ロイ・O・ディズニー

ロイ・O・ディズニー
Roy O. Disney
Roy O. Disney
本名 ロイ・オリヴァー・ディズニー
生年月日 (1893-06-24) 1893年6月24日
没年月日 (1971-12-20) 1971年12月20日(78歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 イリノイ州シカゴ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州バーバンク
国籍 アイルランド系アメリカ人
職業 プロデューサー
実業家
活動期間 1929–1971
配偶者 エドナ・フランシス
著名な家族

ロイ・E・ディズニー(長男)
ウォルト・ディズニー(弟)

ディズニー家を参照)
事務所 ウォルト・ディズニー・カンパニー
主な作品
ディズニー作品を参照
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ロイ・オリヴァー・ディズニーRoy Oliver Disney1893年6月24日 - 1971年12月20日)は、アメリカ合衆国実業家ウォルト・ディズニー・カンパニーの設立者の一人であり、ウォルト・ディズニーの兄。

略歴[編集]

アイルランド系カナダ人のイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの3番目の子としてシカゴで生まれた。一家は1896年にミズーリ州マーセリーンへ移り住み、その後1911年にはカンザスシティへ移り住んだ。そこでロイは家の畑で働いた他、弟のウォルトと共に新聞配達、兄のレイと共に銀行員として働くなどした。第一次世界大戦の最中である1917年、ロイはアメリカ海軍に志願し兵士となった。この時弟のウォルトも陸軍に志願したが、まだ若かったため彼は赤十字社衛生兵として従事した。しかし結核にかかってしまったため1919年に除隊。治療を行いながらロサンゼルスで銀行員として働いた。

その頃、弟のウォルトはカンザスシティでアニメーション制作を行なっていた。ウォルトが立ち上げたLaugh O'Gram Studio社へは次々とアニメーション制作の依頼が舞い込むが、制作に必死になるあまり資金繰りが乱雑になってしまったため、最終的にスタジオは倒産してしまう。この一連の出来事で経営面のサポートが不可欠だと感じたウォルトは、兄のロイの住むロサンゼルスに移り住んだ。1923年、ロイとウォルトはディズニー・ブラザーズ・スタジオを設立する。スタジオは後にウォルト・ディズニー・カンパニーと改名され、ロイは1929年から1971年までCEOを務めた。1925年にエドナ・フランシスと結婚し、1930年には息子である、ロイ・E・ディズニーが生まれた。

ミッキーマウス白雪姫といった世界的大ヒットとなるキャラクター・作品が発表され会社がどんどん大きくなる中で、ウォルトは創作の面で、ロイは経営の面で会社の拡大や事業の成功に貢献していった。1960年代に入ると高齢になったロイは引退を考え始めるが、1966年にウォルトが死去すると引退を延期し、ウォルトによって進められていたディズニー・ワールド計画を引き継ぐ。その後、ウォルトの功績を称えウォルト・ディズニー・ワールドと改名されたそのテーマパークは1971年10月1日に開業。その直後、同年12月20日に脳梗塞により78歳で死去。亡くなったのは、ロイが孫と一緒にディズニーランドに行こうとしていたまさにその日のことだった。遺体はハリウッドフォレスト・ローン記念公園に埋葬されている。

家族[編集]

人物像[編集]

弟のウォルト・ディズニーは創造的な人物であったが、ロイは会社を財政的に安定させた人物であった。ロイとウォルトは共同でウォルト・ディズニー・カンパニーを立ち上げたが、1929年にウォルトはロイの持分の大部分を買い取ろうとした。

また、ライバル会社であったフライシャー・スタジオ社のマックス・フライシャー、デイブ・フライシャー兄弟のようにプロデューサーとなることもなかった。

銅像[編集]

フロリダ州にあるマジック・キングダムウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート)、メインストリートUSAのタウンスクエアには、ミニーマウスの横に座っているロイの像がある。また、カリフォルニア州バーバンクのディズニー本部ビルの外や、東京ディズニーランド東京ディズニーリゾート)のワールドバザールにも同じものがある。

参考文献[編集]

  • ボブ・トーマス 『ディズニー伝説 天才と賢兄の企業創造物語』 山岡洋一・田中志ほり 訳、日経BP社、1998年。

外部リンク[編集]