ラグビー日本代表
ユニオン | 日本ラグビーフットボール協会 | ||
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愛称 | ブレイブ・ブロッサムズ ジャパン | ||
エンブレム | 桜 | ||
ヘッドコーチ | エディー・ジョーンズ(2012-2015, 2024-) | ||
最多キャップ | 大野均 (98cap) | ||
最多得点選手 | 五郎丸歩 (711点) | ||
最多トライ選手 | 大畑大介 (69回) | ||
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初国際試合 | |||
日本 4 - 3 カナダBC州 (1930年9月24日) | |||
最大差勝利試合 | |||
日本 155 - 3 チャイニーズタイペイ (2002年7月6日) | |||
最大差敗戦試合 | |||
ニュージーランド 145 - 17 日本 (1995年6月4日) | |||
ラグビーワールドカップ | |||
出場回数 | 10回 (1987年初出場) | ||
最高成績 | ベスト8 (2019) | ||
ワールドラグビーランキング | |||
直近 | 12位 (現在) | ||
最高 | 6位 (2019年10月19日) | ||
最低 | 20位 (2003年11月3日-2004年2月9日, 2004年3月1日-5月3日, 2006年6月19日-10月23日) |
ラグビー日本代表(ラグビーにほんだいひょう)は、日本ラグビーフットボール協会が組織するラグビーユニオンのナショナルチーム。愛称は「ブレイブ・ブロッサムズ」(Brave Blossoms)[注 1][1]。他のスポーツに先駆けて、1966年から現在まで略称として「ジャパン」と呼ばれ[2][3][4]、さらにヘッドコーチ名を冠し[5][6][7][8][9]「エディージャパン」などと呼ぶ。ファーストジャージは赤と白のストライプで、左胸に「全開の桜3弁」を配置し「桜のジャージ」と呼ばれる[10]。ワールドラグビーの最上位11か国の1つ「ハイパフォーマンスユニオン」に日本が位置する その根拠となる代表チームである[11][12][13]。日本代表に準じるセカンドチームに、「JAPAN XV(ジャパン・フィフティーン)」がある。
代表資格[編集]
国籍は関係ない[編集]
ラグビーでは、国の代表チームとしてプレーする際に、国籍は問われない[14][15]。代表資格は、ワールドラグビーのレギュレーション8条により、以下の4条件で規定されている。
- 当該国(日本)で出生している、または、
- 両親、祖父母の1人が当該国(日本)で出生している、または、
- プレーする時点の直前の60ヶ月間継続して当該国(日本)を居住地としていた、または、
- プレーする時点までに、通算10年間、当該国(日本)に滞在していた。
上記の規定は、過去に他の国での代表戦出場が無いことが前提となる。他国でのジュニア代表出場は不問。ただし、オリンピックおよびその予選の場合、ワールドラグビーの代表資格規定は該当せず、その国の国籍を持つ選手のみ(国籍主義)となる[16][17][18]。
帰化した選手が少なくない[編集]
「外国人選手が多い」という批判がある[15][19]が、日本は外見的特徴からそのように指摘されやすい。他の国のラグビー代表チームも同様に、異なる国の出身者が多く含まれる[注 2][20][21]。高校・大学時代から日本で生活し、日本に帰化(日本国籍を取得)している選手も少なくない[22][23][24][25][26][27]。なお、カタカナだけの氏名であっても、姓と名の表記の間に「・」が無い選手は、日本国籍を持つ者である(戸籍に記号は使えないため)[28]。ただし、一部メディアにおいては帰化選手であっても「・」を入れて報道される[29][30][31][32]。
南太平洋諸国に配慮した新条件[編集]
また、2022年1月1日から、以下の基準を満たす場合に選手が一つの協会(国)から別の協会(国)へ変更できるようになった[33][34][35]。これは、フィジー、サモア、トンガなどの南太平洋の国々出身の選手(小さな島々の出身ということで「アイランダー」とも呼ばれる[36])が、活躍の場や経済力を求めて外国に行ってしまい、出身国のラグビー運営に支障が出ることへの配慮を主とする規約改正(生得権の枠組みの変更)である[37][38][36]。
- 36ヶ月間、ラグビーの国際試合に参加していない。
- 選手が移動を希望する国で生まれている、または親や祖父母のうち誰かがその国で生まれている。
- 選手は一度だけ協会を変更することができ、各ケースはワールドラグビーの承認が必要となる。
所属協会主義[編集]
国籍にとらわれない上述のルールは「所属協会主義」と呼ばれる。
ラグビー発祥の地イギリスは、サッカー同様、イングランド・スコットランド・ウェールズ・アイルランドの協会に分かれる。また、かつてイギリスは世界中に多くの植民地(南アフリカ共和国・フィジー・香港など)を持ち、現在もニュージーランド・オーストラリア・カナダなど英連邦王国は15か国ある。またアイルランド代表は、イギリスの北アイルランドと、アイルランドとの2か国による合同チームである。19世紀の終わり頃から、これら人的交流のなかでは、各国のラグビー代表を国籍でくくることが難しかった背景がある[21][39][40][41][42]。
直近の動向[編集]
8年ぶりのエディージャパン[編集]
- 2023年12月13日、日本ラグビーフットボール協会は次期ヘッドコーチにエディー・ジョーンズを8年ぶりに再就任させることを発表。任期は、2024年1月1日からワールドカップ2027までの4年間[43][44][45][46]。2023年12月14日の会見でエディー・ジョーンズ、は「超速ラグビー」を日本代表のテーマとして掲げ、「相手より速く走るだけではなく、速く考えて速く決断する。高校、大学、社会人と一貫した考え方をもって育成していくことが重要だ」と述べた[47][48]。
- 2024年1月15日の会見では、「超速ラグビー」を「日本の核となるアイデンティティーだ」と強調。日本人選手が目指すべき選手イメージとして、今期東京サントリーサンゴリアス在籍で南アフリカ代表WTBチェスリン・コルビ(身長172cm、体重80kg)、静岡ブルーレヴズで南アフリカ代表FLクワッガ・スミス(180cm、94kg)、東芝ブレイブルーパス東京でニュージーランド代表SOリッチー・モウンガ(176cm、83kg)の3人を挙げた[49]。また、「世界トップ4に入るには、勝率75%」と目標数値を示した[49]。
- 国内リーグワン2023-24シーズンは、2023年12月9日から2024年5月まで[50]。その後、日本代表チームが本格始動する。
- リーグワン途中の休養期間2月6日・7日に、「男子15人制トレーニングスコッド福岡合宿」を実施[51][52][53]。
2024年に行われるテストマッチ[編集]
日付 | 開始時間 | 対戦 | 会場 | 特記事項 | 備考 |
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6月22日(土) | 未定 | イングランド代表 vs 日本代表 | 国立競技場(東京) | リポビタンDチャレンジカップ2024 | [54] |
6月29日(土) | 未定 | マオリ・オールブラックス vs JAPAN XV(ジャパンフィフティーン) | 秩父宮ラグビー場(東京) | キャップ非対象 リポビタンDチャレンジカップ2024 | [54] |
7月6日(土) | 未定 | マオリ・オールブラックス vs JAPAN XV(ジャパンフィフティーン) | 豊田スタジアム(愛知) | キャップ非対象 リポビタンDチャレンジカップ2024 | [54] |
7月13日(土) | 未定 | ジョージア代表 vs 日本代表 | ユアテックスタジアム仙台(宮城) | リポビタンDチャレンジカップ2024 | [54] |
7月21日(日) | 未定 | イタリア代表 vs 日本代表 | 札幌ドーム(北海道) | リポビタンDチャレンジカップ2024 | [54] |
8月25日(日)17:00 日本時間26日(月)9:00 | パシフィックネイションズカップ カナダ代表 vs 日本代表 | バンクーバー(カナダ) | プール戦(B) | [55][56] | |
9月7日(土) | 未定 | パシフィックネイションズカップ アメリカ合衆国代表 vs 日本代表 | 埼玉(日本) | プール戦(B) | [55][56] |
9月14日(土) または 15日(日) | 未定 | パシフィックネイションズカップ プールA(フィジー/サモア/トンガ) vs 日本代表 | 東京(日本) | 準決勝 | [55][56] |
9月21日(土) | 未定 | パシフィックネイションズカップ 3位決定戦/決勝戦 | 大阪(日本) | ベスト4進出時 | [55][56] |
