田が記した『竹田荘師友画録』によると、「村瀬栲亭と交流深く、栲亭の家とそれほど遠くなかった。栲亭は常に門を閉じて出歩かなかったが、ただ耕夫が招くと出かけて行った。耕夫の性格は奢侈で、牡丹を数十種類植え、花の盛りには簾や幕を張って大変華やかだった。多くの文人達を迎えて、終日飲み楽しんだ。画は与謝蕪村を好み、その画風を学んだ。画境を極めるのに大いに苦心を重ねたが、京派の画風にとらわれずに別に一派を成した。晩年大阪に移った。聞くところによると昨年亡くなった」とある。栲亭だけでなく、柳沢淇園上田秋成中島棕隠とも交流した。

60歳の時生まれた息子・上田耕冲(こうちゅう)、その子上田耕甫も絵師。墓所は東大阪市の妙徳寺だが、現在耕夫や息子耕冲の墓は見出し得ない。画風は、初期は応挙風で、次第に蕪村・呉春風が加味されていく。花鳥画を得意としたが、風景画、真景図でも単なる写生でない穏やかな画趣を見せている。

代表作[編集]

作品名 技法 形状・員数 寸法(縦x横cm) 所有者 年代 落款・落款 備考
菊慈童図 絹本著色 1幅 103.8x42.4 ボストン美術館[4] 1791年(寛政3年)
バラに雉図 絹本著色 1幅 98.4x37.5 ボストン美術館[5] 款記「耕夫」/白文方印2顆
鶴蘭図 絹本著色 1幅 個人 1800年(寛政12年)夏 村瀬栲亭序・賛
高峰東晙像 絹本著色 1幅 104.6x43.6 両足院[6] 1801年(享和元年) 無款記/「上田華印」白文方印・「耕夫氏」白文方印 自賛。高峰東晙は江戸時代中期の両足院を代表する学僧で、本作と同年に亡くなっている。
柳影舟中納涼図 関西大学図書館
雲中百寿図 関西大学図書館
富士山図 大阪市立美術館
高砂図 豊中市教育委員会
富士山中図巻 紙本著色 1巻 個人(静岡県立美術館寄託 18世紀 原在正筆「富士山図巻」14巻とセットで、第15巻目として同じ箱に収められている。小泉斐の作品を写したもの。村瀬栲亭の跋文には、画僧白雲らが松平定信の命を受けて富士山に登り、制作したスケッチが原本だと記されているが、真偽は不明。大坂の廻船問屋で辰巳屋の屋号をもつ和田隆侯の依頼によって制作された[7]
名所百景図画帖 2帖150図 法楽寺
杜若河骨亀図 絹本著色 1幅 111.6x56 ボストン美術館[8]
瀧見山水図 絹本著色 1幅 池田市立歴史民俗資料館
鯉図 絹本著色 1幅 95.5X41.8 大英博物館[9] 款記「華野」/「華埜之印」白文方印・「耕夫」白文方印

脚注[編集]

  1. ^ 菩提寺の妙徳寺(東大阪市)が1931年(昭和6年)に作成した『墓籍簿』より。生年は、「許由巣父図」(広兼邸蔵)の款記から逆算。
  2. ^ 「清菜」とする文献もあるが、茱の読み間違いだと考えられる。
  3. ^ 別号に「鼎湖」とする本もあるが、単純な誤写だろう(木村(2005)p.28)。
  4. ^ Kikujido – Works – Museum of Fine Arts, Boston
  5. ^ Pheasant – Works – Museum of Fine Arts, Boston
  6. ^ 京都国立博物館編集・発行 『社寺調査報告28 両足院(建仁寺塔頭)』 2018年3月31日、p.54(画像無し)。
  7. ^ 静岡県立美術館編集・発行 『世界遺産登録記念 富士山の絵画展』 2013年9月7日、pp.102-103。
  8. ^ Irises, Water Plants, and Tortoise – Works – Museum of Fine Arts, Boston
  9. ^ Two carp swimming - British Museum

参考文献[編集]