10月26日(土) | 未定 | オールブラックス vs 日本代表 | 日産スタジアム(神奈川) | リポビタンDチャレンジカップ2024 | [54] |
11月23日(土) または 11月24日(日) | 未定 | イングランド代表 vs 日本代表 | トゥイッケナム・スタジアム(ロンドン) | リポビタンDツアー2024 | [57] |
- 2024年9-10月、刷新されたパシフィックネイションズカップに参加。日本は、カナダ、アメリカとの3か国によるプール戦(2試合)の後、日本で開催される順位決定トーナメント(2試合)に進む[58][59][60]。
- 2024年11月にフランス代表とテストマッチを行うとの報道がある[61]。
- 2024年から2027年まで、オールブラックス、マオリ・オールブラックス、All Blacks XVと、日本で定期的な対戦を行う予定[62][62]。
- 2024年から2029年まで、ワラビーズ(オーストラリア代表)およびオーストラリアA代表との日本での定期的な対戦を行う予定[63]。
- 国内開催のテストマッチを、2024年度に11試合、2025年度に10試合、2026年度に10試合行う予定であることが、日本ラグビーフットボール協会から2023年7月9日に発表されている[64][65]。
新しい国際大会[編集]
2023年10月24日、ワールドラグビーは、上述「パシフィックネイションズカップ」刷新のほか、2026年からの男子新国際大会創設などを発表した[60]。
- 2026年からの男子15人制新大会 -2年に1度、欧州6か国(シックス・ネイションズ)と、南半球4か国(ザ・ラグビーチャンピオンシップ)に、2チームが新たに加わり、12か国の総当たり戦を行う。AFP通信などによると、日本とフィジーの参加が有力視されている[66][67]。2030年からは別の12チームによる下部リーグとの昇降格制度を始める[68]。
- ワールドカップ2027(2027年10月1日 - 11月13日)- 参加国を4つ増やし24か国とし、4か国ずつ6プールで行う。決勝ステージは、各プールの上位2か国(計12か国)が自動的に進出、3位チーム6か国のうち上位4か国を加え、合計16か国によるトーナメントとなる。これによりプール戦は4か国編成(各国3試合)となり、ワールドカップ2023より1週間短い6週間(7回の週末)へと大会期間が短縮され、各国とも約1週間の対戦間隔に揃う[69][70][58]。組み合わせ抽選は2026年1月[58]。
現在の日本代表選手[編集]
- リーグワン途中の休養期間2024年2月6日・7日に、「男子15人制トレーニングスコッド福岡合宿」を実施[51]。
- 新しい日本代表メンバーは、2024年5月にリーグワン2023-24シーズンが終了してから、発表・招集される見込み。
ワールドカップ2023 日本代表登録メンバー[編集]
「ラグビーワールドカップ2023 日本代表」の選手・スタッフの詳細は、当該ページを参照のこと。
スタッフ[編集]
日本代表スタッフ[編集]
2023年 日本代表スタッフ 所属も含め、2023年8月15日時点の情報[71]。ワールドカップ2023終了後、解散した。
役職 | 名前 | 所属 |
---|---|---|
ナショナルチームディレクター | 藤井雄一郎 | 日本ラグビーフットボール協会 |
ヘッドコーチ | ジェイミー・ジョセフ | 日本ラグビーフットボール協会 |
アシスタントコーチ | トニー・ブラウン | 日本ラグビーフットボール協会 |
アシスタントコーチ | 長谷川慎 | 日本ラグビーフットボール協会 |
アシスタントコーチ | ジョン・ミッチェル[72] | 日本ラグビーフットボール協会 |
アシスタントコーチ | リキ・フルーティ | 日本ラグビーフットボール協会 |
ストレングス&コンディショニング(S&C)コーチ | アンドリュー・ベードモア[73] | 日本ラグビーフットボール協会 |
アシスタントストレングス&コンディショニング(S&C)コーチ | 太田千尋[74] | 日本ラグビーフットボール協会 |
分析 | アンドリュー・ワッツ[75] | オタゴハイランダーズ |
分析 | 浜野俊平[76] | 日本ラグビーフットボール協会 |
ドクター | 高森草平[77] | 横浜南共済病院 |
パフォーマンスコーディネーター | カール・マクドナルド[78] | 日本ラグビーフットボール協会 |
アスレティックトレーナー | 濱野武彦[79] | 武蔵野アトラスターズ整形外科スポーツクリニック |
アスレティックトレーナー | 國次聡史[80] | 横浜市スポーツ医科学センター |
メンタルコーチ | デイビッド・ガルブレイス[81] | 日本ラグビーフットボール協会 |
通訳 | 吉水奈翁[82][83][84] | 日本ラグビーフットボール協会 |
チームマネージャー | 波多野恵介[85] | 日本ラグビーフットボール協会 |
アシスタントマネージャー | ジョシュ・ウェストブルック[86] | 日本ラグビーフットボール協会 |
ロジスティックマネージャー | 中村彰 | 日本ラグビーフットボール協会 |
チームメディアマネージャー | 津久井信介[87] | 日本ラグビーフットボール協会 |
チーム帯同シェフ | 西芳照 | DREAM24[88] |
ビデオグラファー | 中村拓磨[89] | 日本ラグビーフットボール協会 |
ワールドラグビー男子ランキング[編集]
上位30チーム(2024年3月18日時点)[90] | |||||
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順位 | 変動* | チーム | ポイント | ||
1 | 南アフリカ共和国 | 94.54 | |||
2 | アイルランド | 90.69 | |||
3 | ニュージーランド | 89.80 | |||
4 | フランス | 87.92 | |||
5 | イングランド | 85.75 | |||
6 | スコットランド | 82.82 | |||
7 | アルゼンチン | 80.68 | |||
8 | 1 | イタリア | 79.41 | ||
9 | 1 | オーストラリア | 77.48 | ||
10 | 2 | ウェールズ | 77.26 | ||
11 | フィジー | 76.38 | |||
12 | 日本 | 74.27 | |||
13 | ジョージア | 74.02 | |||
14 | サモア | 72.23 | |||
15 | 1 | トンガ | 71.57 | ||
16 | 1 | ポルトガル | 70.28 | ||
17 | ウルグアイ | 67.94 | |||
18 | アメリカ合衆国 | 67.39 | |||
19 | スペイン | 64.37 | |||
20 | ルーマニア | 61.66 | |||
21 | ナミビア | 60.90 | |||
22 | チリ | 60.56 | |||
23 | カナダ | 60.49 | |||
24 | 香港 | 59.80 | |||
25 | ロシア | 58.06 | |||
26 | スイス | 57.44 | |||
27 | オランダ | 57.29 | |||
28 | 1 | ベルギー | 55.89 | ||
29 | 1 | ブラジル | 55.37 | ||
30 | 1 | 韓国 | 53.46 | ||
*前週からの変動 | |||||
日本のランキングの推移 | |||||
生のグラフデータを参照/編集してください. | |||||
出典: ワールドラグビー[90] 推移グラフの最終更新: 2024年3月18日 |
毎週月曜の日中(アイルランド時間。日本時間では同日夜)までに ワールドラグビーが発表するデータにもとづく。ワールドカップ中は毎日ランキングが更新されるが、右表の元データは週1回の更新となる。
ホームでの敗戦(アウェイでの勝利)では、ポイントが大きく動く[91]。また、ワールドカップ時は、通常テストマッチの2倍ポイントが動く。このシステムは2003年10月に日本は18位から始まり、直後に開催のワールドカップ2003で全敗したため20位に落ちた。
日本代表の過去最高ランクは、ワールドカップ2019準々決勝南アフリカ戦の前日、2019年10月19日(土)に記録した6位[92][93][94]。翌日、南アフリカに敗れて8位になった[95]。
新型コロナウイルス感染症の世界的流行の2020年は、強豪国が早期にテストマッチを再開したが、日本はこの年まったく試合を行なわず、2020年11月16日付けで10位に落ちた。
2023年7月24日付けで10位から12位へ落ちた。12位サモアにホームで敗戦したため[96][97]。2016年11月7日付け以来、6年9か月ぶり[98]。8月7日付けで、秩父宮ラグビー場でフィジーに敗れた[99]ため14位に転落。2015年8月31日付け以来約8年ぶり。
2023年9月25日付けで、不振ジョージア[100]と入れ替わり、13位に浮上。9月28日にワールドカップ2023プール戦でサモアに勝利し12位となった。
日本代表のテストマッチは、2024年6月22日イングランド戦(国立競技場)から再開。それまでは、他国の上下によりランキングが変動する。
対戦相手別 テストマッチ勝敗表[編集]
1930年から現在までの全テストマッチ(国代表どうしの試合)を対戦相手ごとに集計した。現在ではテストマッチ扱いにしない対戦相手(XV・Aなどの二軍チーム、学生・U23などの若年チームなどの限定チーム)について、1989年までは日本側だけがテストマッチ扱いにしていた[101]ことに留意されたい。
黄色背景は、「ティア1(tier 1)」[注 3]の国代表チーム[102]。濃いグレー背景は、国代表チームではないもの(現在ではほぼテストマッチ扱いにならないもの[注 4])。
2023年10月8日アルゼンチン戦(ラグビーワールドカップ2023)までを反映。
対戦相手 | 試合数 | 勝 | 負 | 分 | 勝率 | 対戦 最終年 |
---|---|---|---|---|---|---|
アイルランド | 12 | 1 | 11 | 0 | 8.3% | |
アイルランド学生選抜 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0% | |
アメリカ合衆国 | 24 | 10 | 13 | 1 | 41.7% | |
アラビアンガルフ | 3 | 3 | 0 | 0 | 100% | |
アラブ首長国連邦 | 3 | 3 | 0 | 0 | 100% | |
アルゼンチン | 7 | 1 | 6 | 0 | 14.3% | |
イタリア | 9 | 2 | 7 | 0 | 22.2% | |
イングランド | 4 | 0 | 4 | 0 | 0% | |
イングランドXV | 7 | 0 | 7 | 0 | 0% | |
イングランド学生選抜 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0% | |
イングランドU23 | 2 | 0 | 2 | 0 | 0% | |
オックスフォード大学&ケンブリッジ大学 | 3 | 0 | 3 | 0 | 0% | |
オックスフォード大学 | 4 | 0 | 4 | 0 | 0% | |
ケンブリッジ大学 | 4 | 1 | 3 | 0 | 25% | |
ウェールズ | 10 | 1 | 9 | 0 | 10% | |
ウェールズXV | 3 | 0 | 3 | 0 | 0% | |
ウルグアイ | 5 | 4 | 1 | 0 | 80% | |
オーストラリア | 6 | 0 | 6 | 0 | 0% | |
オーストラリアA | 4 | 0 | 4 | 0 | 0% | |
オーストラリア学生選抜 | 6 | 2 | 4 | 0 | 33.3% | |
クイーンズランド州 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0% | |
オーストラリア・コルツ(U23) | 2 | 1 | 0 | 1 | 50% | |
オランダ | 1 | 0 | 1 | 0 | 0% | |
カザフスタン | 5 | 5 | 0 | 0 | 100% | |
カナダ | 25 | 15 | 8 | 2 | 60% | |
ブリティッシュコロンビア州(BC州) | 6 | 2 | 2 | 2 | 33.3% | |
韓国 | 36 | 29 | 6 | 1 | 80.6% | |
サモア | 18 | 6 | 12 | 0 | 33.3% | |
ジョージア | 6 | 5 | 1 | 0 | 83.3% | |
シンガポール | 1 | 1 | 0 | 0 | 100% | |
ジンバブエ | 1 | 1 | 0 | 0 | 100% | |
スコットランド | 9 | 1 | 8 | 0 | 11.1% | |
スコットランドXV | 4 | 1 | 3 | 0 | 25% | |
スペイン | 3 | 3 | 0 | 0 | 100% | |
スリランカ | 3 | 3 | 0 | 0 | 100% | |
タイ | 1 | 1 | 0 | 0 | 100% | |
チャイニーズタイペイ | 4 | 4 | 0 | 0 | 100% | |
チリ | 1 | 1 | 0 | 0 | 100% | |
トンガ | 19 | 10 | 9 | 0 | 52.6% | |
ニュージーランド | 5 | 0 | 5 | 0 | 0% | |
ニュージーランドXV | 2 | 0 | 2 | 0 | 0% | |
ジュニア・オールブラックス | 3 | 0 | 3 | 0 | 0% | |
マオリ・オールブラックス | 1 | 0 | 1 | 0 | 0% | |
ニュージーランド大学選抜(NZU) | 15 | 2 | 11 | 2 | 13.3% | |
ニュージーランド・コルツ(U23) | 5 | 1 | 4 | 0 | 20% | |
フィジー | 19 | 4 | 15 | 0 | 21.1% | |
フィリピン | 2 | 2 | 0 | 0 | 100% | |
フランス | 6 | 0 | 5 | 1 | 0% | |
フランスXV | 7 | 0 | 7 | 0 | 0% | |
ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズ | 1 | 0 | 1 | 0 | 0% | |
ポルトガル | 1 | 1 | 0 | 0 | 100% | |
香港 | 29 | 24 | 4 | 1 | 82.8% | |
南アフリカ共和国 | 3 | 1 | 2 | 0 | 33.3% | |
ルーマニア | 6 | 5 | 1 | 0 | 83.3% | |
ロシア | 7 | 6 | 1 | 0 | 85.7% |
大会成績(ワールドカップ、太平洋地区、アジア地区)[編集]
ラグビーワールドカップ[編集]
回数(開催年) | ラウンド | 日付 | 開催地 | 対戦相手 | 勝敗 | スコア | 監督・ヘッドコーチ |
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第1回(1987年) | 1次リーグ | 5月24日 | ブリスベン | アメリカ合衆国 | ● | 18-21 | 宮地克実 |
5月30日 | シドニー | イングランド | ● | 7-60 | |||
6月3日 | シドニー | オーストラリア | ● | 23-42 | |||
第2回(1991年) | 1次リーグ | 10月5日 | エディンバラ | スコットランド | ● | 9-47 | 宿澤広朗 |
10月9日 | ダブリン | アイルランド | ● | 16-32 | |||
10月14日 | ベルファスト | ジンバブエ | ○ | 52-8 | |||
第3回(1995年) | 1次リーグ | 5月27日 | ブルームフォンテーン | ウェールズ | ● | 10-57 | 小藪修 |
5月31日 | ブルームフォンテーン | アイルランド | ● | 28-50 | |||
6月4日 | ブルームフォンテーン | ニュージーランド | ● | 17-145 | |||
第4回(1999年) | 1次リーグ | 10月3日 | レクサム | サモア | ● | 9-43 | 平尾誠二 |
10月9日 | カーディフ | ウェールズ | ● | 15-64 | |||
10月16日 | カーディフ | アルゼンチン | ● | 12-33 | |||
第5回(2003年) | 1次リーグ | 10月12日 | タウンズビル | スコットランド | ● | 11-32 | 向井昭吾 |
10月18日 | タウンズビル | フランス | ● | 29-51 | |||
10月23日 | タウンズビル | フィジー | ● | 13-41 | |||
10月27日 | ゴスフォード | アメリカ合衆国 | ● | 26-39 | |||
第6回(2007年) | 1次リーグ | 9月8日 | リヨン | オーストラリア | ● | 3-91 | ジョン・カーワン |
9月12日 | トゥールーズ | フィジー | ● | 31-35 | |||
9月20日 | カーディフ | ウェールズ | ● | 18-72 | |||
9月25日 | ボルドー | カナダ | △ | 12-12 | |||
第7回(2011年) | 1次リーグ | 9月10日 | オークランド | フランス | ● | 21-47 | |
9月16日 | ハミルトン | ニュージーランド | ● | 7-83 | |||
9月21日 | ファンガレイ | トンガ | ● | 18-31 | |||
9月27日 | ネーピア | カナダ | △ | 23-23 | |||
第8回(2015年) | 1次リーグ | 9月19日 | ブライトン | 南アフリカ共和国 | ○ | 34-32 | エディー・ジョーンズ |
9月23日 | グロスター | スコットランド | ● | 10-45 | |||
10月3日 | ミルトン・キーンズ | サモア | ○ | 26-5 | |||
10月11日 | グロスター | アメリカ合衆国 | ○ | 28-18 | |||
第9回(2019年) | 1次リーグ | 9月20日 | 東京都調布市 | ロシア | ○ | 30-10 | ジェイミー・ジョセフ |
9月28日 | 静岡県袋井市 | アイルランド | ○ | 19-12 | |||
10月5日 | 愛知県豊田市 | サモア | ○ | 38-19 | |||
10月13日 | 神奈川県横浜市 | スコットランド | ○ | 28-21 | |||
準々決勝 | 10月20日 | 東京都調布市 | 南アフリカ共和国 | ● | 3-26 | ||
第10回(2023年) | 1次リーグ | 9月10日 | トゥールーズ | チリ | ○ | 42-12 | |
9月17日 | ニース | イングランド | ● | 12-34 | |||
9月28日 | トゥールーズ | サモア | ○ | 28-22 | |||
10月8日 | ナント | アルゼンチン | ● | 27-39 |
パシフィックネイションズカップ[編集]
環太平洋の国々が、強豪国との格差を縮める目的で設立された。
日本も、かつては適度な難度の国際大会として毎回参加していたが、2016年以降は不参加が多かった。2019年にはワールドカップ2019の前哨戦として参加した。2022年はフランスとのテストマッチ2連戦のため参加していない。
2023年7月~8月、パシフィック・ネイションズカップ2023は、日本はワールドカップ2023の前哨戦として参加し、フィジー、サモア、トンガとの4か国で開催された。日本代表は、出場する3試合すべてを日本国内(ホーム)で開催したが、2敗したため世界ランキングが10位から14位に大きく落ちた[103][97][99]。
2024年から大会フォーマットが刷新され、日本、カナダ、アメリカ、フィジー、サモア、トンガの6か国によるプール戦と順位決定トーナメントを行う[104][60][59]。
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アジアラグビーチャンピオンシップ[編集]
しばしばワールドカップのアジア地区出場権1枠を決める大会となる。そのため、2014年まで日本にとって重要な大会だった。現在の日本代表は、アジア相手で常勝し、ワールドカップでは次回出場権を得る結果を出しているため、2017年を最後に参加していない。
★は、日本が翌年のラグビーワールドカップへの出場権を得られたもの。第1回ワールドカップ1987は、日本を含む招待開催のため、アジア地区予選は行われなかった。
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ジャージの変遷[編集]
桜のエンブレムと赤白ストライプ[編集]
Wikipedia上の図では省略されているが、いずれも、左胸部分に桜のエンブレムが入っている[105]。ファーストジャージの赤白ストライプは伝統的な柄であり、途中2003年から2014年までの大きなデザイン変更期でも、一部に赤白ストライプが使われている[105]。2003年版から、左袖に日の丸(日本国旗)が入る[106]。2015年版から、ショーツの右もも正面にも桜のエンブレムが入る[107]。
1930年にカナダへ初の海外遠征が行われ[108][109][110]、日本代表ジャージが作られた。その初戦は9月1日、スタンレー・パーク競技場での全バンクーバー戦で、赤白ストライプの長袖ジャージの左胸には「つぼみ、半開き、全開」の3弁の桜がデザインされていた[108][111][112]。ショーツ、ソックスは白だった。現在のような3弁とも全開したデザインは、1952年10月1日花園ラグビー場で行われたオックスフォード大学戦[113] からである[114]。
カンタベリーが提供[編集]
1982年のジャージは、スズキスポーツ製であることが分かっている[115]。
1987年のワールドカップ第1回から第3回(1995年)までは、セプター製だった[116]。
1997年からはカンタベリーが提供[117]。1999年以降、ワールドカップ開催年の春から夏にかけてリニューアルされている[117][118][119][120][121]。日本ラグビーフットボール協会では「ファーストジャージ/セカンドジャージ」と呼ぶ[122][121]が、そのレプリカジャージを一般販売するカンタベリーでは「ホームジャージ/オルタネイトジャージ」という商品名にしている[123][124]。
1999年版は綿55%、ポリエステル45%と重かったが、2003年版からはポリエステル100%となった[125]。襟(えり)が、2007年版から折り返せないほど小さくなっていき、2015年版から完全に無くなった[126]。
2003年版からの11年間は「赤と黒」が基調となり、上体部分をえんじ色に近い赤で埋め、ストライプは腹または胸に白2本のみの配置で、ショーツとソックスは黒になった。軽量化が進んだが[125]、かなりルーズフィットなデザインだった[127][128][129][125]。2007年版からは上体をぴっちり包むコンプレッション機能が加わり[130][125]、現在まで継承されている。
2015年版は、ワールドカップ2015開幕68日前の7月12日に発表された[131]。2002年までのストライプ主体の原点回帰になり、ショーツとソックスも白に戻った。ストライプに幅の変化やカーブをつけ、スピード感など錯視効果を持たせている。肩部分に赤を広く配置。ショーツとソックスの背面から側面にかけては、ファーストジャージでは赤い曲線、セカンドジャージでは青い曲線を配置[107]。選手の体型の3Dデータをとり、選手用はFW1列目とそれ以外とで型紙が異なる[117]。4種類の素材を部位ごとに使い分け、耐久性・軽量性・着用感・運動追随性の向上を図った[132]。
2015年版デザインのジャージは、2023年3月の高校日本代表の試合[133]、同8月のU17日本代表の試合[134]でも使われた
2019年版は、ワールドカップ2019開幕78日前の7月4日に発表された[135]。「兜」をコンセプトに、縁起の良さを表す吉祥文様が全体を覆っている[136]。赤白ストライプ(セカンドジャージは紺と青のストライプ)の間にゴールドを配色した[137]。正面は谷型ストライプで上体を大きく見せ、背面は山型ストライプで背後から追う敵に遠く見せる効果を持たせている[138]。ショーツの背面に赤い直線(セカンドジャージは青い直線)を配置し、2015年版にあったソックスの赤いラインは無くなった[139]。選手用ジャージは、布の強度の違いなどで、FW1列目用、FW2~3列目用、BK用の3種類がある[138][140]。
2019年版デザインのジャージは、2023年秋も女子日本代表が引き続き使用している[141][142][143]。
2023年版は、ワールドカップ2023開幕77日前の6月23日に発表された[122]。柄は、2019年版の兜のコンセプトや吉祥文様などをほぼ継承したが、胴体部分の赤いストライプが細くなり1本増え、2015年版のように水平線の印象を強めた。大きな特徴として、襟なし丸首となり、首周りに沿って赤い線が一本通り丸首を強調、みぞおち部分に「ドラえもんの鈴」のような赤いアクセントがあり胸の赤いストライプとつながっている。また、胸に大きな白いスペースをとって上体の厚みを強調した。肩部分にも白を広く配置し、全体でも白が目立つ配色になった。ワールドカップ2023着用バージョンでは、開催国フランスの伝統的なアヤメの紋章「フルール・ド・リス」が胸の中央に入り[144]、右胸に大会マーク、左胸に桜、首下にカンタベリーのロゴを配置[145]。ワールドカップ以外の試合では、胸の下の赤いライン上に「リポビタンD」、左胸に桜、右胸にカンタベリーのロゴ、背中の白い部分に「TOSHIBA」のロゴが入る[146]。2022年7月にカンタベリーの店頭や試合会場などでファンからポリエステル100%の衣類を1,266枚回収し[147][148]、選手用にはそのケミカル素材をリサイクル使用した[149]。また、リーグワン選手84人の体型を3Dデジタルデータ化して開発に役立てた[149][122]。2024年3 月使用の高校日本代表ジャージでもこのデザインが使われたが、「ドラえもんの鈴」のような首のアクセントは無くなった[150]。
セカンドジャージの着用機会[編集]
ラグビーでは、原則としてホームやアウェイに関係なく、両チームとも第一候補であるファーストジャージを着用する[151][152]が、相手チームとまぎらわしい場合、話し合いで片方あるいは両方のチームが、第二候補としてのセカンドジャージを着用する[151]。
日本代表の試合では、相手ジャージが赤または白が主体の場合に、セカンドジャージが選択されることが多い。逆に、自国を訪問してくれた相手チームの負担軽減や敬意を表す意味で、ホームチームがセカンドジャージを着るという判断もある[153]。
ワールドカップ2023では、日本代表はプール戦4試合ともファーストジャージで戦うことを大会開幕直前に発表した[154]。
ファーストジャージ[編集]
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セカンドジャージ[編集]
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歴史[編集]
黎明期[編集]
1899年(明治32年)、慶應義塾大学にラグビーが伝えられて[155][156]以来、各大学を中心に競技が広まった。その大学OBの活動を元に、1924年(大正13年)に関東ラグビー蹴球協会、1925年(大正14年)に西部ラグビー蹴球協会ができ、1926年(大正15年)11月30日に日本ラグビー蹴球協会(現在の日本ラグビーフットボール協会)が発足した[157]。
1930年 日本代表誕生、初の海外遠征へ[編集]
初めて日本代表が編成されたのは1930年(昭和5年)8月~10月のカナダ遠征である[158]。香山蕃が初代監督に就任し、全7戦のうち6戦目、9月24日に行われたブリティッシュコロンビア州代表戦 (カナダBC戦)が初のテストマッチ認定試合となり[159]、双方1トライずつで3-3の引き分け(当時のトライは3点[160])となった。この試合には、後に映画俳優となる藤井貢も出場した[161]。日本代表は、この海外遠征で6勝1分の成績を残した[158]。
国内での初テストマッチは、1932年(昭和7年)1月31日のカナダ代表戦。戦績は日本の2戦2勝だった[162][163]。この試合から、後に日本代表の国際試合における最多得点記録(33点)を1970年代まで持ち続けた笠原恒彦が加わった。
その後、海外遠征はなく、国内開催になった[164]。1934年(昭和9年)2月にオーストラリア学生代表戦[注 5][165][166]、1936年(昭和11年)2月には北島忠治が監督となりニュージーランド大学選抜(NZU)戦[167][168]を行い、これが戦前最後のテストマッチとなった。
1952年、テストマッチ再開[編集]
1952年(昭和27年)10月、来日したオックスフォード大学と対戦[169][170]、これが戦後初、16年8か月ぶりのテストマッチとなる。2戦とも得点できず、完敗した[169][170]。1953年(昭和28年)のケンブリッジ大学戦との2戦でも敗れた[171][172]。
1956年から1959年までにも、来日チームとのテストマッチを計10回行ない、1分け9敗だった[173]。そして、1960年から1962年まではテストマッチが行われていない。
当時は、年によって日本代表の体制がまちまちだった。1958年に来日したニュージーランドU23代表(コルツ)に対しては、監督のほかにコーチ3人と選手29人のスコッドを構成して準備万端だったが[174]、1959年のオックスフォード・ケンブリッジ大学連合との試合では、日本代表側はその時だけ招集した臨時チームになっていたという[175]。
1962年(昭和37年)に来日したフランス学生選抜と、テストマッチ不認定ながら日本代表チームとして戦ったが、2敗した[176]。
1963年、戦後初の海外遠征[編集]
1963年、葛西泰二郎が監督に就任し、戦後初の海外遠征として33年ぶりにカナダ遠征を行った。4月13日にブリティッシュコロンビア州代表戦(カナダBC戦)を33-6で制し、海外遠征テストマッチ初勝利を挙げたほか、通算成績4勝1敗の成績を残した[177]。遠征メンバーの中に、後にプロレスラー グレート草津となる草津正武もいた[178]。
1966年~ 大西ジャパン[編集]
1966年に早稲田大の監督を務めていた大西鐡之祐が監督就任。
それまではラグビーでも「全日本」という言い方をしていたが、それではただの寄せ集めチームの名前に過ぎないとして[179]、1966年、代表選手を集めたミーティングで、「いいか、君らは日本を代表して戦うんだ!これから『ジャパン』ということにする。」と説いた[2]。当時は「ジャパン」だけで、ラグビー日本代表を意味していた[注 6]。大学ラグビーで「大西早稲田」「北島明治」など監督名を冠する呼称が一般的だったので、日本代表は「大西ジャパン」と呼ばれた[2]。 現在もヘッドコーチの名前をつけて「〇〇ジャパン」と呼ぶ、そのルーツとなった[2]。
大西は、スター選手の寄せ集め的な日本代表チームの編成に異議を唱え、大胆な選手起用を行った[180]。パスにかかる時間などを計測、客観的な数値を選手に示し、作戦を練った[181]。戦法を統一し、日本人の俊敏さを生かす戦術として「展開・接近・連続」を掲げた[182]。
1か月のニュージーランド遠征[編集]
1968年にニュージーランドとオーストラリアへ遠征し、1か月間で11試合を行った。6月3日のオールブラックスジュニア戦[183]と6月8日のNZU(ニュージーランド大学選抜)戦[184]がテストマッチ対象試合となった。23歳以下で構成するオールブラックスジュニアとの試合では、坂田好弘が4トライを挙げるなどの活躍を見せて23-19で撃破する大金星を挙げた[183]。地元新聞では「NZラグビー暗黒の日」と報道された[185]。この長期遠征は5勝6敗だった[186]。
日本選手権出場辞退事件[編集]
1969年3月に開催された第1回のアジアラグビーフットボール大会(アジア選手権ともいう)で優勝[187][188]。
1970年、タイ・バンコクで開催の第2回アジア選手権は1月10日から18日までの開催で、1月15日の第7回日本ラグビーフットボール選手権大会(日本選手権)と日程が重なった。このため、アジア選手権の開幕直前に、前年優勝の近鉄、準優勝のトヨタ自工、同3位の三菱自工京都の3チームは、アジア選手権に主力選手を投入するため、日本選手権出場を辞退する騒動が起きた(詳しくは、日本ラグビーフットボール選手権大会#日本選手権の辞退を参照)。結果、第2回アジア選手権で日本代表は連覇を果たした[189]が、第7回日本選手権では社会人チームが勝利できなかった[190]。
1970年3月にNZU(ニュージーランド大学選抜)とカナダBC代表(ブリティッシュコロンビア州代表)を日本に招いたが、エース坂田好弘は当時ニュージーランド留学中のため、NZUのメンバーとして出場した。結果、BC代表には32-3で快勝したが[191]、NZUには3戦全敗[192][193][194]。大西ジャパン時代は、NZUに勝つことができなかった。
イングランド相手に大健闘[編集]
1971年9月、イングランド代表が来日。アジア大会以外で、ナショナルチームとの対戦が初めて実現した[195]。24日の花園での試合では、5度にわたる逆転劇の末、 19-27で敗れた[196]。
28日の秩父宮では、双方ノートライで、日本の得点は山口良治が挙げた1ペナルティゴールのみだったが[197]、後半32分頃にあと2センチあればトライを取れていたプレイがあるなど、イングランドと互角に渡り合い、3-6で惜敗した[198] 。これは日本代表試合史に残るベストゲームとして語り継がれている[199][200][201][202]。この後、大西は監督を辞任した。
1972年~ 相次ぐ海外遠征[編集]
海外遠征の増加[編集]
1972年に同志社大学の指揮を執る岡仁詩が後継監督となった。23歳未満で構成のオーストラリア代表コルツが来日し1勝1分を記録する[203][177] など、国内強化試合を含めて無敗を記録した。8月、岡が指導する同志社大で練習中に部員が死亡する事故が起き[204]、岡は監督を辞任した。
1973年イギリス・フランス遠征の監督には急遽横井久が就任、当時主将は実弟の横井章が務めており、「横井兄弟体制」となった。10月6日に当時世界一の評価を得ていたウェールズと、10月28日にフランスと、それぞれ初のテストマッチを行なった。ウェールズには14-62で敗れたが、フランス戦では18-30と健闘した[204]。
1974年、明治大学OBの斎藤寮が監督に就任し、4月下旬から1か月にわたり、6年ぶりにニュージーランド遠征を実施。遠征最終戦で、「大西ジャパン」時代でも勝利できなかったNZU(ニュージーランド大学選抜)に対し、「アニマル」こと藤原優の逆転トライが利いて24-21で初勝利を挙げた[205]。
1975年、岡仁詩が監督に復帰し、7月中旬から約1か月間、オーストラリア遠征を実施した。オーストラリア代表とテストマッチを2試合行い、第2試合では25-30と健闘した[206]。この頃までは、IRFB正加盟国8カ国[注 7]の代表に対し、勝てないまでも、健闘する試合が少なくなかった[206]。
1975年9月24日、来日したウェールズとの第2試合もノートライで6-82の大敗だったが、「Red Devil(赤い悪魔)」と呼ばれた長身のウィング、J・Jウィリアムズを小柄な石塚武生がタックルで止めたプレーは高く評価され、石塚は試合後に胴上げされた[207]。
ラグビーブームとは裏腹の日々[編集]
1970年代後半から80年代前半まで、大学チームを中心に国内ラグビーが空前のブームとなった。早明戦や早慶戦、全国大学ラグビーフットボール選手権大会、日本ラグビーフットボール選手権大会では、スタンドがほぼ満席になった[208]。しかし日本代表は、アジア諸国相手にしか勝てないという戦績だった[177]。1975年のオーストラリア遠征から1980年までのうち、キャップ対象試合で日本代表が勝利したのは、アジア選手権において3回韓国を破ったのみ[209][210][211]。それ以外では、1979年5月にイングランド戦の惜敗(19-21)[212]があったものの、1引き分けを挟んで19連敗を喫した[177]。
1981年3月にオーストラリア学生選抜戦でようやくアジア勢以外から勝利[211] すると、1982年1月香港戦[213]と4月カナダ戦に勝利し[214]テストマッチ5連勝を記録した[177]。1982年9月26日にはNZUから国内初勝利を挙げた[214] 。
1983年ウェールズ遠征の成功[編集]
1983年10月の遠征でウェールズ代表に24-29と惜敗した試合は、イギリスのメディアでも高く評価された[215] [216]。一方では韓国に敗れて[217]アジア王者から陥落した第8回アジア選手権[177] などがあり、安定しなかった。
この間の代表監督は、就任期間が短期間であることが少なくなかったばかりか、新任監督が誕生せず、過去の経験者が二度目、三度目の就任をするなどしていた。当時、国内の爆発的なラグビー人気があり[218][219]、かつ松尾雄治などのタレントを擁しながらも[220]、国外チームと戦う日本代表は成績が振るわなかった。
キャップ制度の導入[編集]
1982年12月17日、日本ラグビー協会はテストマッチ出場選手にキャップを授与し表彰する制度の導入を決定した。1930年9月24日の初めてのテストマッチまでさかのぼって77試合254人の出場選手に対し、1983年1月16日にキャップ授与を行った[221]。
1987年~ 第1回ワールドカップ[編集]
初のワールドカップ[編集]
長年ラグビーには世界一を決める大会がなく、日本は海外遠征やラグビー強豪国(IRFB正加盟国8か国)[注 7]を招いて勝利することが悲願であったが、実力が及ばず、試合機会も少なかった。そんな中、1987年にラグビーワールドカップが創設され、第1回大会に日本を含む16チームが招待された。
しかし、第1回ワールドカップの招待を受けたにもかかわらず、岡仁詩監督が大会直前になってニュージーランドへの研修留学という名目で辞任[222]。急遽宮地克実が監督に就任した。後年、宮地は「どたばたしてしまったね。大会直前に岡さんが監督を辞めて、FWコーチだった自分に回ってきた。本当に急だった」と振り返っている[223]。初戦のアメリカ戦ではペナルティキックを5回も外し[223]、勝てる期待の高かった試合を18-21で落とした。続くイングランド戦で7-60、オーストラリア戦で23-42と、3戦全敗で予選敗退となった[224][225]。
1986年9月のスコットランド戦[226]から連敗が止まらなかった。その間、日比野弘が1987年10月に監督に再任された[224]が、1988年11月の韓国戦までで11連敗となり、辞任した[227]。
1989年~ 宿澤ジャパン[編集]
銀行員から監督に[編集]
1989年1月、宿澤広朗が監督就任[228]。宿澤は早大時代にラグビー日本選手権2連覇達成の立役者の一人で、「伝説のスクラム・ハーフ」と言われていたが、当時は住友銀行の英国支店に勤務しており、ラグビー界から遠ざかっていた[229]。日本代表の新任監督は、1980年の山本巌以来、9年ぶり。
スコットランド相手に「金星」[編集]
1989年5月28日秩父宮ラグビー場で、宿澤ジャパンとして初めての国際試合が、これまで3戦全敗のスコットランドと行われた。スコットランド代表メンバーのうち、中心選手9名はブリティッシュ・ライオンズのメンバーとしてNZに遠征中だったため[230]、ベストの布陣とは言えず代表扱いではないチームとして「スコットランドXV(フィフティーン)」と名乗っていた[231]。
当日は晴天、最高気温25℃の夏日[232]で午後2時開始のため、その気温はスコットランドに不利であり、PGを7本も外すというスコットランドの不調があった[233]とはいえ、日本の5トライに対してスコットランドを1トライに抑え、28-24のスコアで勝利[234][235]。旧IRBファウンデーション8か国[注 7]の1つを破る金星となった。試合後「宿澤コール」が会場に鳴り響き、宿澤監督は胴上げをされた[229][236]。
スポーツ新聞各紙はこの金星を一面で大々的に報道したほか、雑誌Sports Graphic Number「第8回Number MVP賞」を日本代表チームが受賞した[237][238]。
この試合の主将に、神戸製鋼の主将でもあった平尾誠二が就き、シナリ・ラトゥ、吉田義人、堀越正巳、青木忍といった現役大学生をレギュラーに抜擢した[239]。そのため、たった1戦の指揮しか行なっていないにもかかわらず、「宿澤は日本のラグビーを変えた」とまで言われるようになった[240]。
この試合は、日本側ではキャップ授与対象のテストマッチ扱いだが、スコットランド側は上記のように自国では代表チームではないとしてテストマッチとは認めておらず、スコットランドの選手にキャップは授与されていない。
テストマッチの基準を変更[編集]
その後は、日本側のみがテストマッチとする対戦のあり方を、宿澤は抜本的に見直した。
各国代表チーム以外のチームとの対戦(二軍に相当するXVチームやA代表チーム、大学生チーム、州代表などとの試合)については、テストマッチとはみなさないことにした。この基準は現在も「ワールドラグビーが認めた国際試合」として踏襲されている。ただし、過去に日本協会がテストマッチ認定した試合については、現在の基準を満たしていなくても、取り消しは行わない。
1989年9月のカナダ遠征では、カナダBC(ブリティッシュコロンビア州)XV(二軍)戦とカナダBC代表戦の2試合が行われた。カナダBC代表戦は、過去の基準ではテストマッチとしていたが、この試合からは「強化試合」扱いとなった[241][230]。日本ラグビーフットボール協会公式サイト「日本協会主催試合・国際試合一覧」で、1990年の前後でテストマッチとなるチームが大きく変わったことが確認できる[242]。
強豪国との対戦無し[編集]
1989年カナダ遠征での強化試合で2敗、翌1990年3月のフィジー戦でも完敗した[230]。ワールドカップ1991のアジア太平洋地区予選は1990年4月に行われ、トンガ、韓国を破って2大会連続でワールドカップ出場を決めた[243]。しかし、1990年4月から1991年5月までテストマッチ6連敗となった[243][244]。
1989年スコットランド戦の金星があったとはいえ、その後は強豪国相手ではなく、日本代表とレベルの近いチームとの対戦を宿澤は志向したため、強豪IRB8か国[注 8]との対戦は、ラグビーワールドカップ1991までの2年間は行われなかった[230][243][244]。しかしワールドカップを迎えるにあたって、宿澤の情報収集力や明快な選手起用方針などから、宿澤ジャパンに対する評価は、不安よりも期待感のほうが高まっていた[245]。
ワールドカップ1991で初勝利[編集]
ワールドカップ1991でプールBに入った日本は、優勝候補の一角スコットランドと初戦を迎えた。2年前のような勝利を期待していた日本のラグビーファンも多かったが、前半は9-17で折り返したものの、後半はスコットランドの一方的展開となり9-47で完敗した[246][247][248]。
続くアイルランド戦は、初戦から中3日で行われた。吉田義人の70m独走トライなどが見られ拮抗した内容になったものの、16-32で敗北[249]。この時点で予選敗退が決まった[250]。
1991年10月14日、最終戦のジンバブエ戦では、日本は本大会最多の9トライを奪う猛攻を見せて、52-8でワールドカップ初勝利を収めた[251][245][252]。
結局、1勝2敗でプールステージ敗退となった[253]。
1993年~ 歴史的大敗の時代[編集]
ワールドカップ1995に向けた準備[編集]
ワールドカップ終了後、宿澤が退任し、新日鐵釜石時代に監督として日本選手権で3度の優勝に導いた小藪修が就任した。
小藪はチームコンセプトとして、大会直前にルーマニアに快勝した戦略「タテ・タテ・ヨコ」(ボールが出てから、フォワードが前への突進を連続して行い距離をかせいだ後、バックスへ展開しトライのチャンスを得る)というパワーラグビーを志向した[254]。しかし、アジア諸国相手には勝てるものの、強豪国相手には通用しなかった。
10年ぶりウェールズ戦の失敗[編集]
1993年10月のウェールズ遠征では、10年前に高い評価を受けたため、期待が大きかった[216]。しかしウェールズ代表に5-55で大敗、二軍のAチームにも惨敗を喫した[255]。この結果は「失われた10年」と批判され[216]、小藪解任論が噴出した。
1994年5月、フィジーとのテストマッチで連勝[256][257]。1994年の第14回アジア選手権決勝で韓国を破り[258]、3大会連続のワールドカップ出場権を得た。
145失点「ブルームフォンテーンの悪夢」[編集]
1995年、南アフリカで開催の第3回ワールドカップでは全く歯が立たなかった[259]。1戦目5月27日のウェールズ戦で10-57[260]、2戦目5月31日のアイルランド戦で28-50[261]と完敗。この時点で3大会連続となる予選プール敗退が決定した。
一部の主力選手たちは、ワールドカップ期間中にゴルフに興じたり、明け方までカジノで遊んだり、二日酔いで練習中に嘔吐する者もいた[262][263][264]。
当時27歳で初参加の今泉清は、スタッフが日本からゴルフ道具を持ってきていたと証言しており[263]、南アフリカの警備担当の警察官から「お前たちはワールドカップに何をしに来たんだ? ゴルフとカジノに来たのか?」と問われ、日本代表の意識の低さを悲しんだ[263]。当時26歳でW杯出場2回目の吉田義人は、「国を代表して戦いに来ているのに、信じられなかった。日本代表として一つになれなかったことが一番悔しかった」と振り返っている[262]。W杯第2回から第4回までの3大会連続で参加した村田亙は、第3回の日本代表について「W杯に臨むという体制も気構えもできていなかった。それが第2回大会の宿澤ジャパンとの大きな違いだ」と語る[265]。チーム内の摩擦を避けるため、カジノやゴルフで遊ぶ者に対して、目をつぶる者もいたという[264]。
6月4日、2戦目までと同じくブルームフォンテーンのフリーステイト・スタジアムで行われた3戦目では、決勝トーナメント進出を決めていたニュージーランドは、控え選手主体のメンバーだった。日本代表も一部の主力選手(平尾誠二など)が出場しなかった。
主将を務めた薫田真広(当時28歳)は、「ニュージーランド戦の直前まで出場メンバーが決まらないなど、スタッフも選手も準備ができていなかった」と明かしている[266]。
ニュージーランドには前半だけで12トライ、後半に9トライを取られるなど、17-145と歴史的大敗をした[267]。ニュージーランド戦では過去に100失点以上を経験していたため、戦う前から日本代表の大敗は予想されていたとはいえ、「ブルームフォンテーンの悪夢(悲劇・惨劇・国辱とも)」と呼ばれる歴史的な大敗を喫した[268][269][264][270]。
この試合によりニュージーランドはプール戦において225得点、日本は252失点。ラグビーワールドカップ史上、プール戦最大得点、プール戦最大失点はいまだ破られていない記録である。1試合での得点差(128点)も、当時はワースト記録だった(第5回ワールドカップ2003でオーストラリア対ナミビアで142-0になり、得点差のワースト記録が更新された[271])。
ワールドカップ1995を開催した頃の南アフリカを舞台とする映画「インビクタス/負けざる者たち」(2009年公開)で、南アフリカ大統領ネルソン・マンデラが、ニュージーランドが日本から145得点した情報に驚くシーンがある。
また、この試合には、後に日本代表ヘッドコーチになるジェイミー・ジョセフが、後半からニュージーランド側のフランカーで出場している[272]。
この南アフリカ大会から、ラインアウト時にボールキャッチする選手をリフトアップするサポート行為が正式に認められていた[273]。しかし日本代表チームはその準備をしておらず、試合で相手チームがリフトアップサポートを行っても、日本は行わなかった。それも大きな不利となった[274]。
大会後、小藪は監督を退任した。この惨敗は、その2年前に発足したサッカーJリーグ人気の日本で、ラグビーの人気が低迷する一因となったという指摘がある[275]。
ラグビーユニオンがプロ化[編集]
1995年8月26日、IRFB(国際ラグビーフットボール評議会)がラグビーユニオンのオープン化(プロ化)を宣言した[276]。選手の報酬制限やメディア活動制限など、それまでのアマチュアリズムが全て撤廃されることになった。日本ラグビーフットボール協会は選手のプロ化についての検討・対策を始めたが、日本協会がプロ化宣言したのは5年以上たった2001年1月のことだった[277][278]。
1996年[編集]
後任の監督には、サントリーの部長だった山本巌が3度目の就任となった。1996年から毎年開催することになった太平洋上と沿岸の国々によるパシフィック・リム選手権では、第1回大会で2勝4敗の最下位に終わり[279]、山本は同年限りで退任した。
1997年 平尾ジャパン[編集]
1997年、平尾誠二が監督に就任。平尾は、競技人口の減少を背景に「平尾プロジェクト」を立ち上げ[280]、これは、埋もれた逸材や、他のスポーツの優秀な選手を取り込み育成し、日本代表選手を発掘するコンセプトだったが、成果は挙げられなかった[280]。1997年パシフィック・リム選手権でカナダに32-31に逆転勝利した以外は全敗し、1勝5敗の最下位に終わった[279]。
1998年、日本代表として初めて外国籍選手のアンドリュー・マコーミックが主将なった[281]。第4回ワールドカップのアジア予選の壮行試合となったアルゼンチン戦に44-29で勝利[282]。ワールドカップ1999アジア予選でも優勝し[283]、4大会連続のW杯出場を決めた。
1999年5月~7月の第4回パシフィック・リム選手権で初優勝を果たした[279]。
ワールドカップ1999当時の日本代表には、元オールブラックスのジェイミー・ジョセフ(17年後に日本代表ヘッドコーチに就任)など、ニュージーランド出身の選手が5名登録され[284]、その人数の多さから、イギリスBBCなど海外メディアから「Cherry Blacks(チェリー・ブラックス)」と報じられた[285][286][287]。これに対し平尾監督は「人種や国籍ではなく、共通の目的とビジョンで団結している」とイギリスのガーディアン紙に反論している[288]。
ワールドカップ1999は3戦全敗に終わり、プール敗退となったが、パシフィック・リム選手権優勝が評価され、平尾体制を継続していくことを決めた[289][290]。
2000年、第5回パシフィック・リム選手権では5戦全敗となり最下位[279]。11月のフランス・アイルランド遠征では、アイルランドU25代表に13−83、アイルランド代表に9-78の大敗を喫した[291][292]。11月25日、日本協会は平尾の監督辞任を了承した[293]。
2001年~ 再建への試行錯誤[編集]
日本代表選手のプロ化容認[編集]
2001年1月、日本ラグビーフットボール協会が「アマ・プロのオープン化」を宣言(プロ化容認)した[294][278]。協会は日本代表選手についてオープン化を実施[295]。5月〜6月に、計8名の日本代表選手が日本ラグビーフットボール協会と専従契約を結んだほか、活躍に応じた報酬規定などが定められた[295]。
大正製薬がスポンサーに[編集]
平尾の辞任を受け、宿澤広朗が強化委員長に就任[296]。宿澤からのオファーにより、2001年から大正製薬が日本代表のスポンサーになった[297][298]。以後、日本代表戦は国内開催で「リポビタンDチャレンジカップ」、海外遠征で「リポビタンDツアー」の冠名がつく。
学閥排除でも不調[編集]
宿澤は、自身の出身校である早稲田大学を含めた、日本ラグビー界にはびこる「学閥」[299][300][301][302]の排除の意味も込めて、監督時代に東芝府中の黄金時代を築いた、東海大学出身の向井昭吾を監督に招へいした。
向井は、東芝府中監督時代に「PからGO」のキャッチフレーズを掲げ、相手がペナルティを与えられたらペナルティキックやラインアウトへのキックを狙わずに間髪入れず素早い攻撃を仕掛けるという戦法を駆使し、日本選手権3連覇などの実績を挙げていた[303]。
この戦術に対し、他国チームは逆にセットプレーが日本の弱点だと考え、そこを突いてきた。日本はフィジカル不足などのためほとんど対応できなかった[304]。
結局、向井時代にアジア諸国以外のテストマッチで勝利したのは、2001年カナダ戦[305]と、2002年ロシア戦[306]のみだった。
ワールドカップ地区予選となる2002年アジア3国対抗では、2002年7月6日に国立競技場で行われたチャイニーズタイペイ戦で155-3で勝利し、日本代表として最多得点試合となった[307][308]。さらに韓国にも勝利し、W杯出場権を得た。しかし、秋からのアジアラグビーフットボール大会では格下の韓国に敗北を喫し、優勝を逃した[309]。
2003年10月、ワールドカップ2003に向けた壮行会でジャパンラグビー応援ソングとして、ゆず『威風堂々』が発表される[310][311]。
Brave Blossoms誕生[編集]
ワールドカップ2003は4戦全敗 (3大会連続の全敗)[312] でプール敗退となったが、初戦2003年10月12日のスコットランド戦で11−32[313]と健闘したことから、地元オーストラリアの新聞コラムで記者のRich Freemanが「Brave Blossoms」(勇敢な桜たち)というニックネームをつけた[314][315]。これがラグビー日本代表の愛称となる。
向井監督は「世界の背中が見えた」とコメントした[316][317]が、大会終了後に解任された。
2003年9月13日に社会人のトップリーグ初年度が開幕した。その第2節は9月21日まで、第3節は11月8日からと、ワールドカップ2003での日本代表プール戦の期間(10月12日から10月27日まで)は休止した[318]。
迷走時代突入[編集]
2004年3月、神戸製鋼コベルコスティーラーズのヘッドコーチだった萩本光威が監督に就任[319]。当初、同年のスーパーパワーズカップでロシアとカナダを破って優勝[320][321]、世界ランキングが過去最高の18位まで躍進した[322]。しかし続くイタリアには敗戦し[323]、11月欧州遠征において、スコットランドに8-100[324]、ルーマニアに10-25[325]、ウェールズに0-98[326] と、いずれも完敗ないし大敗したため、監督解任論が出た[327][328]。
しかし、萩本監督解任を唱えた向井昭吾、春口廣、清宮克幸の3名が、逆にラグビー協会内の監督評価機関である8強会議(世界8強進出対策会議)の委員を解任された。また、欧州遠征と前後して日本代表のフィットネスコーチ、選手2名が相次いで深夜未明の繁華街でのトラブルで合宿中に逮捕される不祥事が起きた[329] が、監督の萩本には協会規定で最も軽い「警告」という処分にとどまった[329]。
翌2005年4月の南米遠征でウルグアイ、アルゼンチンに連敗[330][331]。さらに5月から6月にかけてカナダ戦、アイルランド戦(2試合)にもそれぞれ大差で敗れたため[332][333][334]、萩本は監督を解任された。
ヘッドコーチ制を導入[編集]
これを契機に、強化委員長・監督という指導体制に限界を感じた日本ラグビー協会は、海外で一般的になっている分業制を導入し、ヘッドコーチ(HC)はコーチたちのリーダーとして現場で指揮をとり、ゼネラルマネージャー(GM)はチーム強化に関する総合マネジメントを行う体制に変わることになった[335]。これにより、親代わりのように各選手のマネジメントまで行う学生ラグビーの監督などと異なり、日本文化に詳しくない外国人であっても、現場指揮だけに徹する人材としてヘッドコーチに起用することが可能になった。
2005年8月、初代GMにNECグリーンロケッツの太田治、HCには、初の外国人指導者となるジャン=ピエール・エリサルドが就いた。新体制下の日本代表は、2005年11月から2006年5月にかけてテストマッチ4連勝(スペイン、アラビアンガルフ、韓国、グルジア)を果たし[177] 上々の滑り出しと思われた。しかし2006年6月からの第1回パシフィック・ネイションズカップ(PNC)は4戦全敗[177] で最下位に終わった。
兼業ヘッドコーチを契約解除[編集]
2006年9月、エリサルドHCが、フランスのクラブチーム・バイヨンヌのスポーツマネジャーにも就任したことが判明した。日本ラグビー協会は、契約書には兼職を規制する「日本代表HC専任」の条項がないことを明らかにすると同時に、日本協会はHCに専念するよう求めたが、エリサルドが拒否した[336]。このため日本ラグビー協会は、ワールドカップ10か月前となる10月31日付でエリサルドを契約解除した[336][337][338][339]。
その後2か月は、暫定的にGMの太田治がHCを兼務した。そして太田は、かつてNECでチームメイトであり、第1回W杯におけるニュージーランド優勝の立役者ジョン・カーワンに白羽の矢を立てることになる。
2007年~ JKジャパンの5年間[編集]
急ごしらえでワールドカップ2007へ[編集]
太田HC代行体制による2006年11月のW杯アジア予選で、韓国と香港に快勝し、6大会連続のワールドカップ出場を決めた。
ワールドカップ2007まで8か月を切った2007年1月9日(就任は同年1月1日付)、日本協会はジョン・カーワンをヘッドコーチ とすることを発表、「JKジャパン」が発足した[340]。カーワンは1984年から1994年までオールブラックスに在籍したスーパースターであり、1987年第1回ワールドカップのイタリア戦での90メートル独走トライで知られていた[341][342]。また晩年にはNECでもプレー経験があり[340]、日本のラグビーファンにも知名度があった[342]。現役引退後はイタリア代表のヘッドコーチを務めた[340][342]。
既にワールドカップ出場を決めているため、カーワンに求められたのはワールドカップでの実績だった。カーワンは、フィジーとカナダ相手に2勝すること[340][343]を主眼におき、決勝トーナメント(各プール2位まで)には残れなくとも、3位(同位以内であれば、次回のW杯予選が免除される)になる計画だった[344]。
ワールドカップ前のパシフィック・ネイションズカップ(PNC)では1勝4敗で最下位[345]。8月18日にイタリアのサン=ヴァンサンで行われたイタリア戦も12-36で完敗した[346]。
主力を温存し、強豪相手に「捨てゲーム」[編集]
ワールドカップ2007開幕直前に、エースの大畑大介[347]、山本貢[348]、安藤栄次[349]の3選手が怪我により帰国するといった事態に見舞われた。
カーワンは、日本代表を主力選手とリザーブ(控え選手)との2チームに分けた。強豪のオーストラリア戦とウェールズ戦は「捨てゲーム」としてリザーブ主体で戦い、フィジー戦とカナダ戦に主力選手を使い、2勝を目指した[350][351][352]。
初戦オーストラリア戦は3-91で大敗した[353]が、最初から「捨てゲーム」としていたカーワンは「想定の範囲内」とした。しかし、続くフィジー戦では、日本チームが主力選手中心で構成したにもかかわらず、31-35で敗北[354][353]。さらに9月20日に「捨てゲーム」のウェールズ戦を18-72で大敗し[353][352]、6大会連続の予選プール敗退が決定した[355]。1995年W杯のウェールズ戦から数えて13連敗となった。
9月25日の最終戦カナダに勝っても、最低限の目標「次回W杯出場権獲得となる3位以内」も難しくなった。カナダ戦では、試合終了直前まで5-12でリードされ、4大会連続の全敗が確実視されたが、ロスタイムに平浩二がトライを決めて2点差まで迫り、大西将太郎がゴールキックを決め12-12の引き分けとなった[356]。日本は14試合ぶりに敗戦を免れ、4大会ぶりに予選プール最下位を免れたが、次回ワールドカップ2011の優先出場権は得られなかった[351][352][357]。
JK続投[編集]
目標としていた「ワールドカップ2勝」はできなかったものの、準備期間が短かったことや、けが人が続出した中で予選プール最下位を免れたことを評価し、日本協会は引き続きカーワンに託した[352]。
2008年、同年から始まったアジア5カ国対抗で優勝。パシフィック・ネイションズカップ(PNC)は前年同様1勝4敗に終わったが、トンガには前年に続き勝利。
続く11月のアメリカ来日シリーズでは連勝した。その11月16日の試合では、日本で初めてTMO(テレビジョンマッチオフィシャル)を実施した。当時はトライの可否に関する確認のみの運用[358]。前半30分でTMOが行われ、日本のトライが認められなかった[359]。なお、ワールドラグビーでのTMO採用はワールドカップ2003から[360]。
2009年、アジア5カ国対抗を連覇。続くパシフィック・ネイションズカップはトンガに3年連続で勝利したが1勝3敗に終わった。
ワールドカップの日本開催が決定[編集]
2009年7月28日に行われた国際ラグビー評議会(IRB)の理事会で、2019年のラグビーワールドカップ開催国に日本が決定した[361]。同年11月、来日したカナダに連勝し[362][363]、世界ランキングが過去最高の13位になった[364]。
2010年5月、アジア5カ国対抗で3連覇し「アジア地区1位」枠として、7大会連続となるワールドカップ2011への出場を決めた[365][366]。
2010年6月のパシフィック・ネイションズカップでは3位とはいえ、サモア、フィジーと同じく2勝1敗の好成績を挙げ[367]、世界ランキングが過去最高の12位になった[368]。10月30日